権記 の商品レビュー
藤原行成の日記。苦労人で真面目な人なんだな、と感じた。有力な血縁や姻戚をもたないので、一条の側近でありながらも道長側に付き、一条に働きかけなければならないなど苦労されたのだろうな。そんな行成は、道長と同じ1027年12月4日没。小右記、御堂関白記、権記(完全版ではないです)と読み...
藤原行成の日記。苦労人で真面目な人なんだな、と感じた。有力な血縁や姻戚をもたないので、一条の側近でありながらも道長側に付き、一条に働きかけなければならないなど苦労されたのだろうな。そんな行成は、道長と同じ1027年12月4日没。小右記、御堂関白記、権記(完全版ではないです)と読みました。どうしても大河ドラマの役者さんが被ってきてしまう。
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苦労人行成のお仕事日記。 『御堂関白記』とまた違ったかたちで、あの時代を記した日記である。自筆が残っている『御堂関白記』がレアとはいえ、あまり詳しく残っていないのは寂しい。なかなか出世が望めない状況で、道長に追従しながら頑張っていたことが感じられる日記だが、妻子の病や死について書いた部分も印象的。
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藤原行成 天禄3年(972)~万寿4年(1027)12.1・・なんと道長と同じ日に没。 日記はもともと「行成卿記」と呼ばれていたが、最高位の権大納言(寛仁4年1020 後一条天皇時の49才)により「権記」とよばれるようになった。20才の西暦2年(991)から寛弘8年(1011)...
藤原行成 天禄3年(972)~万寿4年(1027)12.1・・なんと道長と同じ日に没。 日記はもともと「行成卿記」と呼ばれていたが、最高位の権大納言(寛仁4年1020 後一条天皇時の49才)により「権記」とよばれるようになった。20才の西暦2年(991)から寛弘8年(1011)までが伝存し、これに55才の万寿3年(1026)までの逸文(諸書に引用された物)が残っている。特に蔵人頭在任中の活動が詳細に記されており、当時の政務運営の様相や権力中枢の深奥(宮廷の秘事)を把握するための第一級の史料である。 「権記」は日時記(ひなみき)、別記、部類記などが複雑に伝来して、現在の形にいたっていると考えられる。現存する「権記」の最古の写本は、鎌倉期の書写とされる伏見宮家旧蔵本22巻き(宮内庁書陵部蔵)である。一部は江戸期に書写された前田本(尊経文庫蔵)しか存在しない年もある。 日にちごとに、訳文、読み下し文、原文、解説の順。 「国際日本文化研究センター 摂関期古記録DB」に「権記」あり 読み下し文が日にち順に載っている。 https://www.nichibun.ac.jp/ja/db/category/heian-diaries/ 最初の記録は、 ・西暦2年(991)9月7日 大臣任命の儀式の様子。 太政大臣の官は、摂政正二位藤原道隆朝臣を任じるべきである、と宣したが謙譲の心が深くて、内大臣の官をも辞し申した。 ~ここらへん「光る君へ」でも描かれていたかも。 (行成は20才、従五位上→正五位下となった) ・長徳元年(995)8月29日 蔵人頭に抜擢される 巻末に年表 寛仁2年(1018) 3月、行成女(12才)、道長男長家(14才、母明子の末子)と結婚。行成は長家を自邸に迎えたことになる。長家は倫子の養子となっていて、明子所生の兄たちとは政治的立場が異なっていた。だが兄たちと同じく数々の濫行で名をはせていた。 だが、治安元年(1021)行成女は亡くなってしまう。・・この亡くなった日の記述は1行載っていた。・・ということは15才で亡くなった? 行成は両親や祖父、妻、子たちに先立たれている。 本文は読み下しがあるとはいえ、全部読むのはなかなか難行。とりあえずこういうものか、というのが分かった。 解説:倉本一宏 2021.9.25初版 2023.10.15第3版 図書館
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大河ドラマ「光る君へ」にも出てくる藤原行成の日記。儀式が律に則らず、家ごとのしきたりになっていく中、子孫に振る舞い方を残すために綴られた。その中でも時折、歴史に残る事件や本人の感情が垣間見えることも面白い。当時の文章と現代語訳を比較しながら読むと当時の筆致もうかがえる。 今後は、...
大河ドラマ「光る君へ」にも出てくる藤原行成の日記。儀式が律に則らず、家ごとのしきたりになっていく中、子孫に振る舞い方を残すために綴られた。その中でも時折、歴史に残る事件や本人の感情が垣間見えることも面白い。当時の文章と現代語訳を比較しながら読むと当時の筆致もうかがえる。 今後は、大河ドラマに出ている藤原実資の小右記も読んでみたい。
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倉本一宏先生の「平安貴族とは何か」を読んでから、藤原行成が書いた日記である「権記」も読んでみたいと思い手に取った。面白かった! 三蹟の一人に数えられるほど能筆の藤原行成の日記が綴られている。奈良のお寺にお参りに行って観光したこと、ピクニックに行って藤原公任のかの有名な「滝の音は耐...
