「和の食」全史 の商品レビュー
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事実と主観の書き分けが曖昧だったり、古文の訳が怪しかったり、プロっぽくない日本語の紡ぎ方などが見受けられたりするのが少し気にはなるけれど、そういったものに対する自分の中のリテラシーさえしっかり保っておけば、縄文時代から現代に至るまでの日本の食にまつわる色々な知識や見解を知ることができ、大変興味深く読める一冊である。 冒頭から"ジビエの縄文クッキー"などというパワーワードに好奇心と食欲を刺激されるではないか。 稲作と日本文化の関係についての考察や、箸の使用と工業技術の発展を結びつける発想などもなかなかユニーク。 長きに渡って肉食がタブーであったことが長寿につながったとする見方には説得力を感じたし、肥満体が少ないのは米食中心のおかげ、という意見については私も首肯する。 西洋文化由来の低糖質ダイエットからは何かと目の敵にされる米だが、特に玄米は非常に優れた総合栄養食であり、決して健康的な体と見た目作りを阻害するものなどではないはず。 ちゃぶ台が意外と新しいものだった、というのは意外な豆知識だった。
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中里貝塚はJR上中里駅の東方に1km以上延びる縄文時代の貝塚 中里貝塚は集落からはなれた浜辺において、その周辺に暮らした人々が協業して貝加工を行った結果残された巨大な貝塚であり、縄文時代にあって自給自足的な範囲を越えて内陸の他の集落へ供給することを目的とした貝の加工処理があったこ...
中里貝塚はJR上中里駅の東方に1km以上延びる縄文時代の貝塚 中里貝塚は集落からはなれた浜辺において、その周辺に暮らした人々が協業して貝加工を行った結果残された巨大な貝塚であり、縄文時代にあって自給自足的な範囲を越えて内陸の他の集落へ供給することを目的とした貝の加工処理があったことを各種の遺構・遺物によって具体的に伝える重要な遺跡である。また、もしカキを養殖していたとすれば、これまで古代ローマに始まったとされていたカキ養殖の歴史が大幅に遡ることとなる。 日本全国で縄文時代に形成された貝塚は約1600か所とみられ、そのうち800か所以上が関東地方に集中し、その50パーセント以上は千葉県下に集中しているという。 千葉市は貝塚の密集地帯で、その中のひとつが加曽利貝塚だ。 西日本にくらべ東日本に縄文文化が発達したのは、大量のサケの捕獲と保存が、社会の豊かさをサポートしていたという説があり、説得力がある。
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永山久夫 著「和の食全史 縄文から現代まで 長寿国・日本の恵み」、2017.4発行です。縄文から1万年、現代まで、日本人の食事の基本献立は不変、ご飯、味噌汁、漬物という3点セット、主食であるご飯、ご飯を引きたてご飯を食べやすくする味噌汁、米の消化をよくする漬物。採取、狩猟、漁労に...
永山久夫 著「和の食全史 縄文から現代まで 長寿国・日本の恵み」、2017.4発行です。縄文から1万年、現代まで、日本人の食事の基本献立は不変、ご飯、味噌汁、漬物という3点セット、主食であるご飯、ご飯を引きたてご飯を食べやすくする味噌汁、米の消化をよくする漬物。採取、狩猟、漁労による山(森)の幸、海(川)の幸を、四季に応じていただいてきた。長寿を生んだ和食の基本は、一汁三菜、ご飯、味噌汁、おかず三品。延々と続いてきたのですね。和食の「和」には「やわらげる」「なごむ」という意味があること、なぜか嬉しいです!
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◆先人が築いてきた長寿食のヒミツ◆ 食品添加物やサプリメントなど存在しなかった古の時代、健康的な生活を送るために人がどのように食と向き合っていたのかを学べる一冊です。 旬の物を長期保存する知恵をはじめ、発酵食品からアミノ酸を摂取するなど、興味深い内容となっています。今やアンチエイ...
