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ノモレ の商品レビュー

3.9

42件のお客様レビュー

  1. 5つ

    10

  2. 4つ

    13

  3. 3つ

    7

  4. 2つ

    2

  5. 1つ

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2019/04/21
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

本書を読むまでアマゾンにまだ文明社会と接触したことのない先住民が存在していることを知らなかった。当然ではあるが、彼ら彼女らの存在は本当にごく少数に減少してしまっている。 保護区に指定しても部外者の侵入を完全にシャットアウトすることは非現実的であり、現代社会とどう折り合いをつけるかは未だに未解決の課題である。一方で確実に彼ら彼女らが住めるエリアは年々縮小しており、早急な対策が必要である。 動物の絶滅危惧種を保護するよりも難しい課題ではあるが、人類の貴重な財産をなんとか残したいものである。 本書では、既に現在社会に溶け込んだ先住民と非接触の先住民(イゾラドと呼ばれる)との接触を通して、課題を浮き彫りにしている。

Posted byブクログ

2019/04/02

アマゾンの先住民たちが迫害され搾取され、体験していない感染症によって大量死していった現実。自分たちと違っている人間、自分達よりも文明度で劣っている人間の命を物のように扱っても咎められなかった時代。そして、今なお細々とジャングルの奥地で住まう人々と、近代的な生活に順応した元先住民と...

アマゾンの先住民たちが迫害され搾取され、体験していない感染症によって大量死していった現実。自分たちと違っている人間、自分達よりも文明度で劣っている人間の命を物のように扱っても咎められなかった時代。そして、今なお細々とジャングルの奥地で住まう人々と、近代的な生活に順応した元先住民との邂逅の記録です。とても有意義な記録では有るのですが、出会った先住民たちに毎度毎度大量にバナナを与えて信頼を得ようとする姿がとてもイライラします。物を貰えるから来ているとしか思えないし、物を貰う事によって依存してしまってバナナが貰えないと分かった瞬間に不機嫌になったり、あまつさえ集落に襲い掛かって略奪行為に及ぶ先住民。なんともやりきれない気持ちになりました。 自分を集落の人に置き換えた時に、頭の中で銃を構えている自分が浮かびハッとしました。自分の心の中にも、生活を脅かす相手が居たとしたら、反撃をしてしまうであろう自分に慄然としました。きれい事ではない事なのに、彼らはそれでも先住民と仲良くなり分かり合いたいと考えます。それは100年前に右左に分かれて行方知れずになった、同じ仲間たちの末裔である可能性が有るからです。100年前の同胞に親愛の情を憶えるって今の日本では分からない感覚です。正直ピンときません。 そして文明人と言われる人たちは、全裸の未開の原住民に勝手なロマンを抱き、勝手に侵入し彼らを直接的に間接的に滅ぼしてしまうのでしょう。観光客にもイライラ、政府にもイライラ、元先住民にもイライラ、そして先住民にもイライラします。 でもこれがきっと現実で、美談でまとめたがる我々は何かに毒されているのでありましょう。

Posted byブクログ

2019/03/31

共通の言語があったから接触をはじめたものの、病気をうつしてしまうかもしれない心配があったり、対岸のバナナがなくなるまで贈与を期待され、緊張する時間が続きました。ボートのエンジン音に驚かれたり、対岸に渡り家畜や家電をダメにされたり、自然にないものの強い嫌悪感があるあたり、どう付き合...

共通の言語があったから接触をはじめたものの、病気をうつしてしまうかもしれない心配があったり、対岸のバナナがなくなるまで贈与を期待され、緊張する時間が続きました。ボートのエンジン音に驚かれたり、対岸に渡り家畜や家電をダメにされたり、自然にないものの強い嫌悪感があるあたり、どう付き合っていくことが正しいお作法なのか判断は難しいと思いました。

Posted byブクログ

2019/03/04

かつて、奴隷時代に支配から逃げる途中に、離れ離れになってしまった先住民たち。いまもアマゾン流域にあって、白人たちの観光資源にされようとしている民族たち。ノモレは「仲間」の意味。互いに警戒しあい、近づきあい、また警戒しあう。「ヤノマミ」が鮮烈だった著者の近作だが、正直筆致にこだわり...

