デウスの城 の商品レビュー
日本におけるキリスト教信仰の終焉のシンボルとなる島原の乱に取材した小説。 島原の乱のキリスト教徒がたてこもる原城には元小西行長の配下の武将がおり、攻める側にも小西行長の配下の武将があった。また仏教僧となり、形だけの棄教をすすめることでキリシタンの命をすくおうと東奔西走するのもまた...
日本におけるキリスト教信仰の終焉のシンボルとなる島原の乱に取材した小説。 島原の乱のキリスト教徒がたてこもる原城には元小西行長の配下の武将がおり、攻める側にも小西行長の配下の武将があった。また仏教僧となり、形だけの棄教をすすめることでキリシタンの命をすくおうと東奔西走するのもまた小西行長の小姓であった。武士として生きるか、キリスト教徒としていきるか、あるいは表面上は仏教徒となりながらも本当の救いとは何かを求めるという三人三様の人生。それぞれの運命が 関ヶ原の敗戦(小西行長陣として)以降の時系列で描かれる。 この時代の飢饉があったり、あるいは人生で不運なことがあったときにキリスト教の救いによりハライソ(天国)にいけるという確信を得るというは魅力であったのかもしれない。 この乱以降、一部のキリシタンは潜伏し、明治維新後の解放まで信仰を持ち続ける。 島原の乱にいたるまでの事象をよくわかるように整理してくれた良書であった。 キリスト教に興味のない当時の人はなぜそんな信仰に走ったのか訝しげに思ったのかもしれないが、外国人の神父が熱心に信仰を説き、病を治し、学問を授けたことを考えると、嗚呼これが真実だったのかとキリスト教に走る人がいても不思議ではないだろう。 高山右近が逃げたマニラでは普通にキリスト教が普及していたようだがその後どうなったんだろう。確かに今もフィリピンはキリスト教徒が多い気がする。
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宗教は深い。ただし信仰を持つ人間が強いか、持たない人間が強いかは何とも言えない。そして信仰は正義かそうでないかも何とも言えない。だからこそ現在に至るまで宗教を起因とした混沌がなくならないのだろう。
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昨日、天草の崎津集落に行ってみたからタイムリー 関ヶ原で西軍についた小西家(小西行長、キリシタン大名)の若い家臣彦九郎、善太夫、左平次の3人のその後のとんでもなく苛酷な生涯…かな 視点が3人分あって次々入れ替わり多角的。だから、読みやすいという印象はない 読書メモに書きながら読んだ 佐平次は武士として生きるために棄教、その罪悪感からキリシタン弾圧にかえって邁進。 彦九郎はキリスト教の残酷性に苦悩しながらキリスト者として生きている。 善太夫は、殉教よりも人々を死なせぬ(衆生を救う)ことに重点を置き、そのために僧侶となりキリシタンたちに殉教せぬように(表面上だけ棄教するように)説得する。 矛盾をかかえる宗教と理屈の通じない一途な信仰心、征服を伴う布教を警戒し残虐な手法を用いる公儀… 怒涛のような
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島原の乱を描く歴史小説。 元小西家臣の三人の視点から描くのも、それぞれの立場がいい立ち位置になっているのもよかったです。 関ヶ原の戦いから島原の乱までは三人の主人公の変遷とキリシタンへの弾圧の強化が並行して描かれていて、序奏としてはよい感じでした。 乱自体の史実についてはちゃん...
島原の乱を描く歴史小説。 元小西家臣の三人の視点から描くのも、それぞれの立場がいい立ち位置になっているのもよかったです。 関ヶ原の戦いから島原の乱までは三人の主人公の変遷とキリシタンへの弾圧の強化が並行して描かれていて、序奏としてはよい感じでした。 乱自体の史実についてはちゃんと抑えられているので勉強になりますが、天草四郎の成り立ちに主人公の一人が絡んで詐欺まがいなことをさせるのにはちょっと違和感がありすぎました。 あと、三人の主人公のうちの一人は実在の人物(といっても素性はよくわからないらしいです)なので、最後についても予定調和っぽい感じがしました。 ただ、現在の社会で大きな戦争がいくつか起きている中で、信仰のために死ぬこと、殺すこといかに空しいかを教えてくれたような気がします。
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3人の主要視点人物が設定されている。3人が交代しながら様々な場面が展開し、物語が動いて行く。そういう感じなので、「こちらの動き…他方…」と展開のテンポが好い感じになっていたと思う。紐解き始めてみると、頁を繰る手が停め悪くなってしまい、素早く読了に至った。 題名に在る“デウス”はキ...
