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明智光秀 残虐と謀略 一級史料で読み解く の商品レビュー

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8件のお客様レビュー

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単純に事績を述べただけ

一から明智光秀の事績語っただけでこんなの誰でも知ってます。

tk

2021/05/19

明智光秀の伝記。強引すぎるほどの手法や才覚を発揮して、のし上がってゆく過程が鮮やかに描かれて、一気に読み終えた。

Posted byブクログ

2020/04/19

今年(令和2年)のNHK大河ドラマの主人公は史上初の明智光秀となりましたね。私も久しぶりに見ています、主人公として登場するだけあって、プラスのイメージで描かれると思います。 最終的には謀反を起こして信長と敵対しますが、それまでには織田信長やその妻である帰蝶、斎藤道三、幕府側の役...

今年(令和2年)のNHK大河ドラマの主人公は史上初の明智光秀となりましたね。私も久しぶりに見ています、主人公として登場するだけあって、プラスのイメージで描かれると思います。 最終的には謀反を起こして信長と敵対しますが、それまでには織田信長やその妻である帰蝶、斎藤道三、幕府側の役人とも関係を保つマルチ人間であるようですね。 そんな時に本屋で本書を見つけて思わず惹かれて購入してしまいました。戦国時代とはいえ、家柄が重視されていた時代にかなり高齢で信長に仕えて、信長の期待に応えるためには仕方なかった面もあるとは思いますが、この本では明智光秀の違った面も見ることができました。 以下は気になったポイントです。 ・詰めの城というのは本城の背後にあり、普段は平地の便利な本城で過ごすが敵の侵攻などを受けると高所の詰城に避難するのが戦国時代の常道である。甲斐武田氏の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館が本城、背後の要害山城が詰の城という組み合わせが代表的なもの(p29) ・信長は義昭から、近江・摂津・和泉・河内のうちで一カ国を与えようと言われたのに対して、この3箇所の代官配置のみを希望した。1カ国を面で支配するより、尾張清洲ー美濃岐阜ー近江草津ー近江大津ー京ー堺と、経済と軍事の動脈を貫通させて、大経済圏をつくりより大きな税収を確保しようとした(p60) ・本圀寺(ほんごくじ)の変の明智光秀の活躍により、信長から注目され信任を得た。その2ヶ月後に光秀は歴史の表舞台に立った(p65) ・進行した軍勢が大急ぎで退却する場合、部隊の前後入れ替えなどはせずに先鋒がそのまま殿軍となるのが常識である。若狭へ先行した光秀が継続して先鋒となって越前へ進み、金ヶ崎城で開城交渉をおこなった秀吉とセットで最前線に布陣、そのまま殿軍となった(p90) ・延暦寺焼き討ち後、光秀は信長からその功を賞されて滋賀県の支配権を与えられた、同時に義昭から上山城の指揮権が与えられた(p104) ・光秀は幕府奉行衆をはじめとする幕臣の利益代表というよりむしろ、率先して押領に奔走する男であったことは疑いようのない事実である(p110) ・目下のものに連署状を出す場合、日付の真下に署名する人物が最上位、そこから左に遠ざかっていくに従って下位になる(p113) ・目的のためには日頃の付き合いも平気で切り捨てる非情さが光秀にはあった、フロイスの文書にもある(p150) ・荒木村重は謀反を起こしたが、村重の好力で寄騎である高槻城・高山右近、茨木城・中川清秀が信長に協力したので状況は変わった(p210) ・雨天により鉄砲が無力化してしまった光秀の陣城はその威力を十分に発揮できず正面防衛に多数の歩兵が必要となったために側面防御が薄くなり圧倒された、鉄砲が使えない中で数時間におよび2倍以上の羽柴軍相手に善戦したのは、光秀の作戦計画の優秀さを証明している(p259、260) 2020年4月19日作成  

Posted byブクログ

2019/03/02

知らなかった事も多々書かれており興味深いものがあった。 しかしながら筆者の説明は因果関係が破綻している部分も多く、本能寺の変というゴールから逆算した無理筋な思い込みで文章を書いているとしか思えない。 例えば、長篠の戦いにおいて、光秀は信長から感謝状をもらったようなのだが、具体的に...

知らなかった事も多々書かれており興味深いものがあった。 しかしながら筆者の説明は因果関係が破綻している部分も多く、本能寺の変というゴールから逆算した無理筋な思い込みで文章を書いているとしか思えない。 例えば、長篠の戦いにおいて、光秀は信長から感謝状をもらったようなのだが、具体的には内容のわからないが感謝状があったらしいという記述だけで、どうして「光秀の作戦案が的中したことを褒める内容のものだったと判断できる」のか? 事実の列挙の部分は良いけれども、筆者の解釈、説明の部分は論理的に破綻している。

Posted byブクログ

2018/12/07
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歴史物での光秀像は、 教養があり事務処理能力とともに戦もそこそここなして性格も温和で妻と家族と一族を愛している。急進的な信長の方針に異を唱えることでキツく折檻されたことや前途を悲観して謀反に及んだ(長い) そんな人ではなく、陰険で謀略的というルイス・フロイスの話を裏付けるような資料を基に人物像を描いた作。 秀吉とのライバル関係は激烈でお互いに足を引っ張った経緯や山崎の闘いの双方の狙いなどもあり新たな人物像を楽しめた。

