マルクス解体 の商品レビュー
マルクスのノートから読み込み、マルクス経済学を現代に当て嵌めて考察する第一線のマルクス研究者である斎藤幸平氏。一般向けとは少し線を引いた学究的内容だが、同氏の学者としての本気(恐らく、そのほんの一部分だが)を垣間見るような読書だった。 地球は有限である。だから我々は競争する。競...
マルクスのノートから読み込み、マルクス経済学を現代に当て嵌めて考察する第一線のマルクス研究者である斎藤幸平氏。一般向けとは少し線を引いた学究的内容だが、同氏の学者としての本気(恐らく、そのほんの一部分だが)を垣間見るような読書だった。 地球は有限である。だから我々は競争する。競争するためのルールは概ね、資本主義でいこうという事になった。共産主義という選択肢もあったが、一国では成し遂げられぬ概念であり、結局、共産主義は、資本主義と競争する事になる。また、共産主義は、こうした有限性に対し、人口抑制の論理を内在化している。資本主義は、資本家のエゴによって有限性を無視して暴走し易い。勝手な解釈だが、どちらも原点には、社会からのトリアージに対する生存本能がある。 有限だが、まだ大丈夫。 少なくとも、発展途上国に対しては、成長機会を与えてあげなければ、不公平だ。こうした論理が正しいのか、答えがない。答えがないが、プロメテウス的打開派に対し、マルクス的有限派が対立する。そしてそこには、競争の勝者への否定がある。競うから成長するという側面と、競うから弱者を犠牲にするという側面に対し、二項対立的な考えが交錯する。 ー 環境問題への関心については、マルクス主義者を自称するような人たちさえも長らく否定的であった。マルクスの社会主義思想は、自然の支配を目指す反エコロジー的なプロメテウス主義によって特徴づけられると非難されてきたのである。実際、少なからぬ20世紀のマルクス主義者たちも、環境保健主義を本質的に反労働者階級的で、上流中産階級のイデオロギーにすぎないと考え、さらなる技術革新と経済成長による労働者階級の物質的利害の促進を擁護してきたのであった。 一方、アラル海の環境破壊(綿花栽培等のための灌漑により、東北地方と同じくらいの面積のあった湖が10分の1にまで干上がり、20世紀最大の環境破壊といわれる)やチェルノブイリの原発事故に代表されるソ連体制下で生じた深刻な環境破壊を前に、環境保護主義者たちは「社会主義」では持続可能な社会を構築できないという確信を強めていった。その結果、20世紀後半には「赤」(社会主義陣営)と「緑」(環境運動障営)の間に重大な対立が生じることになったのである。 ー 地球が有限である以上、資本蓄積に絶対的な生物物理学上の限界があることは明らかなはずだ。けれども、資本は自らに制限を課すことはできない。むしろ、資本は絶えずこの制限を乗り越えようとして、社会と自然に対する破壊性を増していく。それゆえ、人間の生存と自然環境の保全のためには、資本主義的発展の破壊的な性格に終止符を打つことを目的とした「社会的制御の必要性」が生じるのである。しかし、そのような社会的生産の計画化は資本主義的生産の無政府性と相容れない。だからこそ、自由にアソシェートした生産者による質的に異なる生産の組織化 ー つまり、社会主義システム ーが必要だとメサーロシュは訴えたのだ。 ー そもそも物質代謝概念の重要性は今日でもしばしば過小評価されているが、『資本論』を正しく理解するために、この概念は不可欠だ。というのも、マルクス主義のもっとも根底的なカテゴリーである「労働」を、マルクスは人間と自然の物質代謝に関連づけて定義しているからである。労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。人間と自然の物質代謝の過程はまずもって、自然的・生態学的過程であり、どの歴史的段階にも共通するものである。なぜならば、人間は労働を通じて自然に働きかけることなしには生きることができないからである。この点を強調しながら、マルクスは続けて次のように述べる。労働過程は、人間と自然とのあいだの物質代謝の普遍的な条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にも関わりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なものである。 人間は自らのために地球環境保全を主張するが、「滅びない前提」さえ明確になれば、この議論はやがて終わる。同様に弱者に対しての関心も、強者に利する所がなければ長続きはしない。無条件に弱者を助ける思想があるなら、北朝鮮は核武装などしない。自己防衛や、優先順位を巡る競争や政治的所作もまた本源的なもの。利他的だけでは、生きられない。
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生産力主義的、ヨーロッパ中心主義的な思想家として認識されがちなマルクスの印象をひっくり返そうとする研究。 著者は一個上なんだけど、マルクスの研究者としてヨーロッパで出版した本がその後日本語で出版されるという流れに畏怖の念を抱くな。 資本論が未完に終わってしまったこともあり、マルク...