かつて、奴隷時代に支配から逃げる途中に、離れ離れになってしまった先住民たち。いまもアマゾン流域にあって、白人たちの観光資源にされようとしている民族たち。ノモレは「仲間」の意味。互いに警戒しあい、近づきあい、また警戒しあう。「ヤノマミ」が鮮烈だった著者の近作だが、正直筆致にこだわりすぎて、フィクションとノンフィクションの境がわからなかった。文明に未接触な民族との交流をまかされた先住民の男の主観で書かれているので、その気持ちが推測でしかない感じがするし、ましてや、翻訳でなく日本人の著作なのでその思いが本当なのかわからなくなってしまった。おそらくその思いへの推測は的を得ているのだろう。だとしても憶測することが、とても不遜に感じられてしまい、読み進むのが辛かった。

Posted byブクログ

2019/03/02

「ノモレ」とは友達の意味。ある日、アマゾンの奥地に「イゾラド」(未接触の先住民)が現れた。その地に住む先住民族は、彼らは遠い昔に枝分かれした同じ部族、ノモレだという。先住民族の現在とその思いに深く迫った著書である。

Posted byブクログ

2019/03/02
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

アマゾン奥地にある原住民の村で生まれ育ち、現代の都会で高等教育を受けた知的なロメウ青年。そのロメウが、未だ森の奥深くに生きる現代文明と未接触の人達(イゾラド)を監視する職に就く。イゾラドの実態、イゾラドと現代社会の間で揺れ動く人達をロメウの視点から描いたのがこの本だ。 ロメウの村には100年前から続く伝承があった。『奴隷になっていた私達は、残忍な白人を殺して森の中に逃げ込んだ。白人から追われた私達は、逃げる途中で二手に分かれてしまった。私達は生き延びた。あの時の仲間達は、ノモレ(仲間)はきっと今も森で生きている。ノモレを探し出さなければならない・・・』 ノンフィクションをどの視点から描くかは様々だけど、この本は登場人物であるロメウの視点から描いている。著者がロメウの視点に成り代わって場面を描いているから、著者の想像が入り込む余地が高い。その結果、ノンフィクションというよりも、小説っぽくなっている。物語性がある。これはブンガクだ。 小説っぽいのが悪いということは全くない。むしろ大変おもしろく読み進んだ。構成もわかりやすく読みやすい。視点としてロメウ青年を選んだのは、すごく絶妙な人選だと思う。現代社会とイゾラドの関わり、断絶を描くのに、これ以上の視点を、葛藤を持った人物がいるだろうか?しかもロメウの視点に没入し過ぎず、時にはイゾラドの視点からも描いているし、引いた視点から客観的な状況も描いている。吉村昭の史実小説に近いかもしれない。 この本の物語性を貫いているのは伝承だ。貫こうとする伝承は、ペルーという国や現代社会という現実に脅かされている。「彼らは野蛮人でもイゾラドでもない、ノモレなんだ」でも一体どうしたらいいのか?もはや、森の中だけでイゾラドが生きていくことは難しい。かといって、現代社会に取り込んでいいのか? ロメウの村人たちは、伝承を信じて移住した。生き別れたノモレに会えると信じて。とっくに殆どの人が失ってしまったものがここにある気がする。一族の、親族の生きた、血の通った記憶。歴史。ロメウの村人たちにはそれがあった。イゾラドにもきっとあるだろう。しかし森の外にいる人達にそれはあるだろうか?私たちの多くは森の外にいる。伝承の外にいる。「日本」にそれを見出す人もいるけど、あまりにもスケールが、枠が大き過ぎないか?あるいは作為的ではないか?ねつ造ではないか?私はそこには乗れない。 今の私たちは、個人の人生を、個人の物語をどう生きるかだけを考えてしまいがちだ。私は何者なのか?どこから来たのか?これからどうすればいいのか?私たちは自分で自分を探さなければならない。自分で物語を作らねばならない。でも、一族の物語があれば、その流れの中に自分がいるのなら、自分探しなんていらないのかもしれない。その物語は歴史の授業で学ぶことではなく、伝承の中にしかないような気がする。 イゾラドと現代人の対立軸はいくつかあると思う。その中の一つに、見つける側か?見つけられる側か?というのがある。見つけるのは、私たち現代人のほうだとつい思いがちだが、果たしてそうだろうか?イゾラドの方が現代人を先に見つけたのではないか?深い森の茂みの奥から目を光らせて見つけたのではないか?しかしその時彼らは、森の中で爆音を響かせ木々をなぎ倒す現代人を見て、「見つけた!」とは思わなかっただろう。先に見つけたにも関わらず。 見つける側と見つけられる側の間には格差がある。見つけた!と思う方が優位に立っている。見つけられる側は弱者だ。そこには暴力性が潜んでいる。私がどちらに感情移入できるかというと、見つけられる側だ。イゾラドは現代人に見つけられたくなかっただろう。一方、私を含む多くの現代人は見つけられたがっているのではないか?そうじゃなきゃSNSだの、こんなブクログだのやらないことだろう。私たちは見つけられる暴力を望むマゾヒストなのだろうか。

Posted byブクログ

2019/02/07

地球の裏側のアマゾンでは、今もまだイゾラドと呼ばれる文明未接触の先住民族がいる。けれども、アマゾンの開発やそれに伴う文明社会との接触(病原菌へ接触、抗争の勃発)などで部族ごと消滅していっている。...これは触りでしかないが、すべてが衝撃的で、胸にズドンと来た。先住民の権利宣言とか...