Posted byブクログ

2018/11/12
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

なかなか説得力ある、納得できる筋書きと思った。 光秀はパワハラ被害者ではない。野心あふれる有能な武将だった。 悪いこともそれなりにやるし、自己利益を図り勢力を拡大していく。 光秀と秀吉はライバルとして互いを意識して行動。 * 光秀が信長と縁戚になると秀吉も真似をする。 * 光秀の中国地方進出ルートを邪魔するように秀吉が侵攻城郭を選定。 * 秀吉が失敗(援軍要請)すると光秀も同じ失点になるように援軍を派遣。 * 対毛利主戦派の秀吉を邪魔するべく親毛利外交を進める光秀。 * 信長が対毛利戦を選択、光秀は進出エリアを失う、危機感と疎外感。 * 連歌を詠む内に徐々に不満が歌に出て、謀反の気持ちになっていく・・・ * 光秀の陣地が発掘された(2011年)。 * 山崎の戦いは雨で光秀得意の鉄砲役立たず。

Posted byブクログ

2018/10/03

 善人・光秀より、悪人・光秀の方が余程納得できる。当時の主な武将達は「全員悪人」と言われる面を持っているのだし、光秀もその例に漏れないということだろう。  しかし、美濃(斎藤氏)や越前(朝倉氏)に仕えていたとされていた光秀が、実は幕府に仕えていたというのは面白い。以前の通説は「出...

 善人・光秀より、悪人・光秀の方が余程納得できる。当時の主な武将達は「全員悪人」と言われる面を持っているのだし、光秀もその例に漏れないということだろう。  しかし、美濃(斎藤氏)や越前(朝倉氏)に仕えていたとされていた光秀が、実は幕府に仕えていたというのは面白い。以前の通説は「出自・素浪人」だが、実は「幕府仕え」に説が変更した伊勢新九郎長氏(早雲庵宗瑞)を連想する。

Posted byブクログ

2018/09/18
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二つの発見!本能寺の変での明智光秀は、従来説の67才、55才よりずっと若い43才説があること。そして山崎の合戦は羽柴秀吉が光秀の鉄砲隊の威力を封じるため、予定日を1日早めた雨中の決戦であったとのこと。  まえがきにあるとおり、本書は著者の言葉のとおりバイアスがかかった部分があり、そこに一級史料と明智軍記などの後世物が混在した状態です。また本文では出典が不明な箇所もあります。私のような一般の読者には判別が困難です。またフィクションでは無いので参考文献一覧があれば、もっとこの知的パズルは楽しめると思います。  以下、私もこの知的パズルに参加します。  ①越前に10年間もいた?   元の史料は『遊行三十一祖 京畿御修行記』天正八年(1580)に時宗の最高僧が、奈良での布教を与力大名に筒井順慶を持つ光秀に依頼するために訪れた旅の記録の一文。光秀が越前の長崎称念寺に十年居住とありますが、著者は長過ぎるので二年とされています。しかし、根拠がありません。十年間越前に雌伏では後年の光秀の活躍が突然過ぎると言うことでしょうか?私は遊行の言葉どおり十年間、天皇の勅願寺で、失礼ながら現在の称念寺からは想像できない大寺で多くの末寺、塔中を持った寺(江戸期でも30の建物があったとか)のどこかに寄宿して居たと思います。全国行脚の僧から情報を得ることも出来ますし、また塔中では「光明院の倉」と言う日本海交易を営んでいたので、居ながらにしてネットークを利用出来ました。  寺の伝承には他にも面白い事がありますが、また別の機会に。  参考  谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』 洋泉社 2014年  称念寺住職 高尾察誠『明智光秀公と時衆・称念寺』 称念寺 2014年(第2版)  称念寺リーフレット       ②延暦寺焼き討ちの張本人  私も延暦寺焼き討ちの張本人は史料にも「なで斬り」を厭わない光秀だと思いますが、これだけで張本人とするには根拠が薄いではないでしょうか?著者も引用する『兼見卿記』で延暦寺焼き討ちの二年後に、信長が上京焼き討ちの前に吉田神社に王城への影響を心配する信長からのお尋ねが載っていますが、延暦寺焼き討ちの前にも信長が吉田神社にその影響を尋ねているようです。以下は石清水八幡宮で購入した文化講演録の引用です。  『先程いいましたが吉田家は神祇官なのですが、その日記等を見ていますと、どうも比叡山延暦寺を焼き打ちする前に尋ねています。何を尋ねたかというと比叡山延暦寺を潰したら「王法」つまり朝廷や公家を含めた政治、そういった王権も潰れてしまうのか、ということを吉田家に訪ねています。これは日記に残っていますので、信長から打診があったのは間違いないところです。  吉田側は何と答えたかと言うと、延暦寺は宗教ではなく政治勢力であるから潰しても構わないというように答えております。そこで信長は焼き打ちを決行するのです。信長の場合は、むやみやたらにと言うわけではなくて、本願寺もそうなのですが、敵対勢力は徹底的に叩きます。これが政治方針です。』  他にこのお尋ねを引用した論文を知りませんが、信長の焼き打ちは延暦寺が正親町天皇の綸旨や足利義昭の御内書による和睦交渉を無視した結果として、肯定的に受け止められていたと思えます。そして吉田神社のお墨付きを引き出したのは、石風呂に入れてもらうほど、親しい間柄の光秀であったとしても不思議ではないでしょう。 参考 講師 鍛代 敏夫 文化講座講演録『石清水八幡宮と天下人―信長・秀吉・家康』石清水崇敬会 2000年  最後に本書の「近江の戦国の城」図の安土城が、現状を参考にしたのか?琵琶湖に面していませんので、次版では当時のように訂正をお願いいたします。 以上

Posted byブクログ