情動の哲学入門 の商品レビュー
元々自分のことを、情動が未熟だと思っている。これ読んでそれを確信して、落ち込んだ。 心で思っていることがかなり幼稚で我が儘なのでそのまま行動に移すと嫌われるから、考えてコントロールしている自分。だから時々ふとした瞬間に思ったことを言ったりやったりするとボロが出る。 情動を鍛えて人...
元々自分のことを、情動が未熟だと思っている。これ読んでそれを確信して、落ち込んだ。 心で思っていることがかなり幼稚で我が儘なのでそのまま行動に移すと嫌われるから、考えてコントロールしている自分。だから時々ふとした瞬間に思ったことを言ったりやったりするとボロが出る。 情動を鍛えて人間的に成長?したいと思うけど、難しい。 いくら正しい「判断」ができても意味ない。 …本の内容から少々外れますが個人的な感想です。第一部が面白かったです。
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私たちの生において情動(感情)は主役であり、理性は補佐役である。 例えば、悪魔的人間が悪をもたらしたとする。私はその悪に対し怒りと悲しみを覚える。怒りと悲しみには、悪をもたらした人間に対する謝罪と償いをさせようとする動機が含まれる。しかしたとえ謝罪がなされても、許さない。 謝罪が...
私たちの生において情動(感情)は主役であり、理性は補佐役である。 例えば、悪魔的人間が悪をもたらしたとする。私はその悪に対し怒りと悲しみを覚える。怒りと悲しみには、悪をもたらした人間に対する謝罪と償いをさせようとする動機が含まれる。しかしたとえ謝罪がなされても、許さない。 謝罪がなされなければ、いっそう怒り悲しむ。そうせざるをえない。 私たちは理性では悪魔的人間を私たちの道徳世界の住人でありうるような人間でないと判断する。 一方で、私たちは情動では悪魔的人間を道徳世界の住人でありうるような人間だと感じる。 悪魔的人間は私たちと道徳的に断絶していることは明らかだと思われる。しかしその明らかさは私たちの今の判断能力によって考えられる限りでの道徳的関係である。 悪魔的人間を人間だと感じる情動は、未来の新たな道徳的関係の可能性を示している。
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