死を受け入れること の商品レビュー
『小堀)何年か前の有識者会議では、二〇二五年に介護難民が四三万人になるという数字が出ていました。介護要員が足りないから、都内から地方へ移住したほうがいいという記事も出ていました。 養老)介護施設も足りなくなるでしょう。東京の人口が増えているのは、基本的には老人の流入なんです。それ...
『小堀)何年か前の有識者会議では、二〇二五年に介護難民が四三万人になるという数字が出ていました。介護要員が足りないから、都内から地方へ移住したほうがいいという記事も出ていました。 養老)介護施設も足りなくなるでしょう。東京の人口が増えているのは、基本的には老人の流入なんです。それは、暮らしやすいから。まず、財政的に豊かでしょう。 小堀)子どもが親を呼び寄せるんです。 養老)僕は行きたくないですね。虫が捕れないもん。ここ(箱根)だったらすぐ捕りに行けます。ずっと探していた虫が、玄関にいることだってあるんだから。 小堀)高齢者には無理な延命措置をしなくていいと考える医師が、不具合がある高齢者の検査をしなかったという事例を、親しい人から直接聞きました。それでは、詳しい検査をして必要な治療をやるのがいいかというと、そうとも言い切れないんです』―『第一章 「死ぬ」とはどういうことですか?』 森鴎外の孫と養老孟司の対談、と銘打てば、書籍不況でも話題になる。特に、養老先生が自ら嫌いな病院へ行って検査を受けた結果、心筋梗塞と判り入院した後に出版された(対談は東大病院で検査を受ける前に行われたもの)となれば、その死生観はどう変化したのか、あるいは変化しなかったのか、と養老ファンなら思う筈。しかも対談相手もまた東大医学部の先生だったのだから、さぞ話がぶんぶん飛び回って面白かろう、と想像してしまうだろう。 同い年の同じく東大医学部卒の東大医学部勤務とはいえ、二人に直接的な面識はなかったらしい。まあ教授会に本を持ち込んで暇だからと読んでしまう養老先生なので顔を会わせていても他の科の人のことにそれ程興味はなかったのかも知れない。小堀医師の方は恐らく学年で三つ上の先輩のことは知っていただろうと思う。そしてこの対談は小堀医師の求めに応じて行われたものだと本書にある。 読み始めて直ぐに気付くのだけれど、二人の死生観、もっと言えば価値観はまるで水と油のように違う。どちらがいいとか悪いとかでは、もちろん、ないのだけれど、どうも二人の会話が噛み合っているようには読めない。但し、対談の雰囲気は文字に起こされた段階で消えてしまっているだろうから、そうと断定もできないのだけれど。ただ、巻末の小堀医師の言葉にもこんな風にある。 『初対面の日から、養老さんは"養老ワールド"から一歩も出ない人であることが判明した。私が"小堀ワールド"から一歩も出ない人間であることは、物心ついて以来自覚しているから、対談が成り立たないのではないかと危惧したが、案に相違して支障なく進行した』―『おわりに』 一方の養老先生は冒頭でこんな風にも言う。 『私の場合は、死から生を見るということで、視点が普通とは逆転してしまう。その二人の対談がどういう結果になったかは、本書の読者の判断ということになる』―『はじめに』 身体の不具合を既に感じていたのか、養老先生の言葉にいつもの調子が出ていないようにも感じるが、考えは違えど「死」と長年向き合ってきた人との対話で発せられる言葉はより芯に近いものとなっているようにも思う。そして同じく多くの死に接していても死生観が異なる相手に対して、より丁寧に自分自身の言葉の背景にあるものを語っているようにも。養老ファンにとってはそこがこの本の一番の魅力ではないかと思う。そして、恐らく小堀ファンにとっても同じように小堀医師の言葉の背景にあるものを知る機会になっているのではないかとも想像する。それにしても対談を進行する人がもう少し上手くやれたのではないかなと思ってしまう対談集。
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死には、1人称、2人称、3人称がある。1人称の死は自分の死だから分からない。問題は2人称の死であることを認識することが大切という。
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養老孟司の対談ものは他にも読んだことがあるが、一気読みしたのは初めてかも。それくらい引き込まれ、そして話の展開も面白かった。
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養老孟子氏と小堀鷗一郎氏の対談形式の一冊。テーマは『死』です。 対談形式の書籍としては珍しく(?)読みやすい本で、3時間前後で一気読みしてしまいました。 重たいテーマを選んでいるのに、お二人の会話が悲惨さを滲ませないのは、既にお二人が正と死について向き合い、「実際にどうな...
