古河公方と小田原北条氏 の商品レビュー
「国府台合戦」「河越夜戦」など、享徳の乱以降関東で広がった戦国時代の戦は、現代の日本史的にはあまり知られていない気がする。そもそも江戸時代の戦記物での紹介は誇張が多く「夜戦」だったという証拠も無いらしい。この本のように学問的にまとめられた歴史記述は、少し味気ないが基礎知識として読...
「国府台合戦」「河越夜戦」など、享徳の乱以降関東で広がった戦国時代の戦は、現代の日本史的にはあまり知られていない気がする。そもそも江戸時代の戦記物での紹介は誇張が多く「夜戦」だったという証拠も無いらしい。この本のように学問的にまとめられた歴史記述は、少し味気ないが基礎知識として読んだ。
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【序章】プロローグ ― 戦国前期の東国世界 **享徳の乱(1454)**により、鎌倉公方足利成氏が鎌倉を追われ、古河に移り「古河公方」となる。 古河公方は一応の正統性を保ちつつも、地域的・戦時的政権に変質。公文書の様式や出し先に変化が生じる。 対する**後北条氏(伊勢宗瑞の子孫)...
【序章】プロローグ ― 戦国前期の東国世界 **享徳の乱(1454)**により、鎌倉公方足利成氏が鎌倉を追われ、古河に移り「古河公方」となる。 古河公方は一応の正統性を保ちつつも、地域的・戦時的政権に変質。公文書の様式や出し先に変化が生じる。 対する**後北条氏(伊勢宗瑞の子孫)**は「外様」出身でありながら軍事的実力により勢力を拡大。東国武士社会の流動性と再編を促進。 【第一章】古河公方家の分裂と相克 足利政氏とその子・高基の対立(永正の乱)により古河公方家が分裂。 政氏は小山へ、高基は関宿城に拠ることで、二重権力構造が出現。 高基の支配が安定するが、弟・足利義明が別に房総で「小弓公方」を称し、足利氏内の二重公方制が成立。 【第二章】北条氏の南関東侵攻と足利氏 北条氏綱が「北条」姓を称し、相模・武蔵南部へ侵攻。江戸城などを攻略し、関東におけるプレゼンスを急上昇させる。 扇谷・山内両上杉氏、甲斐武田氏、小弓公方などが反発し、白子原合戦(1526)などで抗争が続く。 小弓公方義明は勢力を保持するが、支配力は限定的。 【第三章】第一次国府台合戦と北条氏綱 天文7年(1538)、国府台にて北条氏綱と小弓公方義明が激突。 北条軍が圧勝し、義明は戦死。小弓公方政権は壊滅し、房総方面も北条支配下に入る。 この戦いで北条氏は、関東における「公方」の地位さえ無用とするほどの支配権を獲得。 【第四章】古河公方足利氏と小田原北条氏の対決 足利晴氏と北条氏康の間で「古河公方の地位」をめぐる対立が本格化。 天文15年(1546)、河越合戦にて晴氏・上杉連合が敗北。古河公方家の政治的実権は崩壊。 氏康は自子・梅千代王丸(氏政)を公方に擁立しようとし、公方家の権威を吸収・支配に転用。 【終章】エピローグ ― 「対決」の果てに 古河公方は「名目」として残るが、実質的な政治力は皆無に。北条氏による公権力の吸収と再編が完了。 関東では旧来の公方・管領体制が終焉し、戦国大名による実効支配の時代へと突入。 北条氏はその典型例として、制度的・軍事的・外交的にも関東支配の新秩序を築いた。 【全体の論点と意義】 対立の本質は、「格式と名分」(公方) vs 「実力と支配力」(北条)という、中世から戦国への政治秩序の移行。 古河公方家は東国武士たちの支持を得ながら「伝統の支配者」として君臨したが、内紛と分裂により弱体化。 北条氏はそれに取って代わり、旧秩序を継承しつつも、新たな実力主義の支配構造を構築した。 「対決」は単なる家同士の戦争ではなく、中世的公権秩序が崩壊し、戦国的地域国家が誕生する歴史の転回点であった。 キーワードまとめ(骨子の軸) 古河公方(足利氏) 後北条氏(伊勢氏 → 北条氏) 享徳の乱・永正の乱・白子原合戦・国府台合戦・河越合戦 公方の名目化・格式の喪失 北条氏による公権力吸収 戦国大名による支配秩序の確立 東国における中世から近世への転換
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