如何様 の商品レビュー
戦地から復員した画家は出征前と同じ人間だったのか、彼を知る人に話を聞いていくのだが、まどろっこしい話に変化も無く、読むのを止めようと何度も思ったほどつまらなかった
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戦時中の特殊部隊とか、どこかの国の駅伝?の指導者とか、どうも作者のフィクションっぽい。でも主人公の感覚は現代的で理解できる。 説明の足りないもどかしさ、ふわふわしてる感じが心地よい。
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表題作の「如何様」と「ラピード・レチェ」の二篇を収めた一冊。 どちらも最後はなんだか気分がすっとする、爽やかとまでは言い難いが、表現しがたい喘ぎを、のめり込みすぎて呼吸が止まっているような苦しさを和らげてくれるようなお話でした。 何にしても「如何様」というタイトルが秀逸。 様々...
表題作の「如何様」と「ラピード・レチェ」の二篇を収めた一冊。 どちらも最後はなんだか気分がすっとする、爽やかとまでは言い難いが、表現しがたい喘ぎを、のめり込みすぎて呼吸が止まっているような苦しさを和らげてくれるようなお話でした。 何にしても「如何様」というタイトルが秀逸。 様々な意図が込められているのはもちろん、この物語で言いたいことを全て表しているかのような、それでいて、さあ、でもこの出来事ってイカサマかしら、どうでしょう?と問いかけられているような。そんな題。 とても読みやすくて一気に読めてしまうのに、いい意味でどっしりとした読み応えだった。 以下ネタバレを含むので、気になる方はご注意を。 舞台は戦後間もない日本、主人公の「私」は知り合いの榎本から、兵役から帰ってきた知人の画家・平泉貫一が別人なのではないか。調べてほしい。という依頼を受けた。 まずは手始めに貫一の家へ。 しかし貫一の両親も判然としない答えしかせず、妻のタエにいたっては戦争に行く前の貫一と会ったことすらない。 他の貫一と接触したことのある人物たちに話を聞くも、貫一の顔をまともに判別できる人間はいなかった。 そんな中で戦時中貫一が所属していた部隊の木ノ内が語る貫一像が、そしてその後の展開が、物語にますます深みを与えていく。 画家として、いや、人として、貫一、お前は何者だ。 それが気になって仕方ない。 作中では結局人物像しか分からず、一度も姿を表すことも声を発することも無かった貫一。影も形も見せることなく、読者である私を魅了する貫一。 最後のタエと主人公との語りはとても胸のすくものだった。 しかし、誰も戦争に行く前の貫一と現在の貫一が同一人物なのか判断できない中、貫一がタエにお札になぜ人の顔が描かれているかの理由を教えているところが印象的だ。 「人の顔というものは、人間がいちばん違和感に気がつきやすいものなんですって。特にその国の人間ともなると、元の顔を知らない場合でも、その人が不機嫌なのか、笑っているのかすらわかるようになっているんです」 なんという対比だろう。 貫一はどんな気持ちでタエにそのような話をしたのだろう。表紙の、ぐちゃりと分厚く絵の具を重ねた肖像画を見ながら思う。 本物か、偽物か。 そもそも本物とは。 人間に関して言えば、人1人のうちにも多面的なその人なる性質があり、しかもそれは環境や時の流れによって様々に変化していく。貫一ほど極端でなくても。 それでは本物とは一体。 たとえモノでもヒトでも動植物でもなんでも、この世の物は生々流転としている。 著者である高山さんの答えは、物語の最後に表れているのかもしれない。 ちなみに私はこのラストのおおらかなシーンが好きだ。 もっと穿った見方をしようと思えばいくらでもできるのだろうが…だからこそ、いろんな人と感想を語り合いたくなる、胸に残る作品だった。 ラピード・レチェの方は、レチェで牛乳ということは、スペイン語圏の国を意識したのでしょうか。 スポーツに疎い私、途中で主人公が教えている競技が駅伝と気づき、ああ!!となる。 駅伝はチーム戦であるが故に、個人では味わえない喜びと苦しみがあるのだろうな… 何気なく、けれど自身で選び取ってかの国にやってきて、アレクセイと出会った主人公。 自分という漠然とした何かを、他にも大事な何かを、きっと日本に帰る頃にはもっとハッキリと掴み取って進んでいくのだろう。そう思わされる微笑ましい、素敵な終わり方でした。 高山さんの著作を読むのは2冊目だけれど、今のところどちらもとても心に残る。 他の作品もぜひ読んでいきたい。
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先日、芥川賞を受賞した高山羽根子の前作。高山羽根子の作品には、どこか不安にさせるような足元がぐらぐらした感じと、ぱっと広がる美しい情景、とこの二つが特徴。 たとえば、「オブジェクタム」の最後のでは不安ばかりが目立ち、 復員した画家の男が本物かどうか、というと、どうしても「犬神家の...
