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バグダードのフランケンシュタイン の商品レビュー

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21件のお客様レビュー

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2020/12/09

『これらの法則に従って何かが起きるとき、人間は不思議に思い、こんなことは考えられない、超自然現象だと言う。また、最良の状況であれば奇蹟だと言う。そしてそれを作動させている法則を自分は知らないのだとは言わない。人間は自らの無知を決して認めない、大いに勘違いをする生き物である』―『第...

『これらの法則に従って何かが起きるとき、人間は不思議に思い、こんなことは考えられない、超自然現象だと言う。また、最良の状況であれば奇蹟だと言う。そしてそれを作動させている法則を自分は知らないのだとは言わない。人間は自らの無知を決して認めない、大いに勘違いをする生き物である』―『第九章 録音』 「誰々に何々をされた」などと言い合っていた時分に、目には目を歯には歯を、という言葉を初めて聞いて、なんて判り易いルールなのかと思った経験は誰しもあるだろう。その後、中学か高校でハンムラビ法典のことを習った時、この法律の規定するところが言葉面の意味ではなく、人の業まで見据えた法の精神による制限であることを知ってはっとした覚えも、また、ある筈だと思う。しかし大概の人は字義通りの意味以上の法が求める精神は忘れてしまいがち。あるいは人はどこまでも判り易い解釈に留まることの居心地の良さに引き戻されてしまうということなのか。本書を読んで最初に思うのは、しかし、原因と結果の、言い換えれば罪と罰の「連鎖を断ち切る」ことは不可能であるということ。 西欧諸国の軍事力介入、特に米国的清教徒的勧善懲悪主義による主張に基づく徹底した「悪の排除」、つまりは社会制度の壊滅(あるいは歴史はそれをプラハの春同様に解放と呼ぶのか)後のイラクの混乱の中、民間伝承的あるいは宗教的、神秘的とも言える不可解な出来事を巡り、人々が翻弄される様子が描かれる。その翻弄は、物語の中心人物でありながら存在があいまいな「名無しさん」(爆破事件によりばらばらとなった肉体の一部を寄せ集めて再生された人造人間)によってもたらされたものであると読むことも出来るし、社会の混乱の中で結果的に生じてしまった小さな混迷の一つひとつの原因を陰謀論に求めているだけに過ぎないとも読める。更に「名無しさん」の存在に対比されるように、一人の老婆に賜ったとされる神の加護の有無、謎の編集長の実態など、幾つものエピソードが同時進行で多面的に描かれ、市井の人々の物語の中に埋め込まれ語られる不可思議な存在の物語は様々な光沢を放ちながら万華鏡のように変化を続ける。語られているのは真実なのか、ただの法螺話なのか。表面に当たる光の具合によって磁器の色が変わってしまうように、その真偽の行方は巧みにはぐらかされ続ける。 もちろん物語の中心は、再生された肉体に宿る男による報復の行方。「名無しさん」は、身体の一部を為す元の人物たちの死の原因を辿り、その原因を作った人物に「復讐」を果たして行く。その行為は一見単純な目には目を式の理屈に則った白黒のはっきりした勧善懲悪の行為のように見えるが、徐々に裁かれるものと裁くものの境界は曖昧となり、因果関係は錯綜する。これこそが本書の真のテーマであろう。罪を贖(あがな)わせることは本当に可能なのだろうか、と。そのことに肉体に宿った男の精神も気付くが、徐々に崩壊する肉体を維持するために供される別の肉体の一部を受け入れ続けることを止められない。フランケンシュタインに象徴されてはいるけれど、それは生きとし生けるものすべてに課された宿命。「いのちはいのちをいけにえとして/ひかりかがやく/しあわせはふしあわせをやしないとして/はなひらく」(「黄金の魚」谷川俊太郎) 全ての物語には表と裏の真実がある。嘘が全て悪なのではない。見えることが全て真実ではない。そのことが切実に迫った人々の物語。「バグダード文学」という分類が何を指し示すのか寡聞にして知らないが、一神教の各宗派に象徴されるような相対立する集団が混在しながらも共存する社会を、混沌とする情勢の中に混然となったまま立ち上がらせる筆運びには強く印象付けられる。他の作品も是非翻訳されて欲しい作家。

Posted byブクログ