「勤労青年」の教養文化史 の商品レビュー
1950年代に20代だった「勤労青年」の叔母は、日本文学全集や百科事典などの蔵書を遺していた。戦争で学校に行けなかった彼女の心のうちを知れるかと思い紐解いた。 映画「キューポラのある街」(1962)において、ジュン(吉永小百合)は、最終盤、やっと全日制高校に行ける目処がついたの...
1950年代に20代だった「勤労青年」の叔母は、日本文学全集や百科事典などの蔵書を遺していた。戦争で学校に行けなかった彼女の心のうちを知れるかと思い紐解いた。 映画「キューポラのある街」(1962)において、ジュン(吉永小百合)は、最終盤、やっと全日制高校に行ける目処がついたのに敢えて夜間高校に行くことを決める。「これは家のためっていうんじゃなくて、自分のためなの。たとえ勉強する時間は少なくても、働くことが別の意味の勉強になると思うの。いろんなこと、社会のことや何だとか」 著者は、62年当時は、これが大衆に大いに支持されたことを指摘する(キネ旬二位、映画評論一位)。教養主義とは何か。著者の説明は以下のようなものである。 「さまざまな困難を乗り越えて、働きながら学び、実利を越えた何かを追求する」 「読書を通じた人格陶冶」 「文学・思想・哲学等の読書を通して人格を磨かなくてはならない」 つまり、試験でいい点をとったり、良い就職先にありつくことではなかった。 これは現代の学生には、全く支持されないと、著者はいう。特に小百合の言う「実利を超越した勉学・教養」という主題に共感した(著者の受講生の)学生は、皆無だったと指摘する。著者は、その背景に「格差と教養」をめぐる時代背景があるのだ、と論を進める。 悪い予感が当たった。 著者は肝心の「教養」を持ちあわせてはいない。或いは、誤った「教養」を持っている。 京大出身の社会学者である著者は、ホントに勤労青年の「人格陶冶」への渇望の意味がわかったのだろうか。社会現象として解説しただけではないか。もちろん、これを全面的に展開しようとしたならば、小熊英二の「1968」ならぬ「1958」が必要になるだろう。無名の個人の思想変遷にはまで筆を進めなくてはならない。そのボリュームを覚悟して欲しかった。 昔は若者は健気に頑張った。でも、困難や時代の推移で、今は完全に廃れている。寂しいよね。 そんな内容を書くのが、「教養」が求めていることではない。「教養」は、人は如何に生きるべきか、を求めているだろう。 今ホントに教養主義は、廃れているのか? 地方は昔と同じように疲弊している。 労働環境は昔と同じように展望がない。 世界の文明はますます危機に瀕している。 青年はホントに「実利を超えた勉学・教養」を求めていないのか?現代青年の教養に対する意識調査は、著者はひとつも紹介していない。 現在無数のサークルが日本に存在しているが、それは教養主義とリンクしていないのか? 全国的な「勤労青年」の学習組織も存在しているが、著者はなぜ完全無視したのか? 叔母さんは、結局花道と茶道で免許皆伝を取った。そうやって人生に折り合いをつけたのだと思うが、広く地域と結びつかなかった。その頃は既に、地域の組織は衰退を始めていたからである。
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アジア太平洋戦争後、全日制高校に進学できなかった勤労青年の間で発生した教養文化について、その消滅までを追跡したもの。進学できなかったことへの鬱屈や、「教養」に触れない人たちへの優越感が、教養文化を支えていたことが浮き彫りにされる。1970~80年代の歴史ブームの担い手を、かつて教...