生産力主義的、ヨーロッパ中心主義的な思想家として認識されがちなマルクスの印象をひっくり返そうとする研究。 著者は一個上なんだけど、マルクスの研究者としてヨーロッパで出版した本がその後日本語で出版されるという流れに畏怖の念を抱くな。 資本論が未完に終わってしまったこともあり、マルクスの環境に関する考え方が見落とされている。しかし、晩年のマルクスは自然科学についての研究に熱心に取り組んでいたことがMEGAと呼ばれるマルクス・エンゲルス全集からわかる。マルクスの分析の範囲は社会の領域に限定されず、人間と自然の物質代謝にも及んでいる。 2部はマルクス主義とエコロジーに関する文献レビュー的な。 人新世という概念が、環境危機にもっとも責任があるのはグローバルノースに住む高所得の人々だが最も負の影響を受けるのはグローバルサウスの貧しい国々という資本主義の側面を人類という抽象的存在のもとに隠ぺいしてしまうというネッケルの批判。 3部ではプロメテウス主義的なマルクス主義の欠陥を認めたうえで赤と緑の対立の解消を試み、マルクスが最終的には脱成長コミュニストになっていたとする。生産力の発展がポスト資本主義社会の物質的基盤を自動的に準備せず、むしろ人間や自然からの掠奪をますます悪化させる可能性を認識しており、1868年以降は自然科学の研究に励んだのもそのためである。さらにヨーロッパ中心主義からも離れていた。 そんなマルクスが構想していたのが、市場競争と資本蓄積への圧力がない、非消費主義的な活動に十分に時間を割くことができる、より健康的で連帯した民主的な生き方ができる脱成長コミュニズム。エッセンシャルワークをすべての社会構成員で共有し、非エッセンシャルな生産を削減、ブルシットジョブの除去で環境負荷を即座に経験することができる。 終章で、なぜマルクスという個人の思想が今も研究の対象なのかという自分の疑問に著者が回答していた。マルクスの研究プロジェクトは未完、だからこそそれをさらに拡張し現代の科学的知見を取り込みながら経済学批判のプロジェクトをさらに発展させることができると。決して現代のマルクス研究者がやろうとしているのはマルクスの神格化とかということではないのだな。 問題は、脱成長コミュニズムに大衆を向ける仕組みがないことだろう。資本主義はそれこそ資本が勝手に増殖するような仕組みになっているわけだが、脱成長コミュニズムは世界に住む全員が同意しなければならないような、それはつまり戦争や核兵器の廃絶と同じレベルの困難さということだと思う。だから最後には「歴史の審判を待つことにしよう」と言うしかないのよな。
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難しい 評価するほど理解できなかったので⭐️無し。 人新世の「資本論」 は理解できる範囲であったが、こちらは学術書。 少なくとも資本論を読破した方が対象でした。
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『資本にとっては『どんな限界も、克服されるべき制限として現れる』(資本論草稿集) 今の時代のベースになっている価値観はこれだと思った。 環境問題に勝つ、競合に勝つ、就活に勝つ、自分に勝つ、、、 環境問題のような大きなスケールだけでなく、個人が抱えるキャリアやワークライフバラン...
『資本にとっては『どんな限界も、克服されるべき制限として現れる』(資本論草稿集) 今の時代のベースになっている価値観はこれだと思った。 環境問題に勝つ、競合に勝つ、就活に勝つ、自分に勝つ、、、 環境問題のような大きなスケールだけでなく、個人が抱えるキャリアやワークライフバランス、育児や介護といった問題に至るまで、「克服こそが正義」というマジョリティの価値観が、今の時代になって違和感として現れてきてるんだろうなと思った。克服できるものが少なくなってきて、克服する難易度も上がった結果、あらゆる生きづらさを生み出してる説。 そこから逃れるためには?
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10月末に購入している。サイン本だったのが大きい。そこから、2ヶ月ほど積読。その後2ヶ月くらいかけてやっと読み切った。「人新世の資本論」では具体的な政策の話が多かったが、こちらはほとんどが理論的な話で、感覚的には3割くらいしか理解できていないと思う。それでも、十分面白く、興奮しな...