養老孟子氏と小堀鷗一郎氏の対談形式の一冊。テーマは『死』です。 対談形式の書籍としては珍しく(?)読みやすい本で、3時間前後で一気読みしてしまいました。 重たいテーマを選んでいるのに、お二人の会話が悲惨さを滲ませないのは、既にお二人が正と死について向き合い、「実際にどうなるかは分からないから今を生きよう」という認識のもと人生を謳歌しているからではないかな、と感じました。 養老氏の著書は何冊か読んでみたことがあるので、いつもの養老ワールドだなという感じ。 一方の小堀氏については私は一切事前情報を得ていなかったため、「森鷗外」という名が出てきた時には驚いてひっくり返りそうになりました(笑) 要はお二人ともが、家柄も良ければ頭脳も良い、一流エリートなのです。 主に、養老氏は解剖学医として死体の解剖をしてきた観点から、小堀氏は食道がん専門医として臨床の現場体験から「死」について語っておられるのですが、どちらかというとお二人とも、死については寛容に「皆いつかは死ぬ」という前提のもとで、人が死ぬということに(良い意味でも悪い意味でも)重きを置いていないという感じがしました(重きを置いていたら、それこそ職業が務まらなくなってしまうのでしょうが)。 「二人称の死」というワードが登場しますが、こちらに興味を持たれた方は『死の壁』(養老孟司・著)を読んでみてください。 面白い一冊でしたが、以前に養老氏の著作を読んでおられる方でしたら、養老氏の発言については新たな発見は無いので、その辺り注意が必要かもしれません。
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「この本を読めば、安心して死ねるようになります」というので読む。 小堀鷗一郎は森鷗外の孫だけに「鷗」の字が機種依存文字だ。 対談本は途中でどちらが話しているのか判らなくなるものだが、本書は違った。お二人の選ぶ話題、口調が違うせいであろう。 400人以上の看取りに関わった小...
「この本を読めば、安心して死ねるようになります」というので読む。 小堀鷗一郎は森鷗外の孫だけに「鷗」の字が機種依存文字だ。 対談本は途中でどちらが話しているのか判らなくなるものだが、本書は違った。お二人の選ぶ話題、口調が違うせいであろう。 400人以上の看取りに関わった小堀先生の証言は重みがある。臨床医ではない養老先生の立ち入れない領域と言えよう。
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元フランス大統領ミッテラン氏の言葉「人は、その人の生き方で死んでいく」が心に残っている。人は誰も100%死を迎えるのだから、その死が悔いのないものとなるためにも、どう生きていくかが大切なのだ。医者も生と死の狭間で問い続けながら生きている。命が与えられたこと、そして生かされているこ...
元フランス大統領ミッテラン氏の言葉「人は、その人の生き方で死んでいく」が心に残っている。人は誰も100%死を迎えるのだから、その死が悔いのないものとなるためにも、どう生きていくかが大切なのだ。医者も生と死の狭間で問い続けながら生きている。命が与えられたこと、そして生かされていることに感謝しながら日々を過ごしていきたいと思った。
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達見が得られるわけもなく。そりゃそうですね。死についてなど、すでに数千年の長きに渡り、語られ尽くしているのだから。 小堀さんからは謙虚さを、養老さんからは傲慢さを、私は勝手に感じ取りました。
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ある意味個性の強いお二方の死生観が、対談形式で表現されている。 何か話が噛み合って無い様に思えて、うまく落ち着いている。 終末医療において、年齢で一律に決めるのは適当でないという趣旨のことが書かれている。 その通りだと思う。 糖尿病になって40歳台で、 歳だ、歳だ と言っ...
ある意味個性の強いお二方の死生観が、対談形式で表現されている。 何か話が噛み合って無い様に思えて、うまく落ち着いている。 終末医療において、年齢で一律に決めるのは適当でないという趣旨のことが書かれている。 その通りだと思う。 糖尿病になって40歳台で、 歳だ、歳だ と言って一人老け込んでる奴もいれば、 80歳台になっても矍鑠として、里山歩こう会の月例会に参加される方もいる。 個人差は大きい。 一方で人間の死亡率は100%と明言される。 健康を維持し、したい事、すべき事をキッチリやって、 人生の賞味期限が来ても悔いなく達観してそれに従う。 そんな死生観でもいいよね。
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飄々と医者であり死を見続ける2人の対談集。 死亡率100%の人間の死を見続ける2人。 彼らの前に死体として立ったら、私は人としてではなく死体の一つとして認識されるのだなと思った。 検体申し込んでいるのが少し嫌になった部分もある。 申し込み取り消そうかな。
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まず、著者のお二人について簡単に紹介したい。 小堀氏は食道がんの手術を専門とする外科医だったが、定年後は訪問診療医として患者を看取る医療に携わってきた。その体験をエッセイ風に綴った著書『死を生きる人びと──訪問診療医と355人の患者』は大きな反響を呼び、ドキュメンタリー映画にもな...
