書き換えられた聖書 の商品レビュー
異論を認めないキリスト教の姿勢が暗黒期を招いたと思うが、聖書を徹底的に分析する姿勢が西洋文明の優勢を招いた科学・民主主義に結びついたんだろうか 絶対に正しいはずの神の言葉が繰り返された写本によって発生した改竄を含む変化が面白い 根拠が薄弱に思える三位一体等を信仰できるんだからカル...
異論を認めないキリスト教の姿勢が暗黒期を招いたと思うが、聖書を徹底的に分析する姿勢が西洋文明の優勢を招いた科学・民主主義に結びついたんだろうか 絶対に正しいはずの神の言葉が繰り返された写本によって発生した改竄を含む変化が面白い 根拠が薄弱に思える三位一体等を信仰できるんだからカルトとの線引は難しい
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聖書ミリしらでも面白く読めた。むしろ宗教的思想がないということが楽しめる一因なのかもしれない。 一番面白いと思ったのは最後のほうにおいて、作者(主張が強い)、訳者(主張が強い)、解説(主張が強い)という畳み掛けられるところ。
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チェスタートンは、ローマカトリック教会の2000年の歴史を振り返り、「中庸を保つ戦い」と総括したが、この本に出てくる、新約聖書成立の時代のエイレナイオスの「大地に四方位があり、風に四方があり、柱が四本あるごとく、福音書も当然四篇が必要だ」という言葉は、この教会の性格を表している。...
チェスタートンは、ローマカトリック教会の2000年の歴史を振り返り、「中庸を保つ戦い」と総括したが、この本に出てくる、新約聖書成立の時代のエイレナイオスの「大地に四方位があり、風に四方があり、柱が四本あるごとく、福音書も当然四篇が必要だ」という言葉は、この教会の性格を表している。イエスキリストの描き方も異なり、多くの矛盾点も含んでいる四福音書全てが要るという考え方は、聖典を定める側からすると、いささか変わっているが、それが、この信仰の性格を表しているということだと思う(内外から矛盾点を突かれるのは、かなり面倒くさいはずなので)。 本文批評の立場から、聖書の成り立ちから、さまざまな改竄を取り上げるが、もともと福音派クリスチャンだった著者は、改竄に批判的だったが、だんだんと「人間の書」として聖書を捉え、人間として、その時代、時代に影響されながら、改竄が重ねられることに理解を示すようになったという。 他の著作も読んでみたくなった。 (蛇足)宗教は怖いという見方があるが、それは、「中庸」から離れた「行き過ぎ」が目立つからなのかもしれない。宗教内部では、この「行き過ぎ」は「異端」となるが、「異端排除」の歴史も「行き過ぎ」に満ちているので、ここが理解を難しくしているのだろう。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
著者は自らのエピソードを通し、ユーモアたっぷりに聖書研究を述べる。キリスト教の源流であるユダヤ教は、古代世界でもユニークな、文字で書かれた聖典をもつ宗教であった。キリスト教もそれを引き継ぎ初期から書物志向の宗教であったが、皮肉なことにキリスト教を信仰するものはほとんど文盲であった。そのため当時一般にはプロの書記が行うものを、文盲である信仰者が書き写して伝承した。 初期キリスト教徒は、今日考えれているものとはおよそ異なるものであり、神の数やイエスの解釈が多岐に渡っていた。ユダヤ教の律法と新約聖書の福音は区別したマルキオンは、旧約と新約の神が二つあるとし、グノーシス派は12とした。物質世界を低位の神とみなすグノーシス派は、特に解釈の争いが絶えなかった。聖書の改ざんは、書記による偶発的なものと、別解釈を生まないために正統教会が意図的に行ったものや、口頭伝承を付け加えたものがある。 ローマ帝国の東側ではギリシア語、西側ではラテン語が使われていたため、原本をギリシア語からラテン語に書き写す必要が出てきた(ラテン語版ウルガタ)。ウルガタを用いる西方教会の聖書は、エラスムスのものに遡るが、そのときに選択したギリシア語聖書は必ずしも信頼できる写本ではなかった。印刷技術が発達したものの、ギリシア語写本はギリシア正教会の聖書、ということで印刷されるまでに至らなかった。 著者は神の霊感を受けたオリジナルの聖書を見つけ出すのは不可能だと断言している(異言の実例は何万も存在する)。また聖書を聖霊の霊感によるものではなく、人間的な書物と捉えている(聖霊が人々に真実の言葉を伝えるなら、それを同一に保ったはずである)。テキストを読むこと自体、読んだ人間の解釈を生み、他の言葉に改編されうる。 実例がいくつかのっているが、自分が注目したのは初期キリスト教会における女性の役割で、イエスの教え(またパウロですらも)女性は男性に劣ったものだとみずに教会で重要な役割を担っていたことである。ギリシャ=ローマ時代において、この男女平等観は異例で、その社会的情勢から次第に女性は男性に付き従うものという考えに置き換わっていった
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聖書の本文批評学の立場から、聖書が原典から多く改竄されてきたという著者の主張。それは最初の2世紀ほどの間に多くの書記者のレベルが低かったことがあるだけではなく、意識的にキリスト教の教理に合わせる方向で行われてきたという。それを数多くの箇所の具体的な記述の説明から論証していく。そう...
