訂正可能性の哲学 の商品レビュー
人は長く一貫性や包摂性を探していき続ければ、直感的には本書で編まれた言葉の場所に辿り着く、そんな普遍性と、これまでの哲学者が見てきたものと東浩紀が見ているものが大変強靭な論理性で結ばれて、何度も頷いてしまった。素晴らしかった。
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人間は常に誤りを犯しうる存在である。したがって絶対的かつ不変な正義は存在し得ないし、そうした正義の実現に向かって歴史が収束していくという世界観は幻想にすぎない。私たちに必要なのは「常に正しくあること」ではなく、「間違っていたときにそれを正せること」つまり訂正可能性なのだ。
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第一部は「家族」という言葉を使って社会を説明しようとする試み、第二部はコロナ禍以降の社会の変化を考慮に入れて民主主義の在り方を再考する試み、という風に読みました。 第一部がやや抽象的・概念的な議論なのに対し、第二部の方が具体的な話が続くので、読みやすいのは第二部かな。 タイト...
第一部は「家族」という言葉を使って社会を説明しようとする試み、第二部はコロナ禍以降の社会の変化を考慮に入れて民主主義の在り方を再考する試み、という風に読みました。 第一部がやや抽象的・概念的な議論なのに対し、第二部の方が具体的な話が続くので、読みやすいのは第二部かな。 タイトルが「訂正可能性の哲学」だけど、言うほど「訂正」というものがキーワードになっているようには思えなかった。 過去の理論を訂正しながら改善していくというのは学問として当然のことというか、別にこの本じゃなくともあらゆる本でやっていることなので、無理にそれをタイトルにしなくてもよかったのでは?感がある。 各所で絶賛されているし、このブクログにも高評価が並んでいるけど、言うほどかな〜と思ってしまいました。 そこまで真新しいこととか核心をついたようなことは言ってないと僕には思いました。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
正義も真理も愛もない。自我も美も自由も国家もない。すべては幻想。そして過去の哲学を「訂正」するのが哲学。 本書では家族葬と訂正可能性、一般意志再考という大きなテーマについていくつかの文献にあたりながら論じている。 現在を正しく読み解くにはそれを構成する要素を正しく知る。改めて読書が大切と思うことになった。ほんと若いうちにスラスラ読めるようになっておくべき。
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詳しい書評はあとで記す めっちゃ面白かった。論理の展開や回収の仕方や、correct-abilityの意味も綺麗に回収していて見事だった。
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硬直した議論が蔓延る日本や世界の思想界では数少ない、思考を柔軟にしてくれる本 「知」の巡りが少しでもよくなることを期待
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訂正する力に挫折していたところ、友人から勧められて読みました。 まだ、一通り目を通しただけですが、訂正する力に比べるとはるかに読みやすい。
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私はSNSはやらないが、SNSには、白黒ハッキリさせるような論議を生む機能が内蔵されており、その意見の差が大きい程、人は反論の熱意が高まるようだ。それは宗教論争のように相手を屈服させ、自らの正義を知らしめようとする。その根底には論に仮託した承認欲求の維持、自意識を失いたくないとい...
