寝ぼけ署長 第2版 の商品レビュー
山本周五郎というと時代劇と思っていたけど、、 署長さん最高でした なぜかお姿が目に浮かぶんですけど、、
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寝ぼけ署長と言われるが、切れ者の五道三省。 昭和初期の風俗もおもしろい。 「十目十指」が良かった。 ざますって言う人、この時代はまだいた!
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十篇の連作短編推理小説集。 五道省三は四十過ぎの独身で、ある地方の警察署長だった。いつも居眠りをしていることから新聞記者に「寝ぼけ署長」という不名誉な二つ名を与えられる。しかし、署長の在任期間中はその前後の十分の一程度しか事件が起こらず、貧しい人たちを中心に多くの市民から愛され、...
十篇の連作短編推理小説集。 五道省三は四十過ぎの独身で、ある地方の警察署長だった。いつも居眠りをしていることから新聞記者に「寝ぼけ署長」という不名誉な二つ名を与えられる。しかし、署長の在任期間中はその前後の十分の一程度しか事件が起こらず、貧しい人たちを中心に多くの市民から愛され、転任時には皆が惜しんで引き止めようとしたという。十篇の物語は署長在任時に秘書を務めていた男が読み手に語りかけるかたちをとり、署長が解決した数々の事件が紐解かれていく。 ぱっとしない見た目の何を考えているのかわからない中年男の五道だが、実は教養があって頭脳明晰で、難解な事件を名推理で解決していく。そして何よりも、常に市民のことを第一に考えており、警察としての職務である犯人を逮捕するということ自体にあまり重きを置いていない。いわゆる「罪を憎んで人を憎まず」を地で行くタイプの人物で、「海南氏恐喝事件」での次の言葉が署長の信条を表している。 「不正や悪は、それを為すことがすでにその人間にとって劫罰である、善からざることをしながら法の裁きをまぬかれ、富み栄えているように見える者も、仔細にみていると必ずどこかで罰を受けるものだ、だから罪を犯した者に対しては、できるだけ同情と憐れみをもって扱ってやらなければならない」 ジャンルとしては推理ものであるはずの本作だが、犯人当てミステリのように事件の謎を売りにした作品というよりも事件を通して登場する人々を描くことが主眼となっている。そのため、振り返ってみれば多くの短編で推理小説では常套の人死にが発生せず、そもそも法的にも誰も裁かれないような結末がほとんどである(そのなかにあって「夜毎十二時」「我が歌終わる」のようにミステリらしい作品も存在する)。また、読者から謎を隠そうという意図自体が希薄な作品も見受けられる。それでも不満なく十分楽しめるのは、ミステリ以前に人間を描いた小説としての出来によるものなのだろう。 上記のように、推理小説であることを前提としているというより、人間、とくに貧しかったり苦境にある人々に寄り添おうとする著者の作家性を土台として推理の要素を付け加えた作品として読める。私が読んだことのある同著者の作品でいえば、『赤ひげ診療譚』の時代と舞台を変えてミステリの味つけをしたといった感触の作品だ。そして、やはり五道も赤ひげ同様、ときには社会への憤りを漏らし、自ら青臭いと卑下する理想論を語る一面を垣間見せ、そのような場面も本作の見せ場のひとつだ。著者の作品が好きな読者ならおそらく気に入るだろうし、逆に謎解きの論理性を楽しみたいミステリファンや、事件や展開の激しさを求める読者には合わないかもしれない。
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賞の名前では知っているものの 初山本周五郎作品 なので、この作品が異質なのかはわかりませんが山本さんの唯一の警察小説 とある町に「寝ぼけ署長」という人物がいて、この人がだいたいいつも眠そうで勤務時間中もほとんど居眠りをしている。起きている時は論文や哲学書を読んでいることが多いよ...
賞の名前では知っているものの 初山本周五郎作品 なので、この作品が異質なのかはわかりませんが山本さんの唯一の警察小説 とある町に「寝ぼけ署長」という人物がいて、この人がだいたいいつも眠そうで勤務時間中もほとんど居眠りをしている。起きている時は論文や哲学書を読んでいることが多いようだが、読んでいる描写はほとんどない。 彼が赴任してからというもの、町ではほとんど犯罪が起きず、新聞には無能な人と書かれてしまうこともあった。しかし、それは事実と逆であって彼が独自に動いて犯罪を裏でおさめていた…という話 読んでて気づくのだが、どうも劇団の検閲とか時代の設定が表紙の姿とはどうも合わず調べてみたら寝ぼけ署長の姿も随分違う表紙の本を発見。時代ももう少し前でした。 「寝ぼけ署長」は「罪を憎んで人を憎まず」の人、事件はすぐに真相を掴めど、その事件に関わった人、犯人に対して情を持って接します。 ですが、弱者を虐めるやくざや権力者相手となると容赦なく自身の権力、知力を駆使して完膚なきまでに叩き潰そうとする。 短編なので徐々に署長さんの人柄がわかってきたところに、なかなか法を超えた仕返しをする場面が出てきたので若干引きました。 会話劇をしつつ、この作品についての解説をする。横山秀夫さんの「三十年ぶりの再読」が収録されていて、そこにも書かれていましたが、「箱庭」として町や人々を設定してから作り込むことで、この実際の警察とはかけ離れた作品を成立させているということに納得しました。 うーん、数話だけでも十分だったかな…(もともとは数話で終了予定だったが、好評のため続いたらしい) なんだかちょっと繰り返しに感じ、説教要素が目立ってしまった。 でも、署長の名言は心に残る。
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▼芥川龍之介の言葉が、コロナにしんどい思いをしている耳に響きます。 「自然はただ、冷然と我我の苦痛を眺めている。 我我はたがいに憐れまなければならぬ。 いわんや殺戮を喜ぶなどは―― もっとも、相手を絞め殺すことは手軽である」 1923年の関東大震災の折に、朝鮮人ある...
