自転車泥棒 の商品レビュー
失踪した父と共に消えた自転車を巡って、密やかな冒険が始まる。 年代物の自転車コレクターでもある“ぼく”は、手に入れた自転車を整備するために、オリジナルパーツを各地から探し求めて修復していく。 それと呼応するように、父親の自転車を探す物語は、別の自転車を巡る話を、父親世代の過去と従...
失踪した父と共に消えた自転車を巡って、密やかな冒険が始まる。 年代物の自転車コレクターでもある“ぼく”は、手に入れた自転車を整備するために、オリジナルパーツを各地から探し求めて修復していく。 それと呼応するように、父親の自転車を探す物語は、別の自転車を巡る話を、父親世代の過去と従軍の記憶を、戦争に巻き込まれて行った人々や動物園の動物達を浮き上がらせていく。 沈黙の中に押し込まれてきた物語たちは、“ぼく”という聞き手を得て、堰を切ったかのように溢れだす。 “物語とはいつだって、自分がどうやって過去から現在のここにやってきたか、知ることができないからこそ存在している。最初は、物語が時間に摩耗されてもなお、冬眠のようにどこかで生き残っている理由が誰もわからない。” だが物語は語り継がれ、受け継がれることで世代の間を、親子の間を、自らも認めていなかった喪失感を埋めて修復していくのだということが、ひしひしと伝わってくる。 語リ継がねばならぬことがあるのだ。 そしてこの物語は、父親を失った息子達-ぼくとアッバス-の回復と成長の旅でもある。 二人が出会い、互いに解き明かしていくラオゾウとバスア、ムー隊長と静子さんの過去の断片が交錯して、ひとつの大きな物語-ゾウがたどってきた旅路へとつながってゆく様は圧巻の力をもって心を揺さぶる。 本質的に愛を避けてきた“ぼく”は、変われるのだろうか。 過去を巡る旅の終着点と、家族の新たな繋がりの始まりが、ぼくをまた変えてゆくだろう。心の隙間を埋めるものを求めるのではなく、与える側へ変わること。 それは僕にとってもむずかしいことだけれども。 “母が口にする「犠牲」とはつまり「愛」なのだ。これは母が一生の時間をかけて僕に教えた、何よりも深奥、厳粛で、かつ晦渋な方程式だった。それはかえって、ぼくに大きくなってから「愛」と言う言葉を口にしたり、耳にするのを恐れさせることになった。「愛」が現れた時、それと表裏一体の「犠牲」が同時に登場する。 犠牲になったからって、その対象となる誰かが大喜びするとは限らない。同じく、誰かのための犠牲が何かの喜びのためになされたものとも限らない。 ー だから思うのだ。これが、ぼくががいつも君に「愛してる」と言えない原因なんじゃないか。”
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心揺さぶられる素晴らしい作品でした。 「歩道橋の魔術師」に続く、呉明益さんの作品。 自転車をめぐる、戦争や家族や東南アジアのジャングルにまで及ぶ壮大なストーリー。 まさに訳者・天野健太郎さんの言葉、 「読前の想像をはるかに越えて、ぶ厚く脳天を打ちのめしてくれる。...
心揺さぶられる素晴らしい作品でした。 「歩道橋の魔術師」に続く、呉明益さんの作品。 自転車をめぐる、戦争や家族や東南アジアのジャングルにまで及ぶ壮大なストーリー。 まさに訳者・天野健太郎さんの言葉、 「読前の想像をはるかに越えて、ぶ厚く脳天を打ちのめしてくれる。」 に尽きます。 「歩道橋の魔術師」とつながるところもあり、ドキドキしました。 台北の中で私の大好きな癒しスポットである北投が作品の中に出てきたときは、あの穏やかな風景と温泉源泉の熱気と硫黄のにおいを思い出して泣けました。
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不思議な物語だった。 一台の盗まれた自転車を巡る壮大な物語。 蝶 魚 鳥 象 オランウータン 戦争の記憶。 全てが自転車で繋がる。 現実と夢の狭間で語られる物語。 ゆっくりじっくり読んだ。
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古いものにはすべて物語がある。 その物語には、 消えてしまったものやことやひとが、 今も生きている。 蝶翅の貼り絵と自転車 オラウータンと自転車 象と自転車 戦争と自転車 人の出会い、別れと自転車 まるで、ものを言わない自転車が、かかわった人の物語を語りだすような、不思議さ。...