先日、芥川賞を受賞した高山羽根子の前作。高山羽根子の作品には、どこか不安にさせるような足元がぐらぐらした感じと、ぱっと広がる美しい情景、とこの二つが特徴。 たとえば、「オブジェクタム」の最後のでは不安ばかりが目立ち、 復員した画家の男が本物かどうか、というと、どうしても「犬神家の一族」のスケキヨを思い出してしまう。スケキヨも顔がアイデンティティを証明しえない場合、どうやって証明するか、という問題だったが、今回もまったく違った顔の人物をどうやって同一人物と証明するか、というのが、問題。 作風がまったく一緒だからということで同じである、と美術評論家は確信するが、そもそもその男が贋作を得意とし、どんな作品でも模写してしまう、のである。そうなると、そもそもその男は誰かを模写していたのではないか、本物ってなに?となり、ほら気持ち悪くなってくる……。このぐらぐら感は、PKディックと同じぐらぐら。
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最近私自身、物事に対して本物か、偽物か。と 考える事が多く。 ものすごく情報量が多いこの時代に読むのは意味があると思った。 このような結末に、持っていった事は中盤からは予想しなかったけど、あーなるほど、著者がずっと胸の片隅にいつも思っていて、強い願いがこもっているのかなと。そんな...
最近私自身、物事に対して本物か、偽物か。と 考える事が多く。 ものすごく情報量が多いこの時代に読むのは意味があると思った。 このような結末に、持っていった事は中盤からは予想しなかったけど、あーなるほど、著者がずっと胸の片隅にいつも思っていて、強い願いがこもっているのかなと。そんな勝手なことを想像しながら... 展開を楽しむというか、だから大丈夫。と全体を通して伝えたい想いを感じました。 明らかに偽物だとわかるモノコトヒトは置いといて 笑 なにか個人的に琴線にふれて、それを理解しているのであるば、自分の価値観をもっと信じようか。
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具を殆ど乗せずにスープと麺で勝負しに来てる支那そばみたいな一冊。 イカサマが抜群に面白かった。平泉何者よ?!っていうストーリー性の高さも去ることながら、とにかく文章に無駄がない。冷淡にすら感じる。ただ、展開や感情を客観的に説明してばかりいるわけでもなく…うまく言えないけどその匙...
具を殆ど乗せずにスープと麺で勝負しに来てる支那そばみたいな一冊。 イカサマが抜群に面白かった。平泉何者よ?!っていうストーリー性の高さも去ることながら、とにかく文章に無駄がない。冷淡にすら感じる。ただ、展開や感情を客観的に説明してばかりいるわけでもなく…うまく言えないけどその匙加減がとても好み。賛否あるかもしれないけど、理系の男性好みの小説じゃないかな。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
『如何様』 戦争の過酷さが貫一を変貌させてしまったのか。 または、本当にすり替えられてしまったのか。 取材を進めるうちに、様々な可能性が浮かび上がってくる。 そして、貫一の一回り年下の妻・タエは、 お互いに復員前は殆ど面識がなかったとし、 私が知っている夫は現在の姿なのだと言う。 年齢も近く、距離が縮まった 主人公とタエが、貫一のつけ髭を付けて 音楽に乗せて踊り出すところが何とも艶やか。 ふたりの貫一は同一人物なのか、 もしくは偽物…なのか。 結局、真実は解明されぬまま物語は幕を閉じる。 霧に覆われたように 心残りのある終わり方だけど、 タエが放した各国の紙幣が風に吹かれる度に 心が軽くなっていくような気がした。 . 『ラピード・レチェ』 現地の学生を指導するという目的で、 ひとり海外へ渡った駅伝選手のお話。 “強制労働”や“マオイスト”だとか 中々 取り扱われる機会のない題材が多く、 目新しいお話だった。 . 二篇読み終わって、 どちらかというと 2作目のほうが好きでした。
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タイトルは、如何にもな、ダブルミーニング。 更に、この表紙のデザインで、明らかなメッセージ性を感じる。 「如何様」は、本物と偽物についての問いを絶えず、投げかけられる。最初は、私自身が戦争を体験していないし、想像すら出来ないものであるだろう故の、それなのかと思ったのだが、読んで...
