大東亜共栄圏 の商品レビュー
帝国主義としての日本が海外で何をやったのか? というのが最近の関心事。この本は、その辺りを経済的な部分を中心に整理してくれている。 一言で言うと、グランド・デザインのない行き当たりばったりの政策と言うことになる。 総力戦の世界になって、日本だけでは戦争を戦い切る資源がないた...
帝国主義としての日本が海外で何をやったのか? というのが最近の関心事。この本は、その辺りを経済的な部分を中心に整理してくれている。 一言で言うと、グランド・デザインのない行き当たりばったりの政策と言うことになる。 総力戦の世界になって、日本だけでは戦争を戦い切る資源がないため、大東亜共栄圏が構想されるわけだが、そんなにしっかりとして戦略があるわけではない。 戦争で勝ったり、負けたりする中で、泥縄的にいろいろな政策が検討されたり、現地にまかせられたり。。。 この戦略のなさ。 これでは、もともと勝てるわけのない戦争が、全く勝てる可能性がなかったことが明確になった。
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大東亜共栄圏の構想から瓦解までを解説している一冊。 現代と同様に輸入に頼っていた日本は、欧州勢力の不均衡に巻き込まれ経済的に疲弊していきます。 戦争を前提にしていない立場にも関わらず、自給圏の拡大は欧州植民地であるアジア諸国へと向かうことになります。 そんな場当たり的な流れで日本...
大東亜共栄圏の構想から瓦解までを解説している一冊。 現代と同様に輸入に頼っていた日本は、欧州勢力の不均衡に巻き込まれ経済的に疲弊していきます。 戦争を前提にしていない立場にも関わらず、自給圏の拡大は欧州植民地であるアジア諸国へと向かうことになります。 そんな場当たり的な流れで日本の無茶なプロジェクトは進められ管理しきれずに終わっていくのですが、敗戦後の賠償が経済的なものではなくアジア開発のための役務賠償となった点はある意味誇れると感じました。 当時の日本は敗戦しても指導的な立場を強制されるほどに役立つ存在であったということです。 まともに計画をすればこのような失敗はなかったと思いますが、情勢悪化が先進国の冷静さを失わせてしまったのでしょうね。 現代にも通づる教訓がこの時代には沢山あります。
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東アジア、東南アジアを一つに統合して経済的な自給を果たそうとする試みを、日本がどのように構想し、実行したのか。結局は破綻したが、なぜ破綻したのかを書いた本。 構想の段階で問題点を指摘する人はいるんだけど、意思決定できる地位の人まで届かないのがもどかしい。働いていてもよくあるこ...
東アジア、東南アジアを一つに統合して経済的な自給を果たそうとする試みを、日本がどのように構想し、実行したのか。結局は破綻したが、なぜ破綻したのかを書いた本。 構想の段階で問題点を指摘する人はいるんだけど、意思決定できる地位の人まで届かないのがもどかしい。働いていてもよくあること。 この本のいいところは、計画の立案や実行過程を詳しく説明してくれるところ。このときにこういう決定したから後々こういう結果になった、という流れがわかりやすくなっている。東南アジアの独立の過程あたりは本当にわかりやすい。
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構想は場当たり的、運営は独善的かつ一方的、大東亜共栄圏構想は決して誇れるものでなし。 何故にこのようなやり方がまかり通ったのか、不思議でしかない。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
英米への経済依存を断ち切り、自らが盟主となる自立した経済自給圏をつくろうと、大東亜共栄圏へ。しかし、あまりに準備不足だった。大東亜共栄圏は建前は自主自立であった。
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戦争の悲惨さは戦いだけ見てもダメということがよくわかった。 日本がなぜこんな無謀な戦争をしたのか、そしてそれは今の時代もよく似ていることだ
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そもそもが無理なのだろうが、もっとうまくできたのだろうか。また、他国はもっとうまくやっていたのか。そういう次なる疑問を引き出してくれる名著
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大東亜共栄圏についての政策、各国の状況、共栄の失敗、つまり、物質を収奪するのに失敗したことが説明されている。まとまっているので、大東亜共栄圏について 知るにはいい本であろう。 。
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大東亜共栄圏構想が大日本帝国の敗戦によって瓦解してしまったことは今さら言うまでもない。しかし、その構想の中身、歴史的な位置付け、我々が学ぶべき教訓・意義についてはきちんと認識されていない部分が多い。また戦争が進行していく過程で海上輸送能力が失われてしまったということ以外の「失敗の...
