小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか の商品レビュー
読む順が前後したから仕方ないんだけど、先だって読んだ小山田炎上関連本で、概ね触れられてた内容。簡単に炎上に与してしまいがちな姿勢を非難するのでなく、そこに至る背景を丁寧に紐解き、あくまで中立的立場から経緯を纏め直そうという論旨が好もしい。見習わないと。
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情熱が注がれている対象に正しく力を発揮する能力保持者の本気 陪審員が聞いたらどんな判決になるだろうか
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著者と私は同世代。というか全く同い年。たぶん同じ頃に、フリッパーズ・ギターやコーネリアスの音楽をリアルタイムで聴いていた。そして、ロッキング・オン・ジャパン1994年1月号と、クイック・ジャパン第3号を読んだ時のこともよく覚えている。それぞれの雑誌を立ち読みした具体的な書店の場...
著者と私は同世代。というか全く同い年。たぶん同じ頃に、フリッパーズ・ギターやコーネリアスの音楽をリアルタイムで聴いていた。そして、ロッキング・オン・ジャパン1994年1月号と、クイック・ジャパン第3号を読んだ時のこともよく覚えている。それぞれの雑誌を立ち読みした具体的な書店の場所まで思い出せるくらいだ。 でもこの著者と決定的に違うのは、私は当時から、うわこいつ最低だな、作る音楽は確かにちょっとセンスあるけど、別にそこまですごくないし、もうこんなやつの音楽二度と聴かねえわ、と心底軽蔑するに至ったのに対し、この著者は、徹底的に小山田のことが大好きで、「特定の地域性を超えたところで聴かれる普遍的な音楽のつくり手」(p31)と異様なまでの過剰評価をし続けていることだ。 そして、週刊文春2021年9月23日号に掲載された中原一歩によるインタビューで、過去のインタビュー内の、「オナニーさせて、ウンコを喰わせた」のは事実ではなく、自身がまとっていたポップな見られ方をアンダーグラウンドの方に変えようとして、編集者と共に模索しつつ行ったイメージチェンジ戦略であることを著者はやたらと繰り返し強調する。まるで、そのことで小山田は完全に免責されるかのように。 そして、小山田本人が実際に行ったと認めた「ロッカーに同級生を閉じ込めて蹴飛ばしたこと。それと小学生の頃、知的障がいを持った同級生に対して、段ボールの中に入れて、黒板消しの粉を振りかけてしまったこと」(pp107-108)は、「およそ40年の時を超えて国際的スキャンダルの素材となるほどの悪辣非道な行為とみなすのは難しいのではないだろうか」(p108)「こうした行為は、たしかに「いじめ」とみなすこともできるかもしれないけれど、これ自体としては極端に深刻なものとはみなしがたい」(p119)とこの著者はこれまた繰り返し主張する。 ロッカーに閉じ込められて蹴飛ばされたり、段ボールの中に入れられて黒板消しの粉を振りかけられたりすることは、どう考えても「いじめ」であり、「悪辣非道な行為」であり、永久に許されるべきではないと私は思う。そして、自身の売り出し方のイメージ戦略として、それに「オナニーさせて、ウンコを喰わせた」という実際には他者が行っていたことを上乗せしたことが事実だとしても、本当にやっていたいじめの内容まで免責されるわけではないし、それがイメージ戦略だと思って行っていた、過去の自身の浅はかさに対しての責任を当然一生をかけて取り続けるべきだろう。
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小山田圭吾に対する批判が、雑誌を恣意的に切り抜いたブログに依拠してなされていた、という話をもう少し掘り下げて知りたくて読んでみました。 ある意味当然ではあるのですが、恣意的な切り抜きかどうかは、結局のところ原典(音楽雑誌記事)に当たってみないと分からないところがあります。 それで...
