私たちはどこから来て、どこへ行くのか の商品レビュー
(2014/6/6) 荒川強啓 デイ・キャッチ!がもうすぐ5000回とか。ざっと20年。 そのコメンテーターとして20年前からレギュラー出演している社会学者宮台真司氏。 彼の存在はこの番組で知ったのだけれど、知れば知るほど不思議な男。 ほぼ同世代ながら、若い!そして論客!援助交際...
(2014/6/6) 荒川強啓 デイ・キャッチ!がもうすぐ5000回とか。ざっと20年。 そのコメンテーターとして20年前からレギュラー出演している社会学者宮台真司氏。 彼の存在はこの番組で知ったのだけれど、知れば知るほど不思議な男。 ほぼ同世代ながら、若い!そして論客!援助交際に体当たりしたり、政治を切ったり、、。 この本も社会学的に多角的に日本を切っている。以前読んだ幻冬舎新書の続き。 第1章 時代―“終わりなき日常”が永久に終わらないのはなぜか 第2章 心の習慣―震災で露呈した“民度の低さ”と“悪しき共同体” 第3章 文化―平成のサブカルチャー史と、社会システムの自己運動 第4章 社会―若い世代の感情的困難と、それをもたらす社会的位相 第5章 技術―ネット社会における全体性の消失とパラドクスの増殖 第6章 政治―日本社会再設計に立ち塞がる数多の勘違いを排除する 第7章 全体―私たちは、どこから来て、どこへ行くのか http://www.gentosha.co.jp/book/b7527.html でもなんだか難しかった、、、 一番ぴんと来たのは民主党の失敗を、まだその政権が続いている最中に断言し、返す刀で小沢一郎をずばりと斬る。一連の小沢たたきが嘘っぱちとわかりながら、小沢の政治家としての限界、待望論の無意味さを説く。 確かに無罪放免になっても力が発揮できない小沢氏、、、総理になるべきときに官僚に追い落とされた、という気の毒な面はあるが、、安倍さんの敵がいない今こそ立ち上がるときなのだが、、、。 官僚も論破。一度作った体制を保とうとする習性。 これを変えるのは政治家しかない!しかしそれを出来る政治家がいない、、、。 新自由主義者として批判されているミルトンフリードマンを評価しているのはうれしい。 バウチャー制の意味を理解している。ちまたいわれる弱肉強食ではないのだ。 選択権を官僚ではなく消費者に与える。これがいいのだ。「選択の自由」愛読書だ。 しかし全体的には難しい本。
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進む社会の分断、台頭する排外主義、ポピュリズム。我々が依拠する基本的人権や民主主義の価値が足元から揺らいでいる今、社会を構築する一歩を踏み出さなくてはならない。
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注釈が充実。議論は正直難解だが、伝えたいことを繰り返し記述していて、切迫感が伝わる。中間項の消失という問題は、本が書かれて数年経った今も変わっていないと感じるが、また新しい議論も気になる。
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出版されてからだいぶ経つが、2022年の現在迄に、この当時に想像できなかった事が起こっている。 そして宮台氏自身の身にも。 果たして宮台氏はこれからどんな論説を発表するのだろうか。
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本著者の本は「日本の難点」に次ぐ2冊目だ。 なるほど、著者はずっと学問的な根拠によって社会現象を説明し、学問的根拠をもって社会に働きかけているんだ。 実は図書館で借りて2014年第1刷発行版を読んだのだが、2022年のいまとなって著者が危惧する民主主義の危うさがより顕著になっている印象だ。 「自立した共同体」が「自立した個人」を育み民主制を充実させる。なるほど。「自立した共同体」を建設するべく内発的な動機に基づく「参加」、それに、地域(共同体)による「包摂」(つながりによる共助?)を進めるべきであると。 学問に立脚しながら実社会を見つめながら透徹した思考を展開する著者に脱帽、眼を開いてもらった。ありがとう。
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宮台社会学35年分のエッセンスが講演記録などでわかりやすくまとめてある。 袋小路に入り込んだな〜と感じる日本社会について、社会学という視点でするどく分析した論考のかずかず。 わたしが思っていたより、状況は絶望的だったのだ。。。。と暗い気持ちになる。 さて、ここからどう進むの...
