仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由 の商品レビュー
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仏教をある意味、非宗教化して、心理に関する「科学」として、仏教モダニズムへの批判の書。 著者は仏教や認知科学に詳しい哲学者で、「身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ」の共著者。この本は、私の仏教理解の基本であるとともに、人間の認識について最も影響を受けた本の一つ。この本は、オートポイエーシスの提唱者の一人ヴァレラが中心に書いたものと思われるが、システム的な考えという面でも多くの刺激を受けた本。 そんなトンプソンが書いた本、ということは読み始めるまで知らなかった。西欧人の書く仏教論は、ある意味、分かりやすいし、基本、なんらかの信仰を持つ日本人が書くものとは、違う視点から論点が整理されていて、ストレートな書き方をしてあるので、面白そうなものを見つけたら割と読む。 西欧人の科学者や哲学者が書いたそういう本は、著者によると「仏教モダニズム」というもので、脳神経科学の研究を踏まえながら仏教を理解しようとことなのだが、トンプソンは、それは仏教的にも、科学的にも間違っているとする。(トンプソンが批判の直接的な対象としてあげているのは、ロバート・ライトの「なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学」という本。これも読んでみようと思ってAmazonを検索したら、なんと数年前に読んでいた。(笑)内容はあまり覚えていない。でも、割と説得性があると思ったはず。) それは、安易なマインドフルネスの流行への批判にとどまらず、仏教と科学の根源の部分での批判で、まさに哲学的と言っていいもの。 単純化すると、仏教の瞑想というのは、心を落ち着けるためのセルフケアの心理療法ではなく、宗教的な救済、悟りを目指したプラクティスであるということ。そこから、そうした目的を外してマインドフルネスを論じることはできないし、またその効果がしばしば言われるほど、実証できているわけでもないという議論が一つ。 そして、瞑想という状態を脳科学で取り扱うように脳の一つの状態として捉えることはできないということ。この辺りは、脳神経科学におけるなんらかの感情や精神的な活動の状態を脳の状態と結びつけようとする議論への批判でもある。 これらの議論は、とても納得性の高いものであった。 当然、こうした批判で終わるのではなくて、著者が主張するのは、エナクティヴ認知の考え方。これによると人間の認知というのは、身体化されたもので、単なる脳内での情報処理ではないということ。そして、プロセス的で、常に変化、共同構成され続けるもの。 この議論に基けば、仏教的にいう「無我」という概念も、固定した我は実在しないものの、共同構築される「私」の生成プロセスとして捉えることになる。ここは重要なポイントで、理論的には「無我」ということが理解できても、過去から連続し、持続している「私」という感覚を否定することは難しい。と言っても、身体を超えた超越的な「我」(アートマン)の存在を受け入れるのも難しい。この二律背反的な対立を乗り越えるキーとなるわけだ。 ここの議論は、今、ちょうど考えていたことなので、個人的にはとても響いた。
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