ベイルート961時間 とそれに伴う321皿の料理 の商品レビュー
パリ在住の著者がレバノンの大都市ベイルートに滞在し、「他者を内部に入れる」行為である食事と料理を通じて考えた、街と戦争と生活にまつわる321章。 フランス語の著作が高く評価されているパリ在住の日本人が書いたレバノン滞在記。本書も元々フランス語で発表したものを著者自ら日本語に書...
パリ在住の著者がレバノンの大都市ベイルートに滞在し、「他者を内部に入れる」行為である食事と料理を通じて考えた、街と戦争と生活にまつわる321章。 フランス語の著作が高く評価されているパリ在住の日本人が書いたレバノン滞在記。本書も元々フランス語で発表したものを著者自ら日本語に書き換えている。 関口さんは1ヶ月半のベイルート生活にあたり、料理をテーマに本を書く決めた。滞在中は自炊せず、三食すべて土地の人と同じものを食べたという。他国での食事は「他者を自らの内部に入れ、受け入れられるか否か」を問う行為だからだ。 並行してレストランガイドも作ったというから沢山の店に行ったのだろうが、本書はその食体験を詳細にルポするエッセイではない。関口さんが料理を研究家みたいに分析することもない。それよりもベイルートの人びとから聞いた食事にまつわる思い出話や、外国料理屋に関する省察などにページが割かれ、全体としては都市論になっている。 レバノンの人びとは美味しいものが大好きでレストランも水準が高く、関口さんがベイルートに行くと言うとパリの人からも羨ましがられたとか。けれど、彼らが語る料理の思い出には戦争の記憶が分かちがたく結びついている。「戦争のことを話して」と頼むよりも料理の思い出を聞くほうが、より実感的な戦争のエピソードにでくわすのではないかと関口さんは言う。特に印象深かったのは、戦時に自家発電機を回してできた貴重な電気を、マルガリータの氷を作るために使ったお父さんのエピソード。愚行の裏にある切実さ、人の尊厳を保つために必要な“無駄なもの“の重大さが伝わってくる。 レバノン料理は香りの料理なのだそうだ。本書で紹介されるのも香草がふんだんに使われたものばかりで、そういう料理は嗅覚で記憶に強く訴えかけるのだろう。何度もくり返しでてくるのは「ケッベ」というダンプリングの一種で、これも美味しそう。一つ語りだすと蓄積された食体験が引きだされ、日本食はもちろんイラン料理との共通点やパレスチナ難民に聞いた好きな料理のランキングなど、幅広い“味”の話が連想的に語られていくのが贅沢である。 ベイルートにはアジアの他地域からの移民が多いにも関わらず、彼らがオーナーになって自国の料理を振る舞う店が極端に少ないという指摘は、関口さんならではの視点だろう。自国民がディアスポラとして世界中に散らばっているレバノンでは、他国から戻ってきたレバノン人がやっている外国料理の店は多く、食の多様性自体は開かれているが、移民とレストランの数の不均衡には社会的ヒエラルキーが隠れている。 関口さんのベイルート滞在は2018年で、その後2020年に起きた革命によってレバノンは大変動を余儀なくされた。さらに不幸な大事故のせいでベイルートの商業地域が壊滅状態になってしまい、今はもうさまざまな意味でこの本に書かれたような都市ではないという。革命が本格化するきっかけがWhatsAppへの課税政策だったこと、「忍耐とは、物事が続いていく幻想を抱ける国の美徳でしかない」ということばに日本の現状を重ね見てしまう。 ベイルートといえば四方田犬彦の『さらば、ベイルート』も読んだが(ジョスリーンの名前は本書にもちらっとでてくる)、むしろ同著者の『モロッコ流謫』を連想するところがあった。人と街と食事。西洋的な権威に対するコンプレックス、非西洋的アイデンティティの継承。生と死の境界を明らかにする営みとしての食の本。
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先日レバノン料理を初めて食べたので、再度読み返した。表紙だけでは料理本だが、生活や文化、内戦など幅広いテーマのエッセイの中で通底する料理という感じ。レバノン人は、料理を作ることも食べることも大好きということ、香りをとても大切にすることなど、生活の中にしっかり料理が根付いていることがよく分かる。料理自体が生きる希望・楽しみなのではないかと思えてくる。 ===== 料理本とはどんな性質の本だろうか。それは単に料理を作る手順をマナアブマニュアルではない。それは、ある時代の様々な味が凝縮されたものであり、家族や、身近な人々の思い出が詰まった本でもある。その料理を作ることで、思い出がマッチ売りの少女の擦るマッチの炎の向こうに、わずかの間立ち上がる。