10月末に購入している。サイン本だったのが大きい。そこから、2ヶ月ほど積読。その後2ヶ月くらいかけてやっと読み切った。「人新世の資本論」では具体的な政策の話が多かったが、こちらはほとんどが理論的な話で、感覚的には3割くらいしか理解できていないと思う。それでも、十分面白く、興奮しながら読んだ。最初に、批判的なことを書いておくと、著者自身も書かれているが「環境危機を有意義に語るにはある種の人間中心主義が不可欠なのだ」という点。いつも言っていることだが、環境問題なんて地球にとっては屁でもない。だから「地球を守る」なんて本当におこがましい。まあ、著者はそのこともふまえて議論しているということだろう。最初に気付かされたのは、グローバルノースで今まで通り、もしくは今まで以上に便利で裕福な生活をするために、グローバルサウスあるいは未来へいかに負担をかけているのかということ。分かってはいたことだが、きちんと言語化されていて再認識できた。それにしても人間の欲望は留まるところを知らない。それが資本主義なのだろうが、いくら便利で物質的に豊かになっても、いっこうに精神的な豊かさは得られていない。常に何かに急かされるように、まだまだ使えるものを廃棄し、新しい商品に手を出す。欲望を駆り立てるような広告が常時目の前に現れる。会社では常に右肩上がりを要求される。子どもの数が減る中で、何をそうあせるのか。持続可能な範囲でやっていけばいいではないか。競争をあおるのはよしたらどうか。同業他社とはうまく棲み分けすることを考えたらどうか。本書でも書かれているが、ブルシットジョブをなくし、教育や福祉など、よりエッセンシャルな仕事に関わる人が増えることで、労働時間を短縮することができるのではないか。こういう仕事は環境負荷が小さいわけで「脱成長コミュニズム」の世界では重要になっていくのだろう。明日から25年ぶりに管理職から外れて定年退職までの1年間を過ごすことになる。どんな働き方をすることになるのだろう。子どもたちに対してすることは何も変わらないのだけれど。さて、本書の中に、マッカラーズの小説の中で見つけたマルクスのことばに出会った。「各人はその能力におうじて、各人にはその必要におうじて」(コーダ綱領批判)これがおそらく直訳なのだろう。それを村上春樹が付け足しているのか、どうなのだろう。「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」こちらの方が分かりやすいし、その通りだと思う。必要最低限の収入があり、食うには困らず、医療や教育は無料で受けられる世の中が僕には望ましい。そうであれば、息子の心配もしなくてすむのだが。
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前著「大洪水の前に」と重複するところも多い気はするが、よりマルクスのテクストに深い入り込みつつ、晩年のマルクスの思想を再構築していく。 そのプロセスに知的好奇心が動きつつも、なんで今更マルクスが著作にできなかったことを今あれこれと推論しなければいけないんだろうという気持ちがしば...
前著「大洪水の前に」と重複するところも多い気はするが、よりマルクスのテクストに深い入り込みつつ、晩年のマルクスの思想を再構築していく。 そのプロセスに知的好奇心が動きつつも、なんで今更マルクスが著作にできなかったことを今あれこれと推論しなければいけないんだろうという気持ちがしばしば起きてしまう。 マルクスが本当に考えていたことはこうなんですと言って、20世紀に破綻したと思われるマルクス主義を環境、持続可能性という観点から再構築しなければいけないんだろう?(そういう意味では、タイトルの解体というより再構築という方が相応しいと思う) それって、マルクスの神格化ではないか? という批判は、当然、著者はわかっていて、そういう趣旨ではないのだというわけだけど、それでもそういう思いを禁じ得ないわけだ。 マルクスの資本主義理解は、今をもっても正しいところはたくさんあると思う。また、時代の変化を踏まえながら、理論的に発展したところも多い。 一方、環境問題や持続可能性を踏まえた理論もたくさんあるのだから、「現在」の資本主義理解と環境問題理解を組みああせて、新たな理論構築した方がいいんじゃない、と思ってしまう。 しかしながら、マルクス主義系の研究者にとって、まだまだマルクスの威光は効果的なようで、彼らにとってこうした「マルクスは実はこう思っていた」というのが意味があるわけかな?
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アクター・ネットワーク理論やマルチスピーシーズ人類学など最近よく聞くキーワードが「自然」と「社会」の一元論と捉えられ、それらに対して自然を「素材」と「形態」の2面から捉える方法論的二元論の立場から批判を行なっている箇所は、批判的な視野を持って近年の思想を読み解く視野が開ける面白い...
アクター・ネットワーク理論やマルチスピーシーズ人類学など最近よく聞くキーワードが「自然」と「社会」の一元論と捉えられ、それらに対して自然を「素材」と「形態」の2面から捉える方法論的二元論の立場から批判を行なっている箇所は、批判的な視野を持って近年の思想を読み解く視野が開ける面白い論説だった。 一方、脱成長コミュニズムやコモンズ的な潤沢さに関する議論については、あくまで余裕のある先進国の人が想起するビジョンでしかないという印象。 既にしてコモンズが失われ、環境危機がスタートしている社会において、莫大な人口を抱えた状況で途上国の人がこの理論を受け入れることは到底なさそうな気がする。 あくまでマルクスはこう読むことができるという点で批評的に面白かったという感覚。
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