3人の主要視点人物が設定されている。3人が交代しながら様々な場面が展開し、物語が動いて行く。そういう感じなので、「こちらの動き…他方…」と展開のテンポが好い感じになっていたと思う。紐解き始めてみると、頁を繰る手が停め悪くなってしまい、素早く読了に至った。 題名に在る“デウス”はキリスト教の神のことで、信者が「キリシタン」という呼び方だった戦国時代や江戸時代に多用されたらしい。そういう話題が出て来る時代モノの小説だが、所謂「時代モノ」を少し突き抜けた、より普遍的な何かを感じた。 同郷である3人の若者達が、揺れ動いた時代の中で各々の路を往くこととなった。やがて3つの路は、長い年月を経て交差することとなる。そういう中で「“信じる何か”と人」、或いは「人としての在り方」というようなことが問われ、各々の路を往く3人の言動がそれを示唆し、読む側に考えさせてくれるというような感じだ。 主要視点人物である3人は、彦九郎、善太夫、左平次である。 物語の冒頭、彦九郎と善太夫は関ヶ原に在る。小西行長に仕える小姓として関ヶ原合戦の陣中に在った。他方、左平次は小西家の本拠地である肥後国の宇土城下で、戦時に護りを固めようとしている家中の人達と共に在った。 この冒頭の関ヶ原合戦の頃、3人は15歳だった。この15歳の頃から、50歳代となる島原の乱という頃迄の人生や時代が描かれるのが本作である。 彦九郎、善太夫、左平次は小西家中の武士である。当主の小西行長はよく知られたキリシタン大名であった。小西家は肥後国の概ね南半分を知行地としていたが、その域内で、また家中の士の中ではキリシタンが多数派だった。彦九郎、善太夫、左平次もまたキリシタンだった。 関ヶ原合戦で小西行長は西軍に参画する。そして寝返りが続出した戦場で、西軍は敗れてしまう。小西行長は戦場を離れるが捕えられ、後に処刑される。本拠地の宇土については、加藤清正が占領し、後に加藤家が加増された際にその知行地に組み込まれる。 こうした中、彦九郎、善太夫、左平次の各々の運命も動いて行く。 小西行長に従って関ヶ原合戦の戦場を離れた彦九郎、善太夫は、滞在していた村から各々に離れて各々の歩みを始めることになる。左平次は肥後国で自身の人生を拓こうとする。 結局、彦九郎は「イルマン」と呼ばれる修道士になり、善太夫は以心崇伝の下で活動し、左平次は加藤家に仕官する。三人三様の経過、動く時代の中での生き様というのが本作の肝であると思う。 キリシタンに関して、暫くは禁じられたと言っても未だゆとりが在ったが、次第に苛烈な弾圧という様相になって行く。そして島原の松倉家の苛政によって人々の不満が高まる中、キリシタン信仰を護って盛り上げようという隣接する天草での動きと相俟って「一揆」が起こってしまうのだ。 この島原での状況の中、彦九郎、善太夫、左平次の各々の路が交差して行くこととなるのだ。 「信じている」に対して「知らない」というのも在る。或いは「信じている別な何か」を重んじようとしている場合も在ろう。そういう時に「知らない」や「別な何か」は排除されなければならないのか?心の中で各々が思う何かを、各々が大切にしていればそれはそれで善いのかもしれない。本作の作中では、こういうような問答のような内容が繰り返されていると思う。そういう様子が、キリシタンの弾圧や、島原の乱のような大事件が起こって行くという中で問われている訳だ。 最近は、より多様な価値観が各々に尊重されるべきであるとするような考え方の他方、或る観方が「正しい」というようなことになると「少し違う」を封じてしまおうとするかのような空気感を感じる場合もないではない。そんな中で、似たような生い立ちの3人が各々に全く異なる路を往く中で、「“信じる何か”と人」、或いは「人としての在り方」を問うような本作は少し沁みた。或いは「心の在り方の自由」というようなテーマが含まれているとも思う。御薦めしたい一冊だ。
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