私はSNSはやらないが、SNSには、白黒ハッキリさせるような論議を生む機能が内蔵されており、その意見の差が大きい程、人は反論の熱意が高まるようだ。それは宗教論争のように相手を屈服させ、自らの正義を知らしめようとする。その根底には論に仮託した承認欲求の維持、自意識を失いたくないという気概すら見える。 その状態はヤバい。社会は、訂正し、実態にアジャストする機能を有していたはずではないか。また、完全な根拠で立論して最適解を弾く「人工知能民主主義」にはリアリティが無いが、実現するとしても、その無謬性ゆえに「訂正可能性」を欠くならば、あってはならない。こと哲学においても、過去の論考を引きながら訂正するのは、人文学における当然の作法である。あるべき筈の「訂正可能性」を訂正強度のミスリードにより敵味方に分断したり、片方の論説を過敏に扱い過ぎる、または自論を完璧に信仰し過ぎるのはいかがなものか。本著の論旨は、そうしたあるべき「訂正機能」を消失しないようにというメッセージを含むものだと読解した(あくまで個人の意見であり、書評)。 観光客とは、友にも、敵にも分類できない第三の存在。家族とは、自ら選択して集められた集団ではなく、いつの間にかそこにあるもの。こうした二つのカテゴリーを駆使して、確定した立場や意見の危うさを看破する。そして、クリプキのクワス算を象徴的に援用する。 ー 僕たちは、すべての問題に中途半端にしか関わることができない。これは決して冷笑主義の表明ではない。それはすべてのコミニケーションの条件。足し算の規則すら完璧に提示できず、ソクラテスの名前すら完璧に定義できない。そのような単純なことに対しても、原理的に他者からの訂正可能性にさらされている。 人文学者、いや社会学でも私は疑問に感じるのだが、誰それがこう言ったという言辞を弄して、それは実験データでも無いのに、なぜ得意気に論説を複雑化してしまうのか。彼らは皆、自信がない。あるいは教養=記憶力が売りのナルシストなのかと。東浩紀は、訂正可能性をモチーフに、その答えを本著で与えてくれた。 ー 人文学は過去のアイディアの組み合わせで思考を展開する。自然科学のように実験で仮説を検証するわけではない。社会科学のように統計調査を活用するわけでもない。プラトンはこういった、ヘーゲルはこういった、ハイデガーはこういったといった蓄積を活用し過去のテクストを読み替えることで思想を表現する。ヴィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正するといった訂正の連鎖の実践である。この訂正こそが、人文学の持続性を保証する。 ー 成田氏による無意識民主主義、人工知能民主主義については、実現不可能だと考える。例えば戦争のように情動が沸騰する事態に対応できない。無意識が常に公共の利益を指し示すわけでもない。訂正可能性の概念を導きの糸としているのは、一般意思とその暴走を抑制するものの、拮抗関係についてより明確に説明できると考えたからである。アルゴリズムの構築そのものも疑わしい。人工知能民主主義は、訂正可能性を消去するから問題なのだ。 改善ではなく訂正。いや訂正にも「正しさ」を語感に含むので、少し齟齬があるようには思うが、社会構造上、当たり前にあったもの。必ずしも良い変化とは限らぬが、あるべきもの。それがインターネットやAIにより、消去されぬように。私はそういう読み方をしたのだ。後は訂正していけば良いではないか。
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- 民主主義の本質=訂正し続けるということ - クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で出したクワス算の例 - 人間の作り出した定義は曖昧で、絶対的に正しいとは言えない - 成田悠輔や落合陽一らは実は素朴なルソー主義者であり、そこには一般意志を訂正できる可能性はな...
- 民主主義の本質=訂正し続けるということ - クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で出したクワス算の例 - 人間の作り出した定義は曖昧で、絶対的に正しいとは言えない - 成田悠輔や落合陽一らは実は素朴なルソー主義者であり、そこには一般意志を訂正できる可能性はない(人工知能民主主義) - ルソーの一般意志=絶対的に正しいもの、自然にも重ねられる - 全体意思(個人の意思の集合)とは違うもの - 一般意志の「訂正」は不可能に思われる - ルソーの小説『新エロイーズ』を読み解き、「訂正可能性」を探る - サン=プルーとジュリの間の愛は自然 - ヴォルマールはそれを人為的に上書きしてジュリとの「自然」な愛をつくりあげようする - 観光客的存在アイデンティティがはっきりしない存在が訂正可能性を生む - 家族も本質的には訂正可能性を内にはらんでいる
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事後的に解釈やルールを変えられる、それが人間と言語の本質にある、だから社会の無意識的な理想、一般意志の実現を目指すAIによる統治は、人の本質を欠いていて理想にはなり得ない。分人は責任を負わないので異なるポジションを取るのではなく、全人的に訂正していこう、とも理解した。こじつけ感あ...
事後的に解釈やルールを変えられる、それが人間と言語の本質にある、だから社会の無意識的な理想、一般意志の実現を目指すAIによる統治は、人の本質を欠いていて理想にはなり得ない。分人は責任を負わないので異なるポジションを取るのではなく、全人的に訂正していこう、とも理解した。こじつけ感あるなと思うところもあるが、合意できる内容。議論する、難癖つける、相手を思いやる、そういう社会性で人の幸福は成り立ってる。何かに意味を見出すのはこれからも人がやりたいことなはず。
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