応仁の乱 の商品レビュー
何年も前に話題になった本で、ずっと読みたいとは思っていたのですが、ついつい後回しにしてしまい、このタイミングでようやく手に取りました。 応仁の乱については、小学校でも中学校でも高校でも習ったはずなのですが、戦いの中身についてはほとんど記憶に残っておらず…。 そんなわけで、新たに...
何年も前に話題になった本で、ずっと読みたいとは思っていたのですが、ついつい後回しにしてしまい、このタイミングでようやく手に取りました。 応仁の乱については、小学校でも中学校でも高校でも習ったはずなのですが、戦いの中身についてはほとんど記憶に残っておらず…。 そんなわけで、新たに学ぶつもりで、読み進めました。 応仁の乱は、領地の争いや家督の争い、後継者問題、役職の争い、武士としての仁義、過去のしこりに由来する仇討ち、といったものが入り組んでの戦いであり、しかも、戦い開始時の東軍の総大将の細川勝元と西軍の総大将の山名宗全は、別にバチバチの関係にあるわけではなく、むしろ畠山氏の家督争いに巻き込まれた結果、いずれも総大将になるなど、応仁の乱は、覚悟を決めてのスタートではなく、やむにやまれぬ事情で始まったのですね。 まったくの素人の自分からすると、詳しすぎてついていけない部分も多かったのですが、それでも、応仁の乱の概略はつかめた気がします。 ちなみに、本書は、奈良の興福寺にまつわる二人の僧(経覚(きょうがく)と尋尊(じんそん))が残した記録が柱となって構成されているのですが、約500年前でありながら、京都での出来事を奈良にいながら把握していた二人の情報網は、驚き以外の何物でもありません。 本書を読んでいて思ったのですが、応仁の乱をもっとちゃんと理解するには、当時の価値観や道徳観や生活や制度をもっと知らないとだめですね。 今回は、それらがないまま読んでしまったので、浅い理解で終わった気がします。 そこはやむを得ないとは思いつつも、反省点。
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応仁の乱(1467-1477)は、日本史の画期と言われる。 画期というからには、日本史は「応仁の乱」前と、「応仁の乱」後に区分出来るということだ。 ということは、我々は「応仁の乱」後を生きている、と言える。 日本の文化、日本人の宗教観•意識、日本語は、この乱を境に大きく変貌した。...
応仁の乱(1467-1477)は、日本史の画期と言われる。 画期というからには、日本史は「応仁の乱」前と、「応仁の乱」後に区分出来るということだ。 ということは、我々は「応仁の乱」後を生きている、と言える。 日本の文化、日本人の宗教観•意識、日本語は、この乱を境に大きく変貌した。 本書は、その画期を成す乱をコンパクトにまとめているが、その全容を掴むのは極めて難しい。 何故なら、保元•平治の乱のように、敵対勢力を明確に区分して、勝ち負けをはっきりさせることができないからだ。 最初は、敵味方、勝ち負けがはっきりしているように見える。 しかし、それがズルズルと全国レベルに広がり、10年以上もそんな状態が続くのだから、明確さを欠くこと夥しい。 我々が歴史で習うのは、将軍家、摂関家、各大名家の対立による、京都を戦場とした戦いだ。 「応仁の乱」は、細川勝元と山名宗全を両対象とする戦乱であると習ったはずだ。 だが、それは「応仁の乱」の発端に過ぎない。 守護大名から、寺院、地侍に至るまで、あらゆるレベル、あらゆる地域で、内紛、抗争が、燎原の火のように広がり、日本列島全体が混乱の坩堝に巻き込まれたのだ。 それが「応仁の乱」の捉えどころのない真の姿だったのだ。 誰もが直ぐに終わると思っていた京都の擾乱は、直ぐに地方に飛び火し、従来の体制を悉く破壊し尽くし、遂には、戦国時代の幕を切って落とす。 本書は、日本史の時代の変革を画する日本最大の内乱の動的メカニズムを詳細に描く。 しかし、それも簡単ではないことは言うまでもない。 読み通すには、忍耐が必要とされるが、読む価値はある。
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戦国乱世の扉を開いた応仁の乱はいかに起こり、なぜ長期化したのかを読み解いた本。 高校日本史の知識が身についていることが必要。授業だけでは見えてこない、戦の経緯や室町時代の本質を学べます。
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経覚・尋尊という奈良 興福寺の僧侶の眼を通しての、新しい「応仁の乱」像。 経覚の父は関白・九条経教、母は浄土真宗大谷本願寺の出身。尋尊の父は関白左大臣一条兼良、母は中御門宣俊の娘と言う、所謂良家の出家者。当時はこのように公卿からの出家者は、大きなお寺の今で言う貫主の地位につけたよ...