小山田圭吾に対する批判が、雑誌を恣意的に切り抜いたブログに依拠してなされていた、という話をもう少し掘り下げて知りたくて読んでみました。 ある意味当然ではあるのですが、恣意的な切り抜きかどうかは、結局のところ原典(音楽雑誌記事)に当たってみないと分からないところがあります。 それでも、小山田圭吾が、発達障害的な同級生との間でそれなりに親しい交流があったことを踏まえると、本書の主張にも説得力があるように感じました。 今後も同様の現象は起きると思いますが、情報源や原典に当たることの重要性は心に留めておきたいものです。
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読み物としてもおもしろかった。 著者の小山田圭吾への愛が感じられ、そこに感動した。 実際には犯罪を犯していないのに、民衆によって犯罪者のように断罪される。この事例はなにも現代特有のものではなく、人間社会では常に起こってきたこと。(様々な冤罪事件含めて) そして、小山田氏の事例も例...
読み物としてもおもしろかった。 著者の小山田圭吾への愛が感じられ、そこに感動した。 実際には犯罪を犯していないのに、民衆によって犯罪者のように断罪される。この事例はなにも現代特有のものではなく、人間社会では常に起こってきたこと。(様々な冤罪事件含めて) そして、小山田氏の事例も例に漏れず。 ただ、問題を矮小化することなく多岐にわたる視点で総括し、(インターネット空間で起こるエコーチェンバーとインフォデミックを細かく検証しているのは意義があるが、インターネット以前のメディアでもこうしたことは起こっていたと思う。巻き込む民衆の単位の桁が違うが。しかし、こういった総括や反論のスピード感もこの時代ならではとも言えると思う。)それらを踏まえて、今後への展望を語っているところに愛と本書の意味を感じた。 帯が「出会い直し」やもんね。
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読んで良かったす 偶然にも「なぜ働くと本が読めなくなるのか」を読んだあとだったのが良かった。 読書にはノイズ(自分と関係がない情報)が含まれ、必要な情報に簡単にアクセスできる現代では避けられるようになった、というのが「なぜ働くと〜」の結論だった。 本書は冒頭で「複雑なことを複雑な...
読んで良かったす 偶然にも「なぜ働くと本が読めなくなるのか」を読んだあとだったのが良かった。 読書にはノイズ(自分と関係がない情報)が含まれ、必要な情報に簡単にアクセスできる現代では避けられるようになった、というのが「なぜ働くと〜」の結論だった。 本書は冒頭で「複雑なことを複雑なまま伝えることが必要」という言葉で始められ、これが読書だけが担える役割であって、現代のポストトゥルースの甘受、あるいは無意識的享受に対抗し得る手段であると思えた。 本書で扱う問題は、ファクトチェックが進んだ現在でも、「シンプルに丸めて」理解しようとすればするほど氏にとって不利な材料が多い点が一層インフォデミックを加速していると感じた(当人が行っていないと釈明した行為を除いた上で、他のいじめに近い行為があった事実。被害者証言の不足等)。 それでも、全てに目を通すと「他人には短い時間でこの問題の是非を伝えることは難しいけど、自分の中で一つケリはつけられた」と思えたし、様々なネット記事の通覧では得られなかったであろう読後感であった。 特に、雑誌の意図的なプロデュースや2ちゃんコピペに端を発するブログ記事、ブログ記事参照の炎上発端ツイート、毎日新聞によるツイートの取り上げの一連の流れとその詳細なファクトチェックは、注意すべき一事例として参照の価値があると感じた。
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人文学者の手によるインフォデミック糾弾の書。僕は著者のような小山田圭吾の特別な信奉者というわけではないが、若い頃、パーフリから「Fantasma」まではそこそこ熱心な聞き手だったし、そこから20年以上も経たのちに持ち上がった件の「いじめ」報道と炎上騒ぎには心底辟易していた。ただ僕...