大東亜共栄圏構想が大日本帝国の敗戦によって瓦解してしまったことは今さら言うまでもない。しかし、その構想の中身、歴史的な位置付け、我々が学ぶべき教訓・意義についてはきちんと認識されていない部分が多い。また戦争が進行していく過程で海上輸送能力が失われてしまったということ以外の「失敗の原因」についても同様だ。本書はそうした基本的だが大事な部分を新書というコンパクトな形でわかりやすく示していて大変有意義である。 まず大東亜共栄圏が東南アジア中心に理解されがちななかで、著者は朝鮮・台湾を含む「日本」と北支・満洲の重要性をあらためて強調する。とりわけ1930年代のブロック経済形成の延長上に南方資源の獲得が組み込まれ、まさに「大東亜」における経済自給圏構想が起ち上がっていくことは、「大東亜共栄圏」の経済的な側面をより一層明確なものとする(「大東亜共栄圏」は「アジア解放」の思想とも関連付けられることの多い概念ではあるが、本書が明らかにしようとしているのは、大東亜共栄圏の経済的側面であることに注意)。そして、1930年代に自由通商の枠組みが崩壊していくなかで、あるいは自由通商実現の努力が頓挫していくなかで「外交転換」という経済自給圏形成へ舵を切ったのがまさに松岡洋右の「大東亜共栄圏声明」(1940年8月1日)であった(p.34)。 その後、1941年、第2次日蘭交渉の失敗によって日本は南部仏印進駐、アメリカの対日石油禁輸、対英米蘭開戦へと進んで行くことになるのは今さら言うまでもないが、驚くべきことは大東亜共栄圏構想の立案・審議が1942年2月、緒戦の勝利の後に、まさに泥縄で作られていったことであろう。これはその1年半前に松岡が構想した早期講和を前提とする勢力圏分割の枠組みの中での大東亜共栄圏構想とまったく違うものであった(p.48)。第2章ではその大東亜建設審議会設置、審議過程、答申までが扱われているが、商工省や企画院などの官僚同士の対立はある程度予想がつくのだが、業界団体(紡績や糖業)の影響力がかなり強かったことも重要なポイントであろう(そもそも審議会の部会構成上そうならざるを得ない気もする)。*本筋とは関係ないが、1941年1月に閣議決定された企画院提出の「人口政策確立要綱」作成にあずかって力のあった人口問題研究所調査部長だった中川友長による長期人口推計が当たりすぎているのには驚いた(p.62)。 第3章「自給圏構想の始動」では早くも自給圏構造が先送りされ、戦略物資獲得最優先の方針が打ち出されていく。またそれは東南アジアの独立付与と軍政優先の綱引きでもあったが、南方軍参謀に着任した石井秋穂大佐(1900〜96)による「南方占領地域行政実施要領」が与えた影響が大きかった。これによって「東亜の解放」というスローガンが抑制されていった(のちの大東亜会議が茶番に終わったのも外交軽視のこうした方針が採用されていった結果とも言えよう)。第3章の最後で東南アジア地域の一元管理を目指した大東亜省設置に東郷茂徳外相が猛反対をするわけであるが、当然であろう。あとこの章では複雑な東南アジアそれぞれの国や地域ごとの違いや民間企業の進出の様子がコンパクトにまとまっていてわかりやすかった。 第4章以下は1943年以降の戦局悪化が進んで行くなかで自給圏構想が崩壊していく様が丁寧に描かれている。弥縫的と言っても良い政策の立案とそれを都合良く解釈していく政府機関、軍。自立と統制の矛盾、民需と軍需の調整破綻、諸々が絡み合って破局へと進んで行く。 終章最後で著者は「戦後の冷戦、植民地の独立、イギリスの撤退とアメリカの覇権という戦後の東南アジアをめぐる新しい国際的枠組みが形成されるなかで、日本は盟主としてではなく、アメリカの「ジュニア・パートナー」(『海の帝国』)として、アメリカに次ぐ二番目の地位にあって、東南アジアへ進出していった。つまり、戦前と戦後の日本と東南アジアを取り巻く国際環境が大きく変化し「断絶」したからこそ、戦前や大東亜共栄圏建設過程で得た人脈や現地情報を利用して、日本企業の再進出という「連続」が可能になったのだ」と指摘している(p.239)。慧眼であろう。
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第2次大戦下の国策であった大東亜共栄圏の概説。日本を中核とする排他的な経済自給圏の構築こそがその本質というのが、筆者の視点である。だが、大東亜共栄圏構想は当初から場当たり的であり、最終的には輸送力の低下によって瓦解していく。 場当たり的な例は色々あるが、フィリピンでの綿花生産の...
第2次大戦下の国策であった大東亜共栄圏の概説。日本を中核とする排他的な経済自給圏の構築こそがその本質というのが、筆者の視点である。だが、大東亜共栄圏構想は当初から場当たり的であり、最終的には輸送力の低下によって瓦解していく。 場当たり的な例は色々あるが、フィリピンでの綿花生産の失敗は印象的である。綿花不足を補うため、日本はフィリピンでの綿花増産を目論むが、気候風土に適せず、また治安悪化の影響も受けて、失敗する。と同時に、綿花への作付転換の影響も受けて、主要輸出産業であった砂糖の生産量は100分の1にまで激減した。 そして、このように当初から無理のある構想であったため、占領地住民の生活保障は二の次であった。日米開戦を決めた御前会議において、大蔵大臣の賀屋興宣は「相当長期の間、現地一般民衆の生活を顧慮するの暇ほとんどなし」と既に明言していたと、筆者は指摘する。 経済を通じて歴史を視ることの有効性を教えてくれる1冊。
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