経覚・尋尊という奈良 興福寺の僧侶の眼を通しての、新しい「応仁の乱」像。 経覚の父は関白・九条経教、母は浄土真宗大谷本願寺の出身。尋尊の父は関白左大臣一条兼良、母は中御門宣俊の娘と言う、所謂良家の出家者。当時はこのように公卿からの出家者は、大きなお寺の今で言う貫主の地位につけたようだ。 さて新しい視点の「応仁の乱」と言っても、高校の授業で、恐らく教科書の数行程度の記述でしかなかったと思われ、自分にとっては新しいも古いもなく、そのまま素直に読解することを心がけた。 この時代、敵になったと思ったら寝返ったり、親子・兄弟の間でも敵味方になったりと、実にややこしい。で、なかなか読み進めることが出来ない。 自分にとっての発見は、この時代、新しい文化が武家の経済的支援によって花開いていったということ。 15世紀後半以降、在国するようになった守護・守護代は、国元に立派な館を築いている。 実際守護館(守護所)の遺跡は発掘調査によって全国各地で見つかっているが、そのほとんどが平地の、一辺が150~200mほどの方形館で、その敷地内には連歌や茶の湯を行う建物「会所」があった。主殿・常御殿・遠侍などの配置も判で押したようである。主家斯波氏に対する「下剋上」を果たした朝倉氏の居城として知られる越前一乗谷の朝倉氏館も例外ではなく、地域的な特色・個性は見られない。こうした守護館の構造は、「花の御所」(室町殿)などの将軍邸を模倣したものだったらしい。 山ロも周防守護の大内氏によって、京都をモデルにした地方都市として整備された。しばしば「小京都」と呼ばれるこの都市の原型は、大内氏が抱いた京都文化への憧れによって生み出されたのであるとのこと。 一方、現実の京都はというと、守護や奉公衆の在国化によって住民が激減し、市街域も大幅に縮小した。 と言うことだ。 京都のほとんどが焼けただけではなく、新しい芽が外に伝播して行ったのね。
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享徳の乱の勉強をするにあたって、中央で起こった大乱を無視することはできんやろうと思って、再読。 まぁ理解度は6割ってとこだけど。
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再読。以前にベストセラーとなった本だが、複雑怪奇な応仁の乱を前後を含めて、大和の僧の視点から論述しているが、分かりやすく読みやすい。
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年号は覚えたが、前後の出来事はほぼ知らない状態で読み始めた。一応、最後まで読んだ感想は、難しかったの一言。 しかし、少なくとも読む前よりは「応仁の乱」の理解が深まったので、2回目があればより理解できると思う。特に、応仁の乱後の戦国時代への流れや京の文化が全国的に広がった経緯など、...
