戦後民主主義に僕から一票 の商品レビュー
単著を読むのは、実はずいぶん久しぶりだった。共著書はしょっちゅう読んでるし、SNSでの発信にも触れるから、あまりそんな気はしていなかったけど。で、本書も相変わらずの内田節炸裂です。そういえば、先だって読んだ佐藤・池上新書の中で、内田さんのアメリカ陰謀論が、みたいな書き方をされてい...
単著を読むのは、実はずいぶん久しぶりだった。共著書はしょっちゅう読んでるし、SNSでの発信にも触れるから、あまりそんな気はしていなかったけど。で、本書も相変わらずの内田節炸裂です。そういえば、先だって読んだ佐藤・池上新書の中で、内田さんのアメリカ陰謀論が、みたいな書き方をされていたんだけど、それが何だか全然ピンとこなくて、どういう読み方をしたらそうなるんだろ?と思ってたんだけど、なるほど、本書でも再三触れられる、アメリカの属国という考え方を受けて、ってことなんだな、きっと。でも、実際その通りじゃん。ここで記されるごとく、ひとまずそのことを受け止めないと、次のステップに進めないと考えるのが妥当じゃないか、と。
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『戦後民主主義に僕から一票』 久々の内田本。懲りもせず、はじめにから引き込まれる。内田老師は、誰も書かないようなことしか書かないことを、文筆家としての自らに課している。誰もが書くようなことを書くのは、書き手としての意味がないからである。しかし、伝えたいメッセージは極めてシンプル...
『戦後民主主義に僕から一票』 久々の内田本。懲りもせず、はじめにから引き込まれる。内田老師は、誰も書かないようなことしか書かないことを、文筆家としての自らに課している。誰もが書くようなことを書くのは、書き手としての意味がないからである。しかし、伝えたいメッセージは極めてシンプルである。民主主義って大事だよね、憲法って大事だよね、教育って大事だよねという具合に、誰もが書くようなことを書いている。しかし、内田老師の凡庸ならざる点は、まさにその理路の部分にあり、なぜ大事なのかと言うロジックが、人とは明確に異なっているからこそ、何度も膝を打つポイントがある。 民主主義に対して、何事も決まるのに時間がかかることを良くない点として挙げる人々に対して、民主主義は決まるのが遅いところが「実はよいこと」であることを伝える。なぜなら、決まることが遅ければ、世の中がすぐに良くなることはないけれども、すぐに悪くなることはない。先人は、世の中がすぐに悪くなる経験を何度もして、急転直下で悪くなるという最悪の事態を招かないように、世の中がすぐに良くならないというデメリットを知ったうえで、採用しているという理路で説明する。このような鮮やかさが内田老師の老師たるゆえんであろう。 こうしたことは、今営業を行っている自分も常日頃感じる。営業担当者というものは、言っていることは同じである。「他社の商品より、弊社の商品が良い」「弊社の商品は買うだけの値打ちがある」ということだけである。しかし、なぜ他社より優れているのか、なぜ買うだけの値打ちがあるのかは、それを買う人やタイミングの数だけ理路がある。相手を納得させることができる理路を導き出した人間が、他の誰にも売れなかった相手にも売ることができる。まさに、その理路の部分に余人をもって代え難いその営業マンの魅力がある。 本の内容に入るが、戦後民主主義への述懐とリアリズムに関する話が面白かった。 内田老師は、いわゆる全共闘世代であり、学生闘争真っ盛りの時代の東京大学で青年期を過ごしている。当時の世代の主張はシンプルであり、制度的な権力に守られている「大人たち」を平場まで引きずり出し、真剣勝負をさせることであった。当時の学生が求めたのは成果主義であり、実力主義であり、組織の力を借りずに独力で勝負できる人間が強いという信念を持っていた。そして、そのような学生たちが大人になったとき、できてしまったのが、成果主義で実力主義、自己責任論の横行するマッチョな社会である。そして、誰もが理想郷として求めた社会は暮らしやすい社会ではなかった。社会は、大人たちを平場に引きずり出して喧嘩を吹っ掛ける青年だけでは持たなかったのである。喧嘩を吹っ掛けられても、喧嘩をせず、誰も気づかないけれども社会のマイナスを埋め合わせている大人たちが、社会に不可欠であったのである。そうした述懐に、我々若い人々の学ぶところがある。 リアリストの章は、p138の文章をそのまま書いてしまった方がわかりやすい。最近、現実を変えようとする人々のことを嘲笑する人々をリアリストと呼ぶ風潮があるが、内田老師に言わせれば、それは全くリアリスティックな態度ではない。ただの正常性バイアスの虜囚である。本当に、現実を重くとらえている人間であれば、現実を如何にして改変していくかが、主題になるはずであるからである。そうした理路は、非常に納得がゆくし、私自身、正常性バイアスの虜囚には、人間としての尊厳を感じられないと思う節があるので、そのようにはなりたくないものである。 「既に作り出されてしまった現実、どこからか起こってきた現実をただ追認し、それに適応していく態度のことを私はリアリズムとは呼ばない。リアリズムとはむしろ現実をこれから自分のアイデアに基づいて改変し、創作しようとする生き方だと思うからである。ほんとうに現実を重いと思っている人間なら、それに適応するのと同じくらいの熱意をもって、あるいはそれ以上の熱意をもって、現実をどうしようかについて気遣うはずである。明日の現実を変えることは自分の仕事ではないと思っている人間は、明日の現実がどのようなものになるか特段の興味がないと告白していることである。そのような人物にリアリストを名乗ることができようか」
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