タイトルは、如何にもな、ダブルミーニング。 更に、この表紙のデザインで、明らかなメッセージ性を感じる。 「如何様」は、本物と偽物についての問いを絶えず、投げかけられる。最初は、私自身が戦争を体験していないし、想像すら出来ないものであるだろう故の、それなのかと思ったのだが、読んでいくうちに、そうでは無い気もしてきた。 水彩画家の「平泉貫一」は物語の中で、所謂、贋作を姿形から志向まで、その本物の人そっくりに成りきって作るのだが、それに対する真剣さがどれだけあろうとも、贋作は贋作だと思う。 しかし、それを欲しいと心の底から思う人の視点に立てば、贋作ではなくなる可能性もあるのだろうか?戦後という時代設定も含めると、価値観も変わりそうだし。ただ、こう書くと、結局は人それぞれの受け取り方の違いだけであるようにも思える。 物語は、貫一が本物なのか偽物なのかを探ることを主体にしているのだが、妻の「タエ」の言動を読んで、これは主人公の「私」が、貫一の謎探しを通して、実は、本物の私自身を探しているのではないかと、思えました。 そこには、他人同士なのに、同じ心地よさ、雰囲気を感じられることで、本物であるような感覚をもって、そこに安心感を得る。それが私なのだと実感している様子は、見た目や外見はあまり関係が無いようにも思えてきて、それもちょっと違うような不思議で怖い感じがしました。ただ、個人的にはやや信じがたいが、スピリチュアルな感じも含めると、そういった繋がりもありそうで、興味深い。読む人それぞれに異なる考え方が出てくるような、自分の周りの世界観を覆される作品です。 それから、もう一つの作品「ラピード・レチェ」について。こちらも自分探しというテーマが似ているようにも感じる、異国を通しての視点が、また興味深いです。ただ、駅伝の情緒はなかなか伝わりづらいのかな・・
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『人の顔というものは、人間がいちばん違和感に気がつきやすいものなんですって』―『如何様』 どこへ流れていくのか。手探りで読み進める内に主人公の輪郭が急にぼやけ、ミステリーの展開に終末の気配が漂ったところで物語は閉じる。人は何を他人に見て、他者を独立した存在として認識するのか。ひ...
『人の顔というものは、人間がいちばん違和感に気がつきやすいものなんですって』―『如何様』 どこへ流れていくのか。手探りで読み進める内に主人公の輪郭が急にぼやけ、ミステリーの展開に終末の気配が漂ったところで物語は閉じる。人は何を他人に見て、他者を独立した存在として認識するのか。ひょっとして永遠に認識することなどないのではないか。訳もなくそんな疑問がわいてくる。 朝起きて、自分を自分と認識することの不思議さ。もしかすると人間は自己という認識を余りにも当たり前のこととして捉え過ぎていて、その確かさを無意識の内に他者の存在にも期待し過ぎるのではないか。他者が他者であることの証明を求めるのと同じ真剣さで、自分が自分であることの証明をしようと試みれば、自己というものの危うさに急に躓いてしまうだろう。 その時頼りになるものは記憶なのだろうか。その論理の展開の背景には記憶のデジタル化という考えが潜んでいるだろう。記憶はデジタル化された事実の塊に置き換えられ、照合されて真偽を問うことができる、という暗黙の考えが。しかし記憶はもっとずっとアナログなものであり、複合する入力情報を単に保存するというよりは、別の記憶の文脈の中で読み解いているだけに過ぎないとも言えるのではないか。よく言われるように記憶は容易に書き換えられる。しかし書き換えられても自己が自己であることに大した支障があるわけではない。そうであるならば他者が他者であることに何の証明が必要だというのか。 不思議な手触りのする短編を読みながら、空想科学小説にありがちな記憶の移植や書き換えということの裏に潜む、自己認識の傲慢さを沸々と考える。
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インチキ、八百長。「真実は一つ」なんて言いますが、真実は幾通りもあって、『如何様』では、贋作つくりの復員兵の真偽を廻って、『ラピード・レチェ』では、駅伝らしき競技(最後まで駅伝という言葉は出てこない)の指導者として北欧に近い国で、思考は揺蕩う。 文章は饒舌で不思議な読後感。
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