聖書の本文批評学の立場から、聖書が原典から多く改竄されてきたという著者の主張。それは最初の2世紀ほどの間に多くの書記者のレベルが低かったことがあるだけではなく、意識的にキリスト教の教理に合わせる方向で行われてきたという。それを数多くの箇所の具体的な記述の説明から論証していく。そうしてキリスト教の教理が確立していったという著者の反信仰的な姿勢には疑問を感じつつも、恐ろしい内容の書物である。一方でキリスト教会がなぜ、ユダヤ人(イエスや弟子たち自身がユダヤ人だった!)を敵視する方向になっていったかの説明は説得力があった。1844年5月24日の聖カタリナ修道院でのシナイ写本発見の出来事は実に面白いエピソードとして読んだ!
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聖書の本文批評の歴史や原始キリスト教に興味あるなら、是非読むべき本。大変面白い。ふざけたような口調や(訳し方の問題なのか?)、著者が時折混ぜる冗談口、繰り返しの多いくどさなどが、私は多少気になってしまったが、そのような点を差っ引いても刺激になる知見が多いのでおススメ。世界史などで...
聖書の本文批評の歴史や原始キリスト教に興味あるなら、是非読むべき本。大変面白い。ふざけたような口調や(訳し方の問題なのか?)、著者が時折混ぜる冗談口、繰り返しの多いくどさなどが、私は多少気になってしまったが、そのような点を差っ引いても刺激になる知見が多いのでおススメ。世界史などで「聖書」というワードを見ると、つい共通のものであるかのように錯覚してしまうが、どの文書を指しているのかも確認する必要があるし、その文書も写本によってバラバラだし、またその時々に大いに流通して人口に膾炙してるからといって、その「聖書」がその時点で確認しうる「最古にして最良のもの」であるとは限らないのである。そして実際著者は、現在英語圏の人が入手できるほとんどの英語版新約聖書は、本文批評において辿れる最古の形とは違うものであることを指摘しており、「間違ったテキストに依拠している」「そのテキストの間違いは、これらの書物の解釈を大きく変えているのだ」とまでいう。非常に重要な指摘であると思う。 本書は新約聖書の成立史研究を知っていると、よりすんなり理解できると思う。それにしてもマルコの描くイエスの苛烈さは、この種の聖書研究本を読むといつもビビるレベル。マルコ以降の聖書作者がマイルドテイストなイエスにしようと努力した気持ちもよくわかる。 ちなみにあとがきで筒井という方が、本書を鵜呑みにするなと警告しているが、そりゃそうだ、どの研究本だって鵜呑みにしてはいけないので笑ってしまった。聖書研究の本を色々読めば、実に様々な意見や立場があることがわかる。この本もその一つである。そして筒井氏が述べてる本書への異論は、取り立てて本書の主張を疑わしめるものではないと感じた。特にキリスト教は「書物の宗教」と表現するのことについての指摘のところなど。まあ、初期キリスト教が口承伝承を重視していたらしいことはあまり本書で触れていないので、そこは確かになんらかのフォローがあった方がいいなとは私も思った。
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第一線の聖書学者による、聖書の『テクスト改変』の歴史。 意図的にせよ書写のミスが原因にせよ、聖書という書物が如何に『書き換えられて来たか』という歴史は非常に興味深く、面白いものだった。テクストの異同がある程度まで『追える』というのは、本という物体がある程度まで残されているが故だろ...
第一線の聖書学者による、聖書の『テクスト改変』の歴史。 意図的にせよ書写のミスが原因にせよ、聖書という書物が如何に『書き換えられて来たか』という歴史は非常に興味深く、面白いものだった。テクストの異同がある程度まで『追える』というのは、本という物体がある程度まで残されているが故だろう。口承文化だと変化する前を追うのは難しい。 また、『まえがき』にあった、著者が聖書学者になるきっかけがすこぶる面白い。日本人の目から見ると不思議だ……。
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