▼芥川龍之介の言葉が、コロナにしんどい思いをしている耳に響きます。 「自然はただ、冷然と我我の苦痛を眺めている。 我我はたがいに憐れまなければならぬ。 いわんや殺戮を喜ぶなどは―― もっとも、相手を絞め殺すことは手軽である」 1923年の関東大震災の折に、朝鮮人あるいは朝鮮人と思われた方々が多数、虐殺されました。その事件への芥川の感想です。 ▼「寝ぼけ署長」山本周五郎。新潮文庫。2019年11月読了。小〜中学生以来の懐かしい再読。初出連載は月刊誌「新青年」1946-1948。敗戦から1年ちょっとの時期に娯楽月刊誌に連載された、(当時の)現代劇、エンタメ小説が、2020年現在でもフツーの本屋さんに文庫本で置いてある…。他に類例が無い。流石、山本周五郎。 ▼とある地方都市の警察署長(まだ和服!)。昼行灯の「寝ぼけ署長」だけど、実はキレモノ、人情派。難事件の数々を貧乏人の味方、人情の味方になって解決していく連作小説。陰惨過ぎない、悲惨過ぎない、のほほん味も多少。ミステリー・エンターテイメント。和風のメグレ警視、ジョルジュ・シムノンの世界。山本周五郎は、キャリア、多作、作風、映像との親和性、すべて引っくるめ「日本のシムノン」としか言いようがありません。素晴らしい。 ▼全部で10作品。特に好きだったのは「十目十指」。じゅうもくじゅっし、と読むようですが、つまりは「みんなが意見を同じくしているものごと」。同様の言葉に「十目十手(じゅうもくじゅって)」もあるようです。 ▼屠殺場に勤める男性(今風に言うと、「食肉畜産業」ということになるのかしら)とその一家が、近所から「家畜を盗んだ。野菜を盗んだ」と濡れ衣を着せられる。周囲の人々はみんな、つまり「十目十指」、その意見。ところが物証も目撃証言も出ない。状況証拠と噂話だけで、追い込まれていく。署長が巧みな尋問で真相を暴く。実は、周囲の人々何人かが、ちょこっとづつ他人のものをくすねていた。その人たちが自分のしたことを、その屠殺場勤務一家になすりつけていた。その噂話を、周辺市民たちが信じ込む。みんな、正義の心に燃えて屠殺場一家を避難攻撃、雪だるまになって、警察沙汰にまでなっただけだった、というお話。 ▼もちろん、屠殺場に勤めている人、という職業差別が根っこにあるんですが。「噂レベル」「週刊誌や本の見出しレベル」の推測が、イメージを作っていってしまう、世論を作ってしまう恐ろしさのお話。おとぎ話のような暢気さの中でそれを剥き出しにした小説でした。これは、1946年当時とは同じ世界と思えないほど情報通信が発達した、2020年現在でも、全く変わりませんね。 ▼いや、むしろ2020年4月現在、コロナ禍にみんなが首を絞められている状況のほうが、「十目十指」のゾっとする恐ろしさは、身にしみます。気持ちが追い詰められると、人は寛容さを失います。公園で遊ぶ子供たち、買い物に来ている家族連れ、営業しているお店、マスクなしで歩いている人、パチンコしている人、中国・・・そんな人たちを「正義」の名の下に批判する。断罪する雰囲気。同調圧力。十目十指。 ▼「正義」を自覚している人たちはイヤです。「不正義」を自覚している人たちの方が、平和です。だって「まあ、俺たち不正義だからな」という謙虚さがあります。謙虚さは、寛容さです。 ▼僕たちは、1923年、関東大震災でヒステリックに虐殺を行った無名の市民たちの、末裔であることを忘れてはいけないでしょう(もちろん、精神的な意味ですが)。殺された人数は、少なく見積もって数百、多ければ数千人と言われています。殺された人の数の数倍、数十倍、「殺した人」がいるはずです。その何百倍も、「手を下さなかったけれど、同調した人」がいたでしょう。そのまた何百倍も、「止めようとしなかった人」がいたでしょう。けれど、デマであり間違ったことだと分かった後、「ごめん、俺、殺しちゃった」、「ごめん、殺してないけど同調しました」などと事後に名乗り出た人は、ひとりも、いません。 ▼芥川龍之介は、大震災の夜に自警団としてパニックの東京を歩いていました。虐殺の空気を吸ったのかも知れません。朝鮮人への虚偽の噂を信じ、虐殺を行った人々を「善良なる市民」と呼び、感情的な批判はしていません。 「自然はただ、冷然と我我の苦痛を眺めている。 我我はたがいに憐れまなければならぬ」 ▼虐殺の現場を想像してください。そのとき、その場では、「殺すべきである。こいつらが悪い。俺たちは正しい。殺さねば殺されるんだ。こいつらのせいで命があぶなくなるんだ。こいつらを攻撃するのは、正義だ。自業自得だ」と、十目十指、皆が思ったのでしょう。
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