地球の裏側のアマゾンでは、今もまだイゾラドと呼ばれる文明未接触の先住民族がいる。けれども、アマゾンの開発やそれに伴う文明社会との接触(病原菌へ接触、抗争の勃発)などで部族ごと消滅していっている。...これは触りでしかないが、すべてが衝撃的で、胸にズドンと来た。先住民の権利宣言とか、生物多様性条約8条j項とか、議論の背景が垣間見えたような。 大アマゾン、また再放送しないかな。ヤノマミも読んでみよう。

Posted byブクログ

2019/01/12

2018/12/26 詳細は、こちらをご覧ください。 『あとりえ「パ・そ・ぼ」の本棚とノート』 → http://pasobo2010.blog.fc2.com/blog-entry-1183.html   2018/09/05  予約 10/02 借りる。10/03 読み始める...

2018/12/26 詳細は、こちらをご覧ください。 『あとりえ「パ・そ・ぼ」の本棚とノート』 → http://pasobo2010.blog.fc2.com/blog-entry-1183.html   2018/09/05  予約 10/02 借りる。10/03 読み始める。 読み終わる。 内容 : 100年前のアマゾン奥地、入植者が支配するゴム農園から命がけで逃れた先住民がいた。 「ノモレ(仲間)を探してくれ」との約束は果たされるのか…。 NHKスペシャルが生んだノンフィクション。『新潮』掲載を書籍化。 目次 : 序 生き残った者たちが言い遺した話 第1部 救世主の山へ  ロメウ、川を上る  二〇一五年七月  マシュコ・ピーロ  基地での一日が始まる  二〇一五年七月  細長い筒、樹液の出る木、黄色い実  出現  二〇一五年七月 ほか 第2部 川を渡り来る者  音、川の向こう、近い日の話  ロメウ、家族との接触を続ける  二〇一五年八月  こちら側とむこう側  二〇一五年九月  不穏な前兆、隠された意図  二〇一五年十月  ロメウ、奔走する  二〇一五年十月 ほか そして、流木は大河を彷徨う 著者 : 国分 拓 1965年宮城県生まれ。早稲田大学法学部卒業。NHKディレクター。 「ヤノマミ」で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

Posted byブクログ

2018/12/20

ヤノマミで名を知られる国分さんのアマゾンのインディオもの第2作。本作は国分さんの冒険はない。文明に接しているインディオと接しいないインディオの邂逅の話。その両部族は約百年まえに分かれた仲間の子孫かもしれないのだ。分かり合えるのか、文明と接するのが彼らにとって良いのか、悪いのか? ...

ヤノマミで名を知られる国分さんのアマゾンのインディオもの第2作。本作は国分さんの冒険はない。文明に接しているインディオと接しいないインディオの邂逅の話。その両部族は約百年まえに分かれた仲間の子孫かもしれないのだ。分かり合えるのか、文明と接するのが彼らにとって良いのか、悪いのか? 誰が彼らを守れるのか?どうしたら良いのか? 誰もわからない。ただ未開で生きるのはますます難しくなっている。関野さんがマチゲンガ族にあっていた頃が懐かしい。

Posted byブクログ

2018/12/13

 ある日、異世界に転移する。  ある日、異星人と遭遇する。  そういう誰もが夢想するようなことが現実に起きたら。  ペルーで侵略者によって原住民たちがプランテーションに駆り出され、そこから逃げる時に森の中に別れた同胞がいた。逃れた原住民は文明と出会い、近代化し暮らしながらも別れた...

 ある日、異世界に転移する。  ある日、異星人と遭遇する。  そういう誰もが夢想するようなことが現実に起きたら。  ペルーで侵略者によって原住民たちがプランテーションに駆り出され、そこから逃げる時に森の中に別れた同胞がいた。逃れた原住民は文明と出会い、近代化し暮らしながらも別れた同胞を思っていた。そうして100年後に原住民が現れた。同胞を意味するノモレという言葉が通じるかれらは、かつて別れた同胞なのかもしれない。  という、なんだろう、ある日突然異文化交流する場合のわけのわからなさ、そしてノンフィクションゆえのオチのつかなさが見事。  原住民をそのままにしておけない、という現実。もう人の手の入らない森は存在しえないのではないかと思う悲しさ。かつて持っていて失ったもの。あるいは文明化により得たもの。さまざまなことを思うきっかけになる。  ただし、実話怪談を読んでいて「そして誰もいなくなった」的な描写があると、実話なのに誰が語ってるんだよ!って思ってしまう私には、語り手の顔が見えないこの本は苦手である。題材がものすごい好みであるだけに余計そこが気になる。なぜ気になるかというと、小説のような語り口に作為を感じてしまうからだ。  私は「どんなことがあったのか」よりも「ある出来事があり、それに対して著者がどう感じたか」を知りたいタイプの読み手なのだと気づいた。  どこかのレビューにあったけれど、映像では素晴らしかったのだろうな。

Posted byブクログ