古いものにはすべて物語がある。 その物語には、 消えてしまったものやことやひとが、 今も生きている。 蝶翅の貼り絵と自転車 オラウータンと自転車 象と自転車 戦争と自転車 人の出会い、別れと自転車 まるで、ものを言わない自転車が、かかわった人の物語を語りだすような、不思議さ。 理屈で考えてはいけない。 登場人物の歳を数えてはいけない。 そもそも、創作話なのか実録なのかすら考えてはいけない。 もともとこれは「小説」なのだから。 読み進めると、 そんな不思議さの中に人の運命に似た郷愁が漂ってくる。 ゆっくり、じっくり、 かみしめて、よむ……。
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短編よりはしっくりこなかったけど、あるところの散文たちはすごく気に入ったりした。なんだか最近ずっと台湾の曲を聴いたり、映画を見たり、小説を読んだり、台湾語を勉強したり(!)台湾にいないのに1番台湾のことを考えてて恋しているみたいだ。自分の中に、たしかに台湾についてのあるかたちみた...
短編よりはしっくりこなかったけど、あるところの散文たちはすごく気に入ったりした。なんだか最近ずっと台湾の曲を聴いたり、映画を見たり、小説を読んだり、台湾語を勉強したり(!)台湾にいないのに1番台湾のことを考えてて恋しているみたいだ。自分の中に、たしかに台湾についてのあるかたちみたいなのがつくられてきて、それは誰しもが持ちうるものだけどみんなには違うかたちのものだと思った。だからある作家でも映画監督でも、それぞれの人が映す台湾はそれぞれ別のかたちをしていて、だからこそおもしろいのだなぁと思う。本当に最近は、いろいろなものがもっと複雑であること、それをただすんなりと感じて受け容れている。まるで少しだけ自分の頭の中の地図が広がったみたいで、少しだけいろんなことを俯瞰して見れるようになって、心に余裕ができたような気がする。こんなことに気づけたのも、台湾という一つのものに特別な感情を抱いてよく関心をもって動いたからだから、台湾と私の間にはなにかとくべつなフィーリングがあると思っている。今生きていることがたのしい!
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言うなれば拡散型の構成で、物語そのものは過去を遡っていく旅ではあるが、登場人物が多く時系列も前後するので、なかなか俯瞰で包括的に把握するのが難しい。 19世紀末から20世紀半ばにかけての台湾と日本の関係性についてはとても勉強になり、その時代を背景とする台湾を舞台に物語を綴る際には...
言うなれば拡散型の構成で、物語そのものは過去を遡っていく旅ではあるが、登場人物が多く時系列も前後するので、なかなか俯瞰で包括的に把握するのが難しい。 19世紀末から20世紀半ばにかけての台湾と日本の関係性についてはとても勉強になり、その時代を背景とする台湾を舞台に物語を綴る際には、日本の存在は決して切り離せないほど深く入り込んでいた、ということもよく分かった。 邦題について、訳者は「原著のいわば直訳」とあとがきで書いているが、原題と英題を見る限り、そして言及されている映画の方の英題等を見てもそうとは感じられず、このタイトルだと泥棒を行う"人"を想起させるヴェクトルが強いのでふさわしくないと思うのだが…。 自転車を盗んだ者にまつわる話ではなく、盗まれた自転車から紡ぎ出されていく物語なのだから。 私も現代のカーボンバイクに乗る1人だが、この小説を読んだら、重い"鐵馬"に跨って走ってみたくなった。
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第二次大戦中の「ビルマ」「インド」といえば、インパール作戦のイメージしかなかったが、台湾の視点からすれば、日本兵として動員された本省人もいれば、連合軍側の国民党軍兵士として動員された外省人もいる。さらに、日本人や「原住民」、現代台湾を生きる人々も加えて、それらを自転車、ゾウ、ある...
第二次大戦中の「ビルマ」「インド」といえば、インパール作戦のイメージしかなかったが、台湾の視点からすれば、日本兵として動員された本省人もいれば、連合軍側の国民党軍兵士として動員された外省人もいる。さらに、日本人や「原住民」、現代台湾を生きる人々も加えて、それらを自転車、ゾウ、あるいは蝶の物語で詩的につづりあわせていく。本書の訳者は「台湾海峡一九四九」も訳出しているが、それと同様に台湾社会の重層性を見事に描き出している作品だと思う。
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5/22はサイクリングの日 父の失踪とともに消えた自転車はどこへ。 2018年度国際ブッカー賞候補作を。
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『先生の手のひらには工具の柄と合致したタコができ、長年それを摑んできた骨も同じように凹んている。それは先生の手を信じた、そしてその手に信じてもらえた工具であった』―『アブーの洞窟』 呉明益の小説の主人公を作家本人だと勘違いしないでいるのは難しい。しかし、例え登場する人物像や時代...