まず、著者のお二人について簡単に紹介したい。 小堀氏は食道がんの手術を専門とする外科医だったが、定年後は訪問診療医として患者を看取る医療に携わってきた。その体験をエッセイ風に綴った著書『死を生きる人びと──訪問診療医と355人の患者』は大きな反響を呼び、ドキュメンタリー映画にもなっている。なお、森鷗外は母方の祖父である。 養老氏は、いまの人は『バカの壁』の著者としてしか知らないかもしれない。もしかすると昆虫学者だと思われている可能性もある。しかし、もともとは東大医学部で教鞭を執る解剖学者である。 四〇〇人以上の患者を看取ってきた訪問診療医と、三〇〇〇体以上の死体と向き合ってきた解剖学者。お二人の対談はきっと面白いだろうと期待して読んだが、想像とは違う部分も多かった。 まず、小堀氏は訪問医となる前も外科医として四十年間医療の最前線に立たれてきた経験があり、圧倒的に患者と接してきた医師である。それに対して養老氏は、解剖を通してご遺体やそのご家族と付き合ってきたとはいえ、有体に言えば医者ではなく学者である。また、小堀氏が学業でだいぶご苦労されたのに比べると、養老氏は勉強しなくても成績が良かった秀才肌で、同じ東大医学部でも大きな違いがある。加えて、小堀氏は真面目で自分の意見を率直に述べずにはおられない性格のようで、養老氏は人に意見を押し付けるタイプではないものの、人の意見もあまり気にしないところがある。そうしたお二人の間に温度差のようなものを感じずにはいられなかった。 しかし、職業的に死と向き合ってきたという点ではお二人とも変わりなく、死生観については意見の一致が見られ、その内容もまた面白かった。それを一言で表現するなら、「死をめぐる問題に、統一的で一般的な解答はない」ということである。 現代では、自宅で最期を迎える人は少ない。核家族化が進んで介護してくれる身内がいないということもあるし、マンションでうっかり死なれると事故物件になってしまう。そうした事情への反動から、逆に畳の上で死を迎えるのが理想の死に方だと考える人も少なくないはずである。しかし、病院や介護施設で亡くなることが必ずしも不幸であるとは限らないし、自宅で死を迎えることが幸せかどうかは、ご本人やご家族の状況にもよる。にもかかわらず、社会はそれらを「同じ死」として一般化して語ってしまう。 延命治療にしてもそうである。高齢者の場合、体への負担を考えて余計な検査や治療をあえてせず、自然の経過に任せるということも少なくない。ただし、それが正しい措置かどうかはケース・バイ・ケースである。傑作だと思ったのは、「九十五歳以上は延命措置をするべきではない」という極端な意見が出ることに対して、「九十四歳と三百六十四日だったらどうするのか? 一日様子を見ましょうとでも言うのか?」という反論だった。まあこれはジョークとしても、九十五歳まであと半年だったらどうなのか。当然だが、同じ年齢でも治療に耐えられない患者さんがいる一方で、治療すればまだ元気に生きられる人もいる。生かすか死なせるかをマニュアルみたいに一律で決めてしまう異常さが浮き彫りにされている。 小堀氏は講演などで「死なせる医療」や「よりよい死に方」といった言葉を使おうとすると、主催者から嫌がられるという。養老氏は解剖のためにご遺体を引き取りに行った体験から、亡くなった方が病院でどれほど冷たく扱われているかを語る。発達した医療は多くの命を救ってきた反面、死を敗北や失敗とみなして日常から排除してこなかっただろうか。しかし、死が最後には誰にでも訪れるものであり、死ぬことも生きることの一部であってみれば、よりよい死を迎えることも、よりよく生きることの一部である。著者たちの主張するように、われわれは死を遠ざけてきたことで死との向き合い方を見失ってしまったのだとすれば、そのことをいま一度思い起こしたい。
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