アジア太平洋戦争後、全日制高校に進学できなかった勤労青年の間で発生した教養文化について、その消滅までを追跡したもの。進学できなかったことへの鬱屈や、「教養」に触れない人たちへの優越感が、教養文化を支えていたことが浮き彫りにされる。1970~80年代の歴史ブームの担い手を、かつて教養主義をくぐった男性中高年層に見出す個所も面白い。 労働環境の改善や消費文化の浸透という勤労青年にとっての「幸」が、人生雑誌の「不幸」=教養主義の消滅をもたらしたとの指摘は重い。それでもなお教養が流行する社会を是とする説得的な理由を見出すことは、決して簡単ではないと思った。
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※このレビューにはネタバレを含みます
前々から、昭和の家庭が高価な百科事典や文学全集を揃えてしまう精神性がよく理解できていなかったが、この本を読むことで大分すっきりした。安い、早い、深いと、これぞまさに新書の良さ、という感じだ。 現在「勉強」というのは、多くの人にとって「した方が良いもの」と認識されており、その事由は、職業選択の拡張や、昇給ないし昇給のための資格獲得などの手段になり得るということが大いにあるだろう。 一方で戦後間もない日本社会においては、高等教育は農村はおろか都市部であっても、かなり裕福な家庭しか受けることのできない限定されたものであった。 つまり、いくら勉強を頑張っても立身出世の役にたたないし、それどころか、勉強は仕事を阻害するものとして、家族や雇い主からは疎まれさえした。 しかし一方で、そうした社会通念に対する反骨精神からか、返って勉学に情熱を燃やす若者も少なくなかった。それは手段ではなく目的としての勉強、或いは良く生きるための手段としての勉強であり、その純真無垢な精神は、少なくとも私にとっては、大変に憧れるものである。 もちろん、今の世の中の方が多くの人に勉強や職業選択の機会は開かれているし、それはとても歓迎すべき事だ。とはいえ、社会的な損得無しに学ぶことを楽しめることは、何より素晴らしいことと思う。
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竹内洋先生の作品から「教養主義」という主題には興味があったが、これはそれを勤労青年、例えば定時制高校などに通う労働者などに焦点を当てた作品。まだ最初の半分しか読んでないないが、戦争を通じての既存の社会への絶望・農村の閉そく感などと相まって、「教養」への憧憬が強まっていく歴史など、...
竹内洋先生の作品から「教養主義」という主題には興味があったが、これはそれを勤労青年、例えば定時制高校などに通う労働者などに焦点を当てた作品。まだ最初の半分しか読んでないないが、戦争を通じての既存の社会への絶望・農村の閉そく感などと相まって、「教養」への憧憬が強まっていく歴史など、非常に興味深い。
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もやもや思っていたことを、わかりやすく文章化してもらったものを読めるという快感があった。『キューポラのある街』をツカミに持ってくるのは、新書の社会科学分野としてハマりすぎみたいだけれど、明快で想定読者層を突き放さない読み物だ、という確かなメッセージにもなっている。 内容で留意すべ...
もやもや思っていたことを、わかりやすく文章化してもらったものを読めるという快感があった。『キューポラのある街』をツカミに持ってくるのは、新書の社会科学分野としてハマりすぎみたいだけれど、明快で想定読者層を突き放さない読み物だ、という確かなメッセージにもなっている。 内容で留意すべきなのは、扱っている時代幅が「戦後以降」であるということ。江戸時代、明治・大正という時代を遡って青年層の上昇志向の変異分析といったものとは、明確には接続していない。うがってみれば、敗戦後から1980年頃まで、「勉強しなさい」と大多数の親が怒鳴っていた時代はそれだけで独立して分析対象となりうるということか。確かに、マスとして「勉強」を通じた上昇志向が共有されていたのは、戦後の、それも昭和のある期間だけかもしれない。日本史上においても特異な時代であったのかも。
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戦後から高度成長期にかけての教育現場の一側面を、豊富な史料を繙きながら解き明かした労作。「人生雑誌」という出版文化を産み出した社会構造の析出は見事。しかし引用があまりにも多く、それらの合間に著者の主張を細切れに挟み込むスタイルは、「一体何を明らかにしたいのか?」という気分にさせら...
戦後から高度成長期にかけての教育現場の一側面を、豊富な史料を繙きながら解き明かした労作。「人生雑誌」という出版文化を産み出した社会構造の析出は見事。しかし引用があまりにも多く、それらの合間に著者の主張を細切れに挟み込むスタイルは、「一体何を明らかにしたいのか?」という気分にさせられた。
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エリート層の教養主義については類書も多いが、進学が出来なかった層に焦点を当てて、それぞれの背景や状況をきめ細かく叙述していて、当時が具体的に浮かんできます。バックデータとなっている資料収集の苦労も窺われます。
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