平熱のまま、この世界に熱狂したい の商品レビュー
「何者か」にならんとする意識について。『ついつい頭の中の実態のない「ふやけたもの」に搦めとられて思考が空転してしまい、自分の元来の性質すら掴み取れない人がほとんどではないか。』自分の「性質」を掴み取る。「性格」ではなく「性質」に向き合う。 セラピーの「do」。ケアの「be」。線...
「何者か」にならんとする意識について。『ついつい頭の中の実態のない「ふやけたもの」に搦めとられて思考が空転してしまい、自分の元来の性質すら掴み取れない人がほとんどではないか。』自分の「性質」を掴み取る。「性格」ではなく「性質」に向き合う。 セラピーの「do」。ケアの「be」。線的な時間と円環的な時間。 オナラをして「失敬」と言えるかどうか。
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著者が自身の経験を通して得た「弱さ」についての学びや気づきを、さまざまな角度から認めているエッセイ的な本。 印象に残っているポイントがいくつかあって、 一つは、自分が誰かに必要とされている実感がないと人間は生きていけない、そういう弱さがあるんじゃないかというところ。 人間って複雑だよなぁと思うのは、誰かにとってかけがえのない存在でありたい、自分がいないと困るくらい誰かに必要とされる存在でありたいという思いがある一方で、自分がやらねば、自分がいないと、という責任感とか義務感みたいなもので自分自身を苦しめてしまうこともあるということ。 何かしらの「役割」が必要だから結婚とかするのかな、と思ったり。自分が誰かにとってのかけがえのない存在であるということを一番感じやすいのかもしれない。 二つめは、自身の弱さが持つ役割について。著者が禁酒中、お酒に手が伸びそうになったとき、それを止めてくれるのは再び敗北するのを恐れる臆病な弱さだと語っています。 私自身「失敗したくない」という気持ちがだいぶ強くて、新しいことや苦手なことになかなか挑戦できないという意味で弱みだなと思っていました。それからかなり怠惰なんですが、実際は「ちゃんとしている」と思われることが多くてギャップを感じていました。あるときその話を人にしたら、締め切りギリギリでもやることはやるとか、なんだかんだテスト勉強するとか、その失敗したくないという気持ちが怠惰さを埋め合わせてくれているのかもしれないよねということを言われて、弱みだと思っていたことにも役割があったのかもしれないと思ったことを思い出しました。 三つめは、想像力について。 “どんなに想像を膨らませたところで、それは想像の域を出ず、意味などないのではないかと無力感を覚えることもある。一方で、それが独りよがりの想像だったとしても、その想像が父に伝わっていたならばどんなに嬉しいか、と祈りに近い思いを抱いている。ぼくは父に立派な姿を見せたかった。父も見たいと思っていると想像した。そんな気持ちが少しでも伝わっていたならば、どれだけ救われるか。” 相手の気持ちを想像したところで本当に相手を理解できるわけじゃないから無意味なんじゃないか、と私も思ったことがあります。勝手にわかった気にならないでほしいと思う人だっているだろうし、都合よく、勝手に自分を重ね合わせているだけかもしれない。だけどその想像力が相手を思いやる気持ちから湧き出たものなら、そんな姿勢が伝わってくれていたらそれは嬉しいよなと思う。 書いていて思ったのは、共感って「相手のことを思って寄り添う」的な文脈で使われることが多いけど、有名人の発言に対する共感とか、こういった本を読んでの共感とかってどちらかというと自分のためな気がするということ。いやもはや日常生活でも自分のための共感をしているかも。本当は自分のための共感なのにそれに無自覚で、わかってますよ感を出されると違和感があるのかもしれない。 四つめは、ここが最も刺さったポイントなのでそのまま引用しますが、 “正義を標榜することはたやすい。しかし、正義を貫きとおすのには胆力がいる。信念を掲げても、言葉が、体が瞬間的にはそう反応しない人間の「弱さ」。観念的な信念は、生活の利害関係と衝突すると脆く崩れ去る。” これ。 本当にその通りだなと思って、ぐさっときたところです。信念があったとしてもやっぱり目の前の生活のほうが大事で、それを犠牲にしてまで信念を貫き通そうとするのにはかなりの精神性が必要な気がします。 さまざまな社会課題が山積する昨今、こういうことって起こりがちなんじゃないかなと思います。〜な社会を目指しましょうとビジョンを掲げつつ、実際の生活の中ではそれに反した行動もとってしまうとか。どのようにしたらそのビジョンと日常生活が対立しないのか、日々の生活を自然に過ごしているうちに理想の社会に向かっていけるのか、意志の力だけではなく、人間の「弱さ」も組み込んだ仕組みを考えていく必要がある。 著者は自身のことを「弱い」と言っていますが、人間全般的にそうなんだろうと思います。人間ってこんなもん。だけど、「理性は少しずつだが、確実に勝利している」という言葉に、少し希望をもらえた気がします。
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今まで、こういった「本の感想」を書くことは避けていたのだけど、本書を読んでみて、書いてみようかな、と思えた。これからも続くかは分からないけれど。 自分は勿論、「弱い」人間だと思っている。 でも、弱いからこその世界の見え方、視野の広げ方、他人への接し方があるのかもしれない、と。 ...