◆先人が築いてきた長寿食のヒミツ◆ 食品添加物やサプリメントなど存在しなかった古の時代、健康的な生活を送るために人がどのように食と向き合っていたのかを学べる一冊です。 旬の物を長期保存する知恵をはじめ、発酵食品からアミノ酸を摂取するなど、興味深い内容となっています。今やアンチエイジングのブームですが、老化を防ぐ食材もふんだんに取り入れられていたという驚きの事実。長野県内の特色ある食べ物も紹介されています。
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貝類の採取は、春から夏に集中する傾向があり、現在の潮干狩の時期と一致する。量は少ないが、他の季節にも採取していたことが分かっており、食糧不足などがおこった時にでも採取することのできる大切な食料資源だったことが理解できる。 東京湾には遠浅の海が多く、そこへ流れ込む大小さまざまの河川が川上の森から、貝の栄養となる有機物を運んできて、貝類の大繁殖に役立ったのである。(p.22) たば氏は貝塚の密集地隊で、その中のひとつが加曽利貝塚だ。 山にしろ、海にしろ、再生産力が豊かな自然に囲まれて暮らす縄文人にストレスはあまりなかった。幸せホルモンのセロトニンがたくさん出る生活である。セロトニンの原料は、魚に多い必須循環脂肪酸のトリプトファンである。魚の好きな縄文人は、セロトニンの原料をコンスタントにとっており、豊かな森がもたらす安心感と相乗りして、安らぎを持って生涯現役生活を楽しんでいたのだろう。 縄文人が弥生時代のように水田を造成するような規模の大きな農耕に向かわなかったのは、その技術がなかったからではなく、自然の恩恵だけで満足のいく食生活が維持できたからである。だから一万年間も、縄文時代が続いたのである。(p.41) 奈良時代、カブは食用価値の極めて高い万能野菜だった。葉は幅が広くて大きく、他の野菜に負けない食べごたえがあった。 肥大した白い球根は、多肉多汁であり、大きくて煮ると甘みがあり、満腹感を得やすい。このため、葉も茎も球根も、よく漬物の材料として親しまれていた。(p.99) 仏教の伝来は、当時の人たちはもちろん、その後の日本人の生活文化に、さまざまな影響を与えることとなった。もっとも大きな変化は、肉食を忌避する風潮が高まってきたことだ。(中略)極端なことをいえば、日本人の食膳の上から、動物の肉が消えてしまったのである。逆にいえば、魚で動物性のタンパク質をとり、ダイズと米で植物性のタンパク質を補給するという、世界に類のない健康で長寿効果の高い食文化を形成するきっかけとなったというプラス面に注目したい。肉食禁止令が発布された時が、実は世界中から脚光をあびることになる「和食文化」の出発点となったのである。(pp.102-103) 花に逢えばみぞつゆばかり推しからぬ 飽かで春にもかおりにしかば(p.129、和泉式部) 甲斐の国は、山国である。 標高の高い土地が多く、水利が不便だから水田が少ない。米の飯よりも、粉を主体とした食事にならざるをえない。 (中略)炊かなければならない米に比べ、ほうとうの原料となる小麦粉は、比重が軽く、水で練って、切ったり、延ばしたりして鍋で煮込めばすぐに食べられる。 味付けは味噌で、現地調達した山菜やキノコ、イノシシや山鳥の肉を入れて煮れば栄養満点だ。つまり、小麦粉、味噌、鍋さえあれば、合戦場ですぐに用いることができるし、米にくらべて軽量であることも、迅速に行動する上で役に立つ。(p.210) 利休は茶の湯を通し、和食の大原則ともいうべき、一汁三菜をもアピールしたのである。素材の持ち味を損なうことなく、旬を大切にし、料理の季節感を何よりも大切にするのが、利休の食事感であり、現代の和食文化にも引き継がれている。(p.212) 煮売屋は、好みのものを必要な量だけ売ってくれるので無駄がなく、自炊を嫌う独身の男性に重宝された。煮売屋で人気ナンバーワンだったのが煮豆である。煮豆を家庭で作ると、大変に手間がかかる。戻し、煮かげん、調味など、半日はかかってしまう。しかし、江戸っ子は、この煮豆を好んだ。 現在でも、デパート地下の惣菜売り場に行くと、大皿や大丼鉢に、煮豆をはじめ、煮魚や根菜類などの煮しめなどが並んでいるが、構造的には全く同じである。(p.246) 米と麹でつくっった酒種で発酵させたパンは、日本人になじみのある饅頭の風味を感じさせて、西洋のパンとは味も香りもちがっていた。そこへ、さらに饅頭を参考にして、小豆あんを入れて包み、焼いたのである。 こうして、西洋のパンと和風の甘い小豆あんを融合させた、和洋折衷の画期的な「あんパン」を創作した。(p.299) あんパンの人気に続いてクリームパンやジャムパンなども登場し、明治後半になるとあんパンは日持ちがよくて、美味で安価なところから駅弁としても人気を呼んだ。明治の初期の流行語となった「文明開化の七つの道具」に、あんパンは、郵便や瓦斯灯、岡蒸気などと共にあげられており、新時代の象徴と感じられていたのである。(p.300)
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