『先生の手のひらには工具の柄と合致したタコができ、長年それを摑んできた骨も同じように凹んている。それは先生の手を信じた、そしてその手に信じてもらえた工具であった』―『アブーの洞窟』 呉明益の小説の主人公を作家本人だと勘違いしないでいるのは難しい。しかし、例え登場する人物像や時代や背景が作家本人のそれとよく一致していたとしても、作家はつねに虚構と事実の淡いを歩むようにしてその差を曖昧にしつつ物語を紡ぐ。本書の主人公たる作家が記すノートにもそのような説明があり、そこでも主人公と作家本人は限りなく重なり合うが、二重に虚構の屋上屋が重ねてある構図となっている。何と念の入ったエクスキューズかと思い、少しくすりとしてしまう。 それは究極的には読者の手に委ねられた判断であろうと思いつつ、作家はテキストを発信した瞬間から常にテキストをオープンなものとして手放さざるを得ないという宿命のようなものにも思い至る。つまり、あれこれと作家を詮索しても始まらないことなのだと諦めるより他はない。 そんなつまらない詮索はさておき、二冊目となる呉明益の小説は期待を上回るもの。この作家は、現在に残るピースから過去を再構築していくのがとても上手い。もちろん史実を丹念に調査してもいるのだろうけれど、記憶の持つ柔軟さをよく理解した上で巧みに狂言回しのようにそれを虚構に混ぜ込む。すると真実味とでも表現すればよいのかも知れぬ独特の存在感となって世界が立ち上がる。見慣れたピースと言ったけれど、それは必ずしも実在している必要すらない。人々の記憶に共通の存在として残っているものでもよい。そのかぎ括弧付きの「共通の思い出」は、人それぞれに座り心地のよい場所を物語の中に見い出し虚構である世界をぐっと身近に引き寄せる。それどころか、全く見たことも無い中華商場を克明にこちらの脳内に再構築させる文章の力を思えば、そんなピースすらこの作家には不要なのかも知れないと思う。 記憶。それはどこまでも曖昧で郷愁を呼ぶものと思いたい。しかし作家は「哀悼さえ許されぬ時代」と書く。その言葉の深い意味はひょっとすると台湾人にしか理解し得ぬものであるのかも知れない。それを解ったように語るのは余りにも偽善的なことであるようにも思う。そうであるにも拘らず文章によって揺さぶられる記憶は自分の中には無かった筈の痛みを呼び覚ますのだと告白せざるを得ない。不思議な恍惚感が読み進める毎に増してくる。「歩道橋の魔術師」の立ち上げる世界と地続きの世界は思った以上に複雑で簡単には割り切れない世界。そこに登場する父親が皆寡黙であるのは当時としては一般的であったと翻訳家は記したが、それも当然のことであると思う。語り得ぬことは黙する他ない、と彼の地の哲学者が言った通りだ。 自転車を巡り一つ一つ明かされていく謎、そして明かされない謎。主人公の父親の残した謎は解けぬままだが、自転車は残る。ペダルを空漕ぎする音を読む者の耳に残して物語を終える作家の見つめる先は読者には計り知り得ぬ境地であることだけは確かなことのように思う。乾いた音が作家の潔さを強調するかのように、永遠と鳴り続ける。 出来れば本書が執筆されることの切っ掛けとなった小説も同じ天野さんの訳で読みたかったと思うこと仕切り。今となっては「歩道橋の魔術師」をリツイートして頂いたことが忘れられぬ思い出となりました。ありがとうございました。
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父が乗っていた自転車を巡って、台湾の自転車史、日本統治時代の戦争史、動物園の歴史、蝶収集及びそれを用いた工芸品、台湾少数民族、家族史を描いている。 所々幻想的な描写があり、その点は感嘆したが、全体的に間延び感があったように思う。話もあちこちへ分散し、最後に収斂していくが、何か物...
父が乗っていた自転車を巡って、台湾の自転車史、日本統治時代の戦争史、動物園の歴史、蝶収集及びそれを用いた工芸品、台湾少数民族、家族史を描いている。 所々幻想的な描写があり、その点は感嘆したが、全体的に間延び感があったように思う。話もあちこちへ分散し、最後に収斂していくが、何か物足りなさを感じた。 また同作者の他作品を読んでみたい。
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