今まで、こういった「本の感想」を書くことは避けていたのだけど、本書を読んでみて、書いてみようかな、と思えた。これからも続くかは分からないけれど。 自分は勿論、「弱い」人間だと思っている。 でも、弱いからこその世界の見え方、視野の広げ方、他人への接し方があるのかもしれない、と。 弱い自分を認めた上で、この世界を眺め、何を感じ、どう生きるのか。ゆっくりでいいから、日々考えていきたい。
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自分の弱さを認められる人って、強い人だと私は思う。でもだいたいそういう人って自分は弱いんですって言うんだ。弱さを認めることって、勇気がいることだと思うんだけどなぁ。 私は誰かに弱さを見せることがとにかく苦手だから強い人に見られがち。 でもそんなことない。他人よりほんの少し、強がる...
自分の弱さを認められる人って、強い人だと私は思う。でもだいたいそういう人って自分は弱いんですって言うんだ。弱さを認めることって、勇気がいることだと思うんだけどなぁ。 私は誰かに弱さを見せることがとにかく苦手だから強い人に見られがち。 でもそんなことない。他人よりほんの少し、強がることが得意なだけ。
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軽く読めるエッセイです。赤いカーディガンの話は考えさせられた。自分の子供の頃ならセーフだったかなあ。
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この世界で幸せのあり方は、幸せを見つけ出すことという点に納得がいきました。 「弱さ」を受け入れた著者の生活を一緒に覗いてみましょう。
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個人的な弱さを受け入れる、あるいは向き合うという「覚悟/決意」を「平熱/日常」の中でしていくこと、その豊かさを情緒豊かに書いたエッセイだった。 読んでいてここで書かれている「弱くある贅沢」はどこか立川談志師匠が言われていた「業の肯定」のようだなと感じた。とてもやさしい視線と人情...
個人的な弱さを受け入れる、あるいは向き合うという「覚悟/決意」を「平熱/日常」の中でしていくこと、その豊かさを情緒豊かに書いたエッセイだった。 読んでいてここで書かれている「弱くある贅沢」はどこか立川談志師匠が言われていた「業の肯定」のようだなと感じた。とてもやさしい視線と人情味がある。 強いか弱いかで分けてしまいがちの世界。そして社会がグローバル化していって、「強い」ことが以前よりもさらに正しいことになっていくとどうしても息苦しさが出てきて、「弱い」ことがダメだったり悪だということになってしまう。 そういう世界では一度負ければ終わりだし、正しさを証明するためには勝ち続けなければならない(尾崎豊の歌詞みたいだ)ので、一度でも勝ったり成功してしまうと、弱さを人前では出せなくなって失敗ができなくなる。プラスSNSによって一度の失敗で人生全てが終わる錯覚を植え付けられてしまう。これは現在の呪いのひとつだと思う。 エッセイでも取り上げられている遠藤周作の『沈黙』のキチジローはいろんな示唆を与えてくれる存在だ。はっきり言って僕らの先祖はキチジローみたいな人が多かっただろう。戦場で勇しく戦って殺しまくって、殺されている人間ばかりならば後世に血は繋がっていかない。僕が自分の目的や使命もなく無理やり参加させられたら逃げると思う。 談志師匠は「業の肯定」で、赤穂浪士の四十七士ではなく、その他大勢の逃げたやつや参加しなかったやつが主人公なのが落語だって言われていた気がする。これって「何者」にもなれなかった人たちのことだ。そう、すごい親近感。35歳問題にも通じる。 「強さ」ってベクトルがわりと進むべき方向がちょっとしかないから実は不自由だと思う。逆に「弱さ」は個々人やコミュニティで全然違うから多様性があって、ある種自由なんじゃないかなって思う。もちろん問題も多様だからぞれぞれの難しさもあるんだけど。
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