年号は覚えたが、前後の出来事はほぼ知らない状態で読み始めた。一応、最後まで読んだ感想は、難しかったの一言。 しかし、少なくとも読む前よりは「応仁の乱」の理解が深まったので、2回目があればより理解できると思う。特に、応仁の乱後の戦国時代への流れや京の文化が全国的に広がった経緯など、なるほどと思う。 「終章 応仁の乱が残したもの」がまとめ的だったので、この章を先に読むのも有りかと思った。
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日本の歴史は応仁の乱前後で分かれるといわれるほどの戦いなのに、ほぼ内容を知らなかったため、手に取りました。 主に以下のことが新しく知れて、興味深かったです。 ・応仁の乱の発端は、足利義政の後継者争いではなく、有力守護大名の畠山氏の家督争いであった。 ・主な対立軸である細川氏、山...
日本の歴史は応仁の乱前後で分かれるといわれるほどの戦いなのに、ほぼ内容を知らなかったため、手に取りました。 主に以下のことが新しく知れて、興味深かったです。 ・応仁の乱の発端は、足利義政の後継者争いではなく、有力守護大名の畠山氏の家督争いであった。 ・主な対立軸である細川氏、山名氏は早めに和睦を結んだものの、他の同盟者の思惑が入り乱れ、最終決着が長期化。 ・足利義政が、畠山氏や他の有力者の争いで、討伐と釈免を繰り返し、節操が無さすぎる。。 ・応仁の乱までは、守護大名は京都に住むのが普通であったが、乱後、自国の統治の重要さを感じ、自領地に住むようになった。 ・足利義政・義尚親子のどちらが最高権力者か不明、義尚より後の将軍家がニ系統で分裂など、権力機構が思ったよりあいまい。 ・将軍の力が弱くなった故、細川氏は、要職である管領を儀式の時だけ仕方なく拝命し、その後辞職する自由さ。 興福寺のニ高僧の日記をもとに当時の状況が説明されているため、直接応仁の乱とは関係ない興福寺及び奈良周辺の説明が長い、家督争いとそれぞれの同盟関係等が重なり、勢力図が覚えられない、そもそも人名が読めない等、読むのが困難な部分が多かったですが、全体的な応仁の乱前後の流れが知れて、とても有意義な本でした。 デマや噂話も多く、詳細な記録を辿るのも難しい時代を、このようにまとめられる学者の方の凄さも改めて感じました。
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応仁の乱の直接の原因は畠山氏の家督争いである。畠山義就(はたけやまよしなり)と畠山政長(はたけやままさなが)が争った。応仁の乱が長引いた原因も両畠山氏の争いである。応仁の乱は実質的には山名宗全と細川勝元の権力争いとする見方が強いが、両畠山氏は山名宗全や細川勝元の没後も争い続けた。...
応仁の乱の直接の原因は畠山氏の家督争いである。畠山義就(はたけやまよしなり)と畠山政長(はたけやままさなが)が争った。応仁の乱が長引いた原因も両畠山氏の争いである。応仁の乱は実質的には山名宗全と細川勝元の権力争いとする見方が強いが、両畠山氏は山名宗全や細川勝元の没後も争い続けた。山名氏と細川氏の和睦後も争い続けた。応仁の乱の最も重要な対立軸は畠山義就と畠山政長になる。 特に義就は幕府の命令を完全に無視して軍事行動を起こし、独自の勢力圏を築いた。中央から統制を嫌う武士達が義就の下に集まり、それが義就の軍事力を強めた。義就は戦国大名マインドを持った存在である(呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』中公新書、2016年、207頁)。 下剋上と言えば身分の低い人が行うものとのイメージがあるが、三管領という室町幕府最有力の守護大名の家から幕府の権威を完全に無視する戦国大名マインドが登場したことは興味深い。フランス革命も最初は貴族がイデオローグになった。 畠山氏は鎌倉幕府初期に冤罪の畠山重忠の乱で滅ぼされた畠山重忠の未亡人が足利一門と再婚して成立した家である。重忠は「謀反を企てようとしたとの噂があることは、逆に武人として名誉である」と言った人物である。足利一門の畠山氏は重忠の遺伝子を継承していないが、重忠の反骨精神は継承していた。 応仁の乱は勝敗が不明確な戦いと評される