それはある時代の五感のアーカイブだ。だからこそ、料理本は、読み方を知っている人たちにとっては、特に、この上ない文学作品にもなりうるのだ。(p.14) ベイルートは、薄暮が何より独特だと思う。フランス人は、ベイルートは憂国の時間帯が短く、すぐに夜になってしまうというが、「秋の日は釣瓶落とし」のような暮れ方に馴染んでいる日本人にとって、この都市が日の光と別れる時の仕草は見知らぬものではない。 わたしは、それはフランス語のcrépusculeという単語よりも、日本語の薄暮、夕暮れに近い暮れ方だと感じる。 フランスでは、「夕暮れ」を経験したことは一度もない。(p.25) 赤瀬川原平はかつて、「カレーは究極の料理だ」と書いた。カレー粉を入れた時点で、どんな料理もカレーになってしまう。ポトフにカレーを入れたり、ピザに入れたり、スープにいれたり……。カレー粉はわたしたちを断崖絶壁まで連れていく。ここから先はもう後戻りは許されない場所まで。(p.71) ある料理は、何度となく作られ続けるうち、自分たちの言葉となり、発音の仕方となり、それについて客観的に語ることは難しくなる。料理はわたしたちの舌と言葉をつくり上げる。料理はそれをこしらえる人の体と切り離すことはできない。文章とそれを書いた書き手との結びつきと同じくらい、あるいはもっと強く。(p.79) 過去において、内戦だけではなく、特に様々な都市計画のせいで大規模な破壊に遭いながらも、この街にはどこかしら、有機的な、生き生きとしたところがある。街自体の息吹とでもいうべきもの。それがわたしたちの心を揺さぶるのだ。(p.115) レバノンの料理は、近隣のシリア料理、アルメニア料理、トルコ料理とは違い、香草の「住まう」料理だ。何かの葉やハーブの入っていない料理はない。かつては、食事の前に庭に香草を摘みに行ったのだろう。わたしは、料理を前にして、その手を想像する。これらの香草は、料理に香りを添えるだけではなく、その一品一品に魂を与えている。これらの草が料理に生を与え、料理を呼吸させる。 これらの香草は、「シーズニング」、つまり調味という意味の語源に一番近い存在だ。つまり、料理に「シーズン、季節を与える」のだ。(p.117) 「すでに遅すぎる」という感覚は、生き急いでいる場合には、自分たちがどのみち手にできないものに関わることを許してくれない。人生はあまりにも短すぎるから。しかし、ベイルートに住む人々は、生き急ぐ一方で、ノスタルジーにも囚われている。ベイルートという街がノスタルジーに浸かっているのだ。失ったもの、日々失いつつあるもの、あまりにも早く失くなってしまったもの。ノスタルジーとはなんて奇妙な機械なのだろう。ここでは、誰もがノスタルジーの色に染められていながら、一人でも数人分の人生に等しい活動を行いうるのだ。(p.201) ベイルートでは、料理に単に興味がある、というレベルを超えて、料理が人生において大きな楽しみだ、作ることも食べることも大好きだ、という答えが多い。確かにこの街では、まずい食べ物に出会ったことがない。職業柄鼻が利くので、いい店かどうかを見わけるのは人より慣れているにしてもだ。洒落たレストランでも、地元客で賑わう定食屋でも、小さなパン屋さんでも、飲食は、おろそかに扱うべき事柄でないのが感じられる。(p.203) あらゆる食文化は、生き、常に動き、変容をやめない。しかし、過去や伝統、未来、そして変容そのものの性質は文化によって異なる。この街は、ノスタルジーに満ちていて、伝承の問題もレバノン人に取り付いて離れないが、ベイルートの料理は、決してノスタルジーの料理ではないと思う。 困難な状況の中でも、ベイルートの住民たちは自分たちの料理と生き、常に新しく生み出し直していけるだろう。住民同士の連帯が、宗教や民族間の違いを乗り越えているように見える現在はなおさら。(p.235)
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レバノンという国、ベイルートという街のことをあまりにも知らなかったが、この本を読んだことで、もう少し関心を持っていきたい。
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内戦の傷跡が残るベイルートに1ヶ月半滞在し、その間に「食」を通じて見えたこと、聞いたこと、知ったこと、考えたことなどを綴るエッセイ群。「食」を通して、ベイルートという街を把握しようという試みが面白い。 「食」は人々のもっともプライベートな部分を担当しているだけに、「食べ物の話を...