宮台社会学35年分のエッセンスが講演記録などでわかりやすくまとめてある。 袋小路に入り込んだな〜と感じる日本社会について、社会学という視点でするどく分析した論考のかずかず。 わたしが思っていたより、状況は絶望的だったのだ。。。。と暗い気持ちになる。 さて、ここからどう進むのか、が問題だ。
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端的に言えば、本書は宮台氏による日本論であると思います。 あとがきに「衒学的」とある通り、確かに時に言葉遣いは思想業界用語のクロスオーバーとなり思想・哲学・社会学に馴染みのない方には到底すんなり理解できるものではないと思います。しかしながら、良くも悪くも短編集の寄せ集めの体を成すことから、筆者の主張したいこと・思いは、繰り返し語られることでおおよその理解ができる形になっていると思います。 ・・・ 宮台氏の若者論はブルセラや売春などの事象を取り上げることで「いろもの」の感がありました。しかし論の根っこは日本社会論があると思います。 とどのつまりは日本社会が若年層を滋養する<生活世界><中間世界>を失ったということです。なぜこうした中間組織がなくなったかと言えば社会が自由主義的になり、ヒトモノカネが自由に行き来するようになったからだと思います。過剰流動性により「まともに生きること」と「うまく生きること」に乖離が発生し、うまく生きるだけの自己に自ら価値観を見出せなくなる傾向。あるいは「こんなはずじゃなかった」という落胆。 その落胆の先にかつては北朝鮮であったりデモであったり、いわば埋め合わせる思想や理念(中間世界ですかね)が存在した。しかし今はあらゆる相対性の中で何でも選べるので何も選べない。自己の揺らぎ。 かつては地域や学校や或いは会社や、それこそ家族(生活世界ですかね)が受け止めていた包容力を失い、若者は「居所を失った」結果、承認を求めて売春やブルセラ、ネトウヨ、うボランティアに走る、と言うような論調だと思います。ここ以降が良くわかりませんが、きっとこうやって何物かの”他”なるものによって自己を埋め合わせるようなことを「終わりなき日常」と言っているように見えました。いわば、自分探しは否定的な意味で終わりのないゴール、と言っているように思いました。 ・・・ では承認されづらい不安定な社会、「うまく生きる」だけの納得のいかない社会でいいのかと言うとそうではありません。<中間社会>に代わる新たな解として、氏は「包摂」というワードで希望を表しているように思います。 ここでバラバラになった人たちをいわば、巻き込む。対立があってもなくても、ともに居る。連帯感や共通性は事後的に得る。なんとなればお見合い婚の夫婦の得る連れ添ったからの愛情のような? そうすることで当事者性を各人が持ち、変革の兆しを生む、という事のようです。そのための手段として「祭り」だったりインターネットだったりがキーとなることが示唆されます。 こんな感じで読みました。 ・・・ 全般的にはやはり難解だと思います。乱暴にとらえれば、我々は人間資本(ヒトとの繋がり)をより強くし、そうした繋がりの団体として政治に関わるべき、という事を主張しているのでしょうか。総論は賛成です。 国を頼りにするのではなく自らを頼りに隣人をたすけ(たすけられ)、そしてそこから国や自治体を変えていく。あれ?これってひょっとしたら私がやりたい事と似てるかも!? そうそう、あと少し疑問に思ったのは、「終わりなき日常」を生きた若者のこと。90年代の彼らって、そのままブルセラや売春をし続けて老いていくわけではないと思います。私も今は立派なおっさんになりました。そうした過去の若者たちがどうやって自己を「受容」する、ないしは社会に飲み込まれていくか、その仕組みや過程を知りたいと思いました。その飲み込まれ方がポジティブであれば、それはそれで今を生きる若者へのなにがしかのメッセージになるのかも、とふと思いました。
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読み応えあります。大切な事がたくさん書かれているけど、情報量が多すぎて覚えきれません。何度も読み返して忘れないようにしたい。