人文学者の手によるインフォデミック糾弾の書。僕は著者のような小山田圭吾の特別な信奉者というわけではないが、若い頃、パーフリから「Fantasma」まではそこそこ熱心な聞き手だったし、そこから20年以上も経たのちに持ち上がった件の「いじめ」報道と炎上騒ぎには心底辟易していた。ただ僕の抱いた疑念は著者のそれとは全く違い「なんであの小山田圭吾ともあろう者が『オリンピックの楽曲制作担当』などという名誉職を引き受けたのだろう?」というものだったけれど。念の為に申し添えれば僕はボランティアにも参加したオリンピック賛成派で、ただオリンピック自体は全く無害な催し(であり、それ以上のものではない)だがそれに付着している栄誉やら何やらは本当にくだらないと思っている。そこに唐突に加えられた小山田圭吾という強烈な色彩が、オリンピックのその無害さとどうにも相容れないものに思えただけだ。 そういうわけで、本書の第3章までの内容にはさほど共感することができなかった。確かに当時の邦楽ジャーナリズムが欲するように方向づけられてしまった面は否定できないだろうが、この奇矯なイメージづけで小山田が得たものもそれなりに大きいように思えるのだ。当時の小山田は、繊細で美麗な楽曲のコンポーザでありながら、攻撃的で非道徳的な面を併せ持つ一種理解し難い奥深さを持つアーティストとして認識されていた。そこに例のROJ・QJの一連の記事は一定の貢献をしたと言っては本当に過剰なのだろうか。それが反ヒューマニズムであるとして糾弾の対象となる度合いが、この数十年で大きく変動してしまったのは本当に不幸なことだが。 ただ、第4章の内容にはかなりシンパシーを感じた。自分の経験に照らしても、自分が「いじめている/いじめられている」まさにその時は、自分が「いじめる側/いじめられる側」にいるという意識は確かに希薄だ。しかしいったんそのような状況が閉じられた後で、それは「いじめ」や「パワハラ」であるという外部からの指摘ないし定義づけに接すると、そこではじめて「あれはいじめだったのだ」という明確な認識を持ったりする。他人が同様の状況(本書の言葉を借りればある種の「構造」)のもとで経験したエピソードに触れることで、自らの経験を事後的にその文脈で容易に捉えなおしてしまうのだ。 これはつまり「他人の人生を生きる」ということに他ならない。自らに固有の感性に基づくのではなく、他人の経験や批評を介してでしか自分の人生を評価できなくなってしまう。これは確かに著者のいうとおり由々しきことであり、奔逸する情報があまりに多すぎて、個々の情報を自らの経験に基づいて吟味する暇もなく脊髄反射的に反応することを余儀なくされている我々が容易に嵌りがちな陥穽だと言える。 「自分がエコーチェンバーの中にいるかどうか」は事後的にしかわからず、その外に出てみて「自分はエコーチェンバーに囚われていたのだ」と初めて認識できる。これはまさに「いじめ」の経験の図式と全く相似ではないか!「いじめ」と「エコーチェンバー」に同一の構造が隠されていることを喝破した、この著作は小山田圭吾のファンならずともぜひ一読すべきものだと思う。
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キーワードは「物語」ということかなと思った。音楽における雑誌・ジャーナリズムが小山田圭吾を「いじめの主犯」というイメージで飾る。そのイメージ/バイアスに沿って記事が作られ、それを補強する記事が新たに生み出され、それがコピペとなって手軽に(ファクトチェックを怠ったまま)シェアされる...
キーワードは「物語」ということかなと思った。音楽における雑誌・ジャーナリズムが小山田圭吾を「いじめの主犯」というイメージで飾る。そのイメージ/バイアスに沿って記事が作られ、それを補強する記事が新たに生み出され、それがコピペとなって手軽に(ファクトチェックを怠ったまま)シェアされる。「いじめ」という言葉に飛びつき、そこから正義感を燃え上がらせた人たちに恐怖するのはもちろんだ。だが、そうしたジャーナリズムが生み出す「物語」の魔性の力にぼくはどれだけ自覚的であるか。新手の「いじめ」や「渋谷系」試論としても読める
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小山田圭吾が思っていたよりもさらに悪くなくて驚いた。イメージに引っ張られていたと反省して最新作を聴いてみたが良さが分からなかった。なんか仙人みたいになってないか。 あと、小山田圭吾を糾弾した人とこの本を読んで糾弾した人を糾弾する人の間にはたいした違いはないのではという考えが頭を離...
小山田圭吾が思っていたよりもさらに悪くなくて驚いた。イメージに引っ張られていたと反省して最新作を聴いてみたが良さが分からなかった。なんか仙人みたいになってないか。 あと、小山田圭吾を糾弾した人とこの本を読んで糾弾した人を糾弾する人の間にはたいした違いはないのではという考えが頭を離れなくて読んでいて居心地が悪かった。
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オリンピックや報道や小山田氏に大して興味無かった身からするとずっと同じ話してて中々展開しない印象… 100ページ以内にまとめて欲しかった
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