倉本一宏先生の「平安貴族とは何か」を読んでから、藤原行成が書いた日記である「権記」も読んでみたいと思い手に取った。面白かった! 三蹟の一人に数えられるほど能筆の藤原行成の日記が綴られている。奈良のお寺にお参りに行って観光したこと、ピクニックに行って藤原公任のかの有名な「滝の音は耐えて久しくなりぬれど名こそ流れてなお聞こえけれ」の和歌が詠まれたその場に立ち会ったことから、一条天皇に一帝二后を迫り、一条天皇の臨終に合わせて「皇后定子が産んだ敦康親王ではなく中宮彰子が産んだ敦成親王を東宮に」と進言するところまで、とても勤勉に記録が残されている。 一条天皇が定子を失った悲しみを理解していても、自分の家を守るために時の権力者藤原道長について行かなければならない忸怩たる思いも少しずつ見えてくる。一条天皇の辞世の句は彰子ではなく定子に捧げられたものであるとすら書く彼一個人のゆれる気持ちが表されていた。 藤原行成といえばその能書ぶりと佐倉にある歴史博物館の展示の「ブラックすぎる務め方」のイメージだったのだが、歳をとって出世していくたびにおやすみももらえるようになったようでそこにほっとした。 また、十代から連れ添った妻をお産で亡くした時の悲しみも身に迫る。大変に有能なんだれけども人間らしいところがある人なんだなと。 平安貴族は喧嘩もする。結構殴り合うし怒るとボコボコにする。行成も燭台で同僚の顔を殴る夢を見ており、喧嘩相手のことを「甚だ愚か」とか書き残しちゃう。夢の中とはいえ結構行成も喧嘩っ早い方なのかもしれない。 人の日記を読むのは面白いし、それが千年以上残っているのもロマンがある。 ビギナーズクラシックスの例に漏れず現代語訳、書き下し文、漢文がそれぞれ収録され、そこに倉本先生が解説を加えるという構成。漢文、古文それぞれの読み方がわかるので勉強にもなる。 倉本先生は「権記」を全て現代語訳しているらしい。そっちも読みたくなってきた。 ここまで自分の子孫のために詳細に日記を残した行成だが、息子たちが問題ばかり起こすので結局その家系は没落してしまったという結末が何とも言えず切ない。しかし倉本先生に「こいつ」呼ばわりされてしまう行成の息子たちは確かに「こいつ」呼ばわりされても仕方がないかな……という不祥事ばかり起こしている。そうした背景について解説されているコラムも面白かった。
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摂政藤原伊尹を祖父とし、母方を四代さかのぼれば醍醐天皇に至る。 父義孝が早世しなければ…ときっと思っていたに違いない。 それが藤原道長と同時代に生きたばかりに、官吏としては不本意なポジションしか得られなかったのが行成。 とはいえ、能力の高い人である。 早いうちに道長に尽くすこと...
摂政藤原伊尹を祖父とし、母方を四代さかのぼれば醍醐天皇に至る。 父義孝が早世しなければ…ときっと思っていたに違いない。 それが藤原道長と同時代に生きたばかりに、官吏としては不本意なポジションしか得られなかったのが行成。 とはいえ、能力の高い人である。 早いうちに道長に尽くすことで、自分の生きる道を切り開く。 権記は彼の残した日記であり、日次の記録である。 それほど彼の内面を克明に記すものではない。 歴史家にとっては、一級の史料だが、自分など一般人は、それこそ『蜻蛉日記』のように、彼の内面を読もうとしてしまう。 それは間違っている、とは思うけれど…。 やはり一条天皇に、敦成親王の立太子を決断させたり、妻子の死去を記したりしているところは、つい身を乗り出すように読んでしまう。 編者倉本一宏さんは、学芸文庫から全文訳も出している。 全文訳は、訳とはいえ、読み通す自信がなく、まずこちらを読んでみた。 ビギナーズクラシックの抜粋版を読んでいて、語釈が欲しいなあ、と思う部分もある。 例えば「重日の忌み日」など。 解説文にも、やはり紙数の限りがあるせいか、事細かな語句については触れていない。 全文訳には、こうした部分は手当されているのだろうか?
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さまざまな小説等で「働き者の平安貴族」というイメージがあったので、読んでみた。想像以上に激務でびっくり。 何より驚いたのは、藤原道長と同日に亡くなっていたこと。
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