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民主主義への盲目的な信仰からの脱出。 国家という単位からの部分的な離脱。 そのためには、国家以上に大きな社会を作る必要があるということ。 効率化(≒システム化)の結果大量に産まれた、生活世界のどこにも受け皿のない「剥き出しの個人」。 それは全世界的に同じ傾向にあるが、中でも日本は徹底的に社会的な共通言語が徹底的に破壊されているという現状認識。 異なる思考や視点を「包括」し、複数のレイヤーから物事を見るという「熟議」を体験することによって、個人を新しく「社会化」する必要がある。 (要するにもう一度、罰則や利益ではなく「私たち」の内的な倫理で行動する社会集団を日本の中に作ろうということか)
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難しいが、宮台氏の著作は正鵠を射ている。いくつか氏の著作は読んだけれども、読むたびにその意を強くする。 本作においては、モダンからポストモダンへの移ろいの中で、主に日本というドメスティックな社会がどのように変化したかが論ぜられ、またそうした社会への対応策としての処方箋も示される。時には欧米諸国などとの対比も交えながら論を進めるので、難解ではあるが、自身の経験や感覚に照らして首肯できる内容が多い。 宮台氏は本著の中で、「空洞化」というキーワードを繰り返し述べている。特に「システム」を利用して生きていると思っていた「我々(生活世界)」は、いつしかシステムの一部となり、その結果いつしか「我々(生活世界)」は、「システム」の生成物に過ぎない、との主張は鋭い。となると、氏の言に従えば、「スマート化社会」も素直に手放しでは喜べない。「スマート化テクノロジー」がもたらす便益は確かにあろうが、一方で我々はそれによって「選択」権を取り上げられてしまった。つまり、「我々(生活世界)」が「システム」に完全依存する形でしか生きられないことを意味している。よくよく考えると恐ろしい。 ポストモダン状況では、我々は「空洞化」し、全面的にシステムに依拠することとなる。そして、それをもたらしたのは、グローバル化、すなわち「資本の自由移動化」であると指摘する。 これは井沢氏が『日本史真髄』の中でも同様のことを述べていたが、日本人は「みんなで決めたことは正しい」という認識を持っている。本来多くの意見を集めれば、それは相対的に「間違っているはず」である確率は上がるはず(そして、その「間違う」前提を受け入れつつも、社会の多数意見を受け入れるのが民主主義の本義のはず)だが、多くの日本人はそうは考えない。そもそも「誰が優れた人間か」を判別することも難しいが、少なくとも現在日本の中枢にいる者たちの多くが「馬鹿丸出し」ばかりであることは自明であろう。宮台氏は、この日本の全体主義的民主制について、「デタラメな民主制」と称している。民主党政権への交代の期待、歓喜、そして絶望を経て、劣化した55年体制に逆戻りしたような今を見れば、そう言いたくもなる宮台氏の考えは、単なる理解を超えて心に響いてくる。 これまでの東浩紀氏の著作にあった「大きな物語」から「小さな物語」へ、といった主張と合わせて考えてみると、(とりわけ日本では)自立した共同体がなく、さらにはその共同体さえ空洞化し、社会を牽引するのは「我々」ではなく、ましてや「対米自立の道を完全放棄し、もはやその素振りさえ見せない」安倍政権などではあろうはずもなく、「システム」がその役割を担う。しかし、「自立性」を持たない日本人は、それでもなお国家やあるいはそれに準ずる巨大企業(例えば東電)に「依存」するしかない。 宮台氏が本著で語った内容には、いちいち首肯するしかないけれども、その日本で生きている「私」は、そのたびに同時に背筋が寒くなる思いにかられてしまう。宮台氏が示した「処方箋」は、デタラメな日本を正すことのできるベクトルを提示していると思うが、それは社会学的手法であるがゆえに、「私」個人ではどうにもならない諦観をともなってしまう。
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