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空海の言語哲学 の商品レビュー

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2026/03/22

空海の『声字実相義』を読み説くとともに、彼の言語哲学についての著者の解釈が展開されています。 最初に、大乗仏教の言語観の概観をおこない、それと比較することで空海の密教思想にもとづく言語観の特色が明らかにされます。ここで著者が参照しているのは、龍樹の中論や唯識思想です。そこではお...

空海の『声字実相義』を読み説くとともに、彼の言語哲学についての著者の解釈が展開されています。 最初に、大乗仏教の言語観の概観をおこない、それと比較することで空海の密教思想にもとづく言語観の特色が明らかにされます。ここで著者が参照しているのは、龍樹の中論や唯識思想です。そこではおおむね仏果を言語によって語ることはできないという「果分不可説」が主流でした。これに対して空海は、法身説法の考えかたにもとづいて、仏果を言語によって表現することができるという「果分可説」の立場を標榜しました。 空海の考えでは、言語は音響の上に見いだされる音韻屈曲(あや)としての文字でした。その一方で、声・字・実相がそれぞれ仏の語密・意密・身密とされ、しかもそれらの三密がふたたび実相と規定されることで、言語と密教の真理とのつながりが成り立つとされています。これは、分別にもとづいて言語を理解する立場を離れて、たんに仏果「を」説くのではなく仏果「が」説くという立場にいたることによって、現実へともたらされます。 さらに『声字実相義』では、「五大に皆な響き有り」という思想が展開されています。ここで著者は、じっさいのテクストに現代語訳と著者の解説を付するというスタイルで議論が進めていきます。とりわけ、眼識の対象である「色塵」(色境)と、五感の対象すべてを意味する「色法」を区別し、空海の「色塵文字頌」における議論が第一義的には「色塵」について検討されていることが明らかにされています。 最後は、井筒俊彦の『意味の深みへ―東洋哲学の水位』において展開されている空海論の検討をおこなっています。著者は、「存在はコトバである」と語る井筒が、「果分」のことばを「因分」のことばに連続的に理解していることを批判し、音響そのものではなくその「あや」が文字であり、色塵がそのままことばではなくその差別相がことばだと主張しています。

Posted byブクログ