内戦の傷跡が残るベイルートに1ヶ月半滞在し、その間に「食」を通じて見えたこと、聞いたこと、知ったこと、考えたことなどを綴るエッセイ群。「食」を通して、ベイルートという街を把握しようという試みが面白い。 「食」は人々のもっともプライベートな部分を担当しているだけに、「食べ物の話をしてください」とお願いすると、必ずその人自身の戦争に関するエピソードが出てくる、という話があった。 ❝おそらく、料理というテーマは、一見深刻でないように思われるからこそ、語り手の思いがけない記憶を引き出すのかもしれない。例えば、「戦争時代の話をしてくれますか」と尋ねた場合には出てこない話が。(p.106)❞ 昭和時代、我々日本人も食べ物の話をしながら戦争の記憶を思い出して語ったりしたのだろうか。
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読んでいると日本語の文章なのに翻訳っぽい。あとがきを読んで、これは著者がフランス語で書いた文章を自ら翻訳したとあった。そういうことか。 料理よりも、生まれた国を離れる人が多いというレバノンという国に驚いた。
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フランス在住の日本人作家がフランス語で書いた紀行文の日本語訳ということ。 料理本ではなく、レバノンの首都ベイルート滞在中に体験したこと、感じたことをを綴ったもの。その後、港湾爆発事故で大きなダメージを受けたため、以前の姿を伝える貴重な本となっているらしい。
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2021年にフランスで出版され翌年に邦訳版が刊行…という、逆輸入のような本書。 副題の「321皿の料理」だが、全て料理のレシピが書いてあるわけではなく、著者(作家・翻訳家。仏語と日本語で創作活動を展開)が現在住まうパリや取材で訪れたベイルート、日本での幼少期の出来事が321項目...
2021年にフランスで出版され翌年に邦訳版が刊行…という、逆輸入のような本書。 副題の「321皿の料理」だが、全て料理のレシピが書いてあるわけではなく、著者(作家・翻訳家。仏語と日本語で創作活動を展開)が現在住まうパリや取材で訪れたベイルート、日本での幼少期の出来事が321項目列挙されている。 そんな不思議な番号の振り方・統一感がないようにも見える書き方に当初は違和感を覚えたが、次第に話の続きが気になるように気持ちが向いていた。 「ベイルートの住民が食べる料理」をテーマに、2018年4月6日-5月15日まで取材・滞在することになった著者。滞在中はベイルートの人々が作るものしか口にしないとルールを決め、多くの住民や友人、料理研究家に聞き取りをされている。 現地では「(今まで取材に来た作家やジャーナリストとは違い)初めて内戦を取り上げない人が出てきた」と大歓迎されたという。街自体に興味を持ってくれていると感じられる、遊びに来て一緒に過ごせるのが嬉しいのだと。 その真意を聞いて、彼らの屈託のない笑顔が目に浮かんでくるのはきっと自分だけではないはずだ。 「ベイルートという街自体が一冊の本なの。それもとても美しい本」 著者は食文化を「一つの言語」とし、そこから材料(=語彙)が集まって一皿やディナー(=文章や作品)が出来上がると言い表している。 思えば彼女の洗練された文体や、多彩な表現の数々に息を飲みっぱなしだった。それらを結集させた本書は、彼女にしか出せないカラーを散りばめた美食そのもの。 感謝の意として、自身の言葉をベイルートをはじめとした人々に届け、振る舞おうとされたのかもしれない。 「ぼくたちは自分たちの前世代の代理人として、都市の歴史的な層が失われることを悲しむんだ。一度も見たことのないものにノスタルジアを覚えるんだよ」 ここではしばしば 「ノスタルジー」というワードに行き当たる。 (内戦や2020年のベイルート港爆発事故によって)失われた風景を今回書き残したことに対しても、著者はベイルートの人々から感謝された。 「感謝の裏側で、在りし日の情景を読むたび落ち込んだりしないのだろうか」と不安に思う。実際馴染みのある事物といった「指標」を失う時彼らのノスタルジーは生まれるのだから。生活の彩りも失われていくのでは、と耐えず気にかけていることだろう。 でも著者は生活の彩りの一つである料理に、希望を見出している。 「この街にはどこかしら、有機的な、生き生きとしたところがある。街自体の息吹きとでもいうべきもの。それがわたしたちの心を揺さぶるのだ」 ベイルートの住民たちは作るのも食べるのも好きで、料理に対して並々ならぬこだわりを見せる。レバノン料理は「香りの料理」と称され、調理の時点でハーブの香りがキッチンに満ち溢れるのだそう。「香り」も調味料の一つとするほど、料理を疎かにしない。 「料理への情熱が消えない限り、まだまだ街は大丈夫!」と、力いっぱいのエールが最後に添えられていた。
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革命前のベイルート、レバノンの滞在記。料理をテーマにして町を観察し人々と出会い、自分との人生比較をしながら熱い思いを本にしている。レバノンの香りが立ち昇って来た。できれば文中に料理の写真があればもっと分かりやすかったのにと思う。
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部落を巡る筆者の回想のところで何故か涙が出た。不意に心の琴線に触れる詩の言葉。生きるうえでのガイドブック。
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