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足利義政 の商品レビュー

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2025/04/21

義政像の再検討: 従来、応仁の乱を招いた無能な将軍と評価されがちな足利義政に対し、本書は「有能・無能」の二元論を排し、疫病や飢饉が頻発した時代背景、室町幕府制度の転換期という文脈で、為政者としての義政の志向や行動を客観的に考察する。 将軍就任と初期政権: 父・義教の暗殺、兄・義勝...

義政像の再検討: 従来、応仁の乱を招いた無能な将軍と評価されがちな足利義政に対し、本書は「有能・無能」の二元論を排し、疫病や飢饉が頻発した時代背景、室町幕府制度の転換期という文脈で、為政者としての義政の志向や行動を客観的に考察する。 将軍就任と初期政権: 父・義教の暗殺、兄・義勝の夭折を受け、有力守護大名(細川持之ら)の擁立により幼くして将軍に就任。当初は管領や政所執事が政治を主導した。 親政への道と側近・対立: 従三位への異例の任官など公家との関係を築きつつ親政を目指すが、「今参局」や伊勢貞親ら側近が台頭し影響力を増大させる。畠山氏・斯波氏らの家督相続問題への介入は、幕府内の対立を深め、後の応仁の乱の火種となる。将軍直轄の文書(御判御教書)発給を進めるも、将軍権力の確立は難航した。 応仁・文明の乱: 将軍後継者問題(実子・義尚 vs 弟・義視)と、有力守護・細川勝元と山名宗全(持豊)の対立が結びつき、応仁・文明の乱(1467-1477)が勃発。義政は当初、事態収拾を図るも有効な策を打てず、伊勢貞親の失脚や義視の出奔など政局は混乱。乱は長期化し、京都は荒廃、幕府の権威は失墜した。 戦乱下の動向と晩年: 乱の長期化とともに政治への関心を失い、文化活動に傾倒。義尚に将軍職を譲位後も大御所として一定の影響力を保持したが、実権は揺らぎ、正室・日野富子との不和も表面化。晩年は東山山荘(後の慈照寺銀閣)の造営に注力した。 東山文化の開花: 政治的混乱とは対照的に、東山山荘を拠点に文化活動を積極的に支援。能阿弥・相阿弥ら同朋衆を重用し、水墨画、書院造、庭園、能楽、茶の湯、連歌などが洗練・発展した「東山文化」を築き上げた。「東山御物」と呼ばれる唐物コレクションを形成する一方、和物の価値向上にも努めた。 歴史的遺産: 応仁の乱を経て幕府の衰退は決定的となり、戦国時代の到来を早めた。義政自身の血統は途絶えるが、彼が生きた時代は武家故実が確立され、東山文化は後世の日本文化に大きな影響を与えた。

Posted byブクログ