歴史でめぐる洛中洛外(上) の商品レビュー
淡々とシンプルな文章なのだけど、かなり奥深い京都の歴史を名所とともに案内してくれています。 情報量が過剰じゃないのが良いです。 豊臣秀吉が作った「御土居」で「洛中・洛外」が分けられていることや、応仁の乱で京都の中心部はほぼ焼けており古都と言えども多くはそれ以降の再建であるとか、...
淡々とシンプルな文章なのだけど、かなり奥深い京都の歴史を名所とともに案内してくれています。 情報量が過剰じゃないのが良いです。 豊臣秀吉が作った「御土居」で「洛中・洛外」が分けられていることや、応仁の乱で京都の中心部はほぼ焼けており古都と言えども多くはそれ以降の再建であるとか、確かにそのとおりと思うことを本書で再認識しました。 歴史や知識があるほど旅行や街歩きは楽しくなるので、こちらのシリーズ3作を繰り返し読んで、ますます京都を楽しめるようにしたいと思いました。 おおまかな地図や名所への公共交通機関での行き方、カラー写真があるのも良いですね。
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ほうと思ったこと ■国家権威を示そうと大路は八丈(24m)、小路は四丈(12m)で作っていたのに、市民が住み出すと「広すぎますやん」と徐々に店や家を建ててしまい、ついには3~4mになってしまった。錦市場のあの狭さ。 ■江戸時代にはもっと御所のなかは解放されていて、誰でも自由に立ち...
ほうと思ったこと ■国家権威を示そうと大路は八丈(24m)、小路は四丈(12m)で作っていたのに、市民が住み出すと「広すぎますやん」と徐々に店や家を建ててしまい、ついには3~4mになってしまった。錦市場のあの狭さ。 ■江戸時代にはもっと御所のなかは解放されていて、誰でも自由に立ち入れた。皇室の威厳をただすため、明治時代以降に整備し、運用を変えた。 そういえば何かの絵巻物でみた二条城図には、膝枕でくつろぐ男性同士(お稚児さんの手をにぎる僧侶もいたような気がする)や物売りなどの市民で賑わっていた。 ■秀吉の御土居(5mほどの土盛りの上に竹を植えた天然の土塁)は鴨川の洪水から京の町を守る意図もあった。 ■千本通の千本とは「千本ほどもある卒塔婆」から名付けられた説。千本通が通るあたり、船岡山南山麓の蓮台野(れんだいの)は、東山山麓の鳥辺野(とりべの)、奥嵯峨の化野(あだしの)と並んで葬送を営む場所だった。
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