スポーツウォッシング なぜ<勇気と感動>は利用されるのか の商品レビュー
このタイトルの言葉は初めて見聞きした。P166に紹介されている山本敦久氏の説明がすべてを物語っている。「世の中の不都合をスポーツという〈正しくて善きもの〉で彩って見えなくさせていく、 それがスポーツウォッシングの作用といえるでしょう。今はそのスポーツ自体にいろんな ほころびが生...
このタイトルの言葉は初めて見聞きした。P166に紹介されている山本敦久氏の説明がすべてを物語っている。「世の中の不都合をスポーツという〈正しくて善きもの〉で彩って見えなくさせていく、 それがスポーツウォッシングの作用といえるでしょう。今はそのスポーツ自体にいろんな ほころびが生じているんですが、それが見えないように、近代がつくりあげた〈理想的〉 な状態を維持し続けようとしている。だから、『スポーツに政治を持ち込んではいけな い」という主張は、スポーツがスポーツ自体をスポーツウォッシングしようとする動きの典型例なのかもしれません」 「この言葉を新聞テレビなどのマスコミが全く封印している理由を改めて理解できた。マスコミにとっては極めて自分の首を絞める行為になるからだ。五輪の政治利用は1936年のミュンヘンから始まり、1980モスクワ、2008ペキンなども、そうであったが、2021東京も将にそうだった!それはW杯も2022カタールは多くの出稼ぎ労働者の虐待死の問題も露糊していたのだが…という指摘。しかし、問題は国際大会の国家による理由だけにとどまらない。 スポーツ選手の政治的発言への日本社会の拒否、それがたとえ人権問題だったとしても。大坂なおみ選手の「私はアスリートである前に、一人の黒人女性」との発言は重い言葉である。NIKEはこれを指示し、世界から高く評価された一方で日本の日清は無視し事なかれ主義が世界の評判を落としたという逸話も紹介されている。 私としてはこの本には全く記載されていない、不人気内閣による国民栄誉賞のスポーツ選手への授与、また高校野球甲子園大会開催期間中の新聞テレビ報道の「涙と汗と感動」「純粋な青春」の言葉のオンパレードには辟易しているので、そのことも触れてほしかった。しかし、かくゆう私自身もW杯では日本代表を熱狂的に応援している。このスポーツウォッシングを批判する資格のない存在であり、それだけその魔力が大きいのである。
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政治などの都合の悪いことをスポーツのきれいなニュースで隠すこと。 オリンピックやワールドカップがよく利用されるみたい。 大谷もコレに当てはまったりするのかな?
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高校野球も含めプレイヤーでなくなったときや、東京オリンピックでなんかモヤモヤしていたことがバッチリ書いてある。選手はスポーツ興行に置ける客寄せパンダ的に扱われてる感があるけど、選手は大舞台に立ち夢を叶えたい訳、それを応援したい観戦者と言った構図。解決は難しいわけだ。
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最近は、スポーツによるまちづくりや地域活性化という点に興味があり、関連書籍を読んでいましたが、今回は、その負の面に着目した一冊。 スポーツウォッシングという言葉は今回初めて聞いたわけですが、過去のナチスのオリンピック開催の事例を始め、以前よりこういった問題は指摘されてきました。本...
最近は、スポーツによるまちづくりや地域活性化という点に興味があり、関連書籍を読んでいましたが、今回は、その負の面に着目した一冊。 スポーツウォッシングという言葉は今回初めて聞いたわけですが、過去のナチスのオリンピック開催の事例を始め、以前よりこういった問題は指摘されてきました。本書では、最近のオリンピックやサッカーワールドカップなどの事例を検証しながらその問題点を指摘しています。 読了後、その問題点は理解できますが、ではどうやって解決に導くかということになると難しい点が多く感じます。アスリートである以上、歴史があり規模の大きい大会に出場し、結果を残したいと考え、その場で自国選手の活躍を後押しするために、国や行政、民間も支援し、それを見て応援する人がいることでアスリートも支えられており、何かを変えれば一気に解決する問題でもありません。 オリンピックを国単位ではなく個人として出場するという提言もありますが、それも簡単に実現できるとは思いません。道のりは単純ではありませんが、すべての当事者が問題意識を持ち、少しずつでもいい方向に動くように改善をしていかなければならない問題だと感じます。 ▼スポーツウォッシングという行為は一般に、「為政者などに都合の悪い社会の歪みや矛盾を、スポーツを使うことで人々の気をそらせて覆い隠す行動」と理解される ▼スポーツイベントを開催する運営組織やそこで競技をするアスリートたち、それを報道するメディア、そして競技会場や過程でスポーツを観戦する我々の、類型的で窮屈で旧態依然としてスポーツの捉え方こそがこのような選択行為を可能にしている ▼人々とスポーツの距離が縮まれば縮まるほど、勝敗やナショナリズムや感動、といった使い勝手のよい道具で<便利な洗濯>をしようとする作用は、その機能を弱めていくかもしれない <目次> 第1部 スポーツウォッシングとは何か 第1章 身近に潜むスポーツウォッシング 第2章 スポーツウォッシングの歴史 第3章 主催者・競技者・メディア・ファン 四者の作用によるスポーツウォッシングのメカニズム 第2部 スポーツウォッシングについて考える 第4章 「社会にとってスポーツとは何か?」を問い直す必要がある―平尾剛氏に訊く 第5章 「国家によるスポーツの目的外使用」その最たるオリンピックのあり方を考える時期―二宮清純氏に訊く 第6章 サッカーワールドカップ・カタール大会とスポーツウォッシング 第7章 テレビがスポーツウォッシングを絶対に報道しない理由―本間龍氏に訊く 第8章 植民地主義的オリンピックはすでに“オワコン”である―山本敦久氏に訊く 第9章 スポーツをとりまく旧い考えを変えるべきときがきている―山口香氏との一問一答
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スポーツウォッシングという「感動の演出」と、その政治利用について、専門家5人の意見を聞きながら、まとめている本。スポーツウォッシングという観点そのものがない人にとっては、歴史的経緯に関する説明もあり、その存在に対して示唆的なものを与える本になっている。スポーツウォッシングについて...
スポーツウォッシングという「感動の演出」と、その政治利用について、専門家5人の意見を聞きながら、まとめている本。スポーツウォッシングという観点そのものがない人にとっては、歴史的経緯に関する説明もあり、その存在に対して示唆的なものを与える本になっている。スポーツウォッシングについて興味がある人にとっては、類書もあまりないので読む価値がある本だろう。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
スポーツウォッシング、スポーツの感動を利用して政治とか不都合な事実をかき消すどころか、悪い部分をよい印象に書き換えてしまうこと。 利用されるのは悔しいが、スポーツをしない、感動を与えないという選択肢も違うと思う。 印象に残ったのは以下2点。 スポーツとは、国、育ちとか関係なく人に平等に与えられた権利、条件のスタートから競いあうもの、という大前提に立てば、アスリート達が政治に物言うことはできなくても人権について伝えたり差別、ダイバーシティとか訴えることはできること。 また、スポーツが政治利用される背景に、スポーツはやる側、見る側、運営する側とか、役割が固定しがちだが、流動的に変わることで、課題に気づきやすくなるとのこと。 今、自分はマラソンをやってるんで、その中で社会に何か伝えられるかとか、逆に大会を支える側とかになりながらいいスポーツウォッシングにしていきたい!
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