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くるいきちがい考 ちくま文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房 |
発売年月日 | 1986/05/27 |
JAN | 9784480020543 |
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くるいきちがい考
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商品レビュー
3.9
11件のお客様レビュー
狂っているかいないか、キチガイなのか普通なのかを決めるのは、それぞれの価値観から逸脱した部分が大きければ狂っているキチガイと決めつけられてしまう。平均や標準であることに縛られすぎているのではないか。 不安を克服しない人たちが、やがて社会全体を狂わしてしまう。
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さっくり終了。対話の形式は個人的にはちょい読みにくい。飛ばし読み泣かせ。上野千鶴子の解説が印象に残る。
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おそらく、精神科医という仕事をやっていれば、一度は誰だって考えるに違いない。クルウということは一体どういうことを示しているのか。 まずはクルッテイルというのはどういう時かというところから、スタートする。大体において、自分がクルッテイルではなく、世の中とか、他人がクルッテイルという...
おそらく、精神科医という仕事をやっていれば、一度は誰だって考えるに違いない。クルウということは一体どういうことを示しているのか。 まずはクルッテイルというのはどういう時かというところから、スタートする。大体において、自分がクルッテイルではなく、世の中とか、他人がクルッテイルということが考えられた。 次に、クルッテイルと考えるのは、どのような気持ちからくるものなのか、検討する。自分の知らない、未知のものに対して、ひとはクルッテイルという。なおかつ、それが危害を加えうると、恐怖が喚起されれば、余計にそうである。そういうものを集めて、クルッテイルと見なす。それが世のクルイを作り出す。 常識がクルイを作り出す。常識を疑うというけれど、常識とは、最初からクルッタものなのである。常識自体、クルイの常識である。 生きているかぎり、この、常識というところから抜け出ることはできない。どんなクルイであっても、それもまた、ひとつの常識の中に包含されてしまう。真の意味で発狂するということがどうしてもできないのである。 精神科医の仕事とは、クルッタものを見なすことではなく、病という見立ての中にそのひとを置いて考えてみることである。いわゆる、病気というものを想定することで、説明がつくのであれば、その病気に有効な手立てが使える。それはクルッタことを治すことを必ずしも意味していない。 しかし、精神科医の想定する病気というものが、これまた厄介な存在なのである。何を病と見なすのか。それは見立てのできる病なのか。これが難しいのである。 現在の多くの精神病の見立ては、症状から推定される。こういう症状が出てればこういう病気、という操作的診断基準。しかし、これは何も見立てられない。これはただのカテゴライズであって、結局、その症状が何から生じているのか、見立てにならないのである。 医学の多くは、原因を取り除くことで症状の改善を試みる。器質的なものならそれを取り除く。心理的なものなら、その刺激を与えないようにする。認知の仕方が誤っているのなら、その認知をなくさせる。 だが、精神病の多くが、その原因がまったくといっていいほどつかめないのだ。確かに遺伝もあるが必ずしもそうとは言い切れない。環境的なストレスもあるが同じ環境に置かれても発狂するひともいれば、しないひともいる。 そもそもクルッテイルという事態そのものが、原因なく生じるからこそ、クルッテイルものなのであるから、原因がわかっていたら、誰もそれをクルイとは言わないはずである。 ゆえに、精神病に関して、見立てを持とうとすること自体が難しいことなのである。 そこで、彼は、原因がひとつではない、という多元論を採用しているのである。別にそう考えるのは構わない。だが、そのように考える時、必ず原因相互の関連という問題に陥らざるを得ないのである。独立に影響しあっているのなら、それらをすべて潰せば病は生じない。だが、そううまくいっていないのが現実である。 独立していないのであれば、原因相互はどのように関連しているのか、考えなければならない。薬物を用いて不安がなくなり、脅迫行動が減ったという。薬物が働きかけるのは物質的身体であるから、そうすると、身体とこの精神のつながりというものを別のもので媒介しないといけない。 彼は気付かなかったのか。精神科医を訪れるのは、葛藤を抱えたひとたちであるというのなら、そこにしか病気は存在しえないということに。真に病気であることが、ただの見なしに過ぎないというのであれば、病気だと考えている人間のそこにしかないということに。要は病気であると思う人間が、それは病気ではないと思ってしまえば、病気はなくなってしまうはずなのだ。 まだこのころの彼はそのことを考えるに至っていない。だが、やがて彼は知る。集団ヒステリーを神への祈りへと変えたあの宗教が、目指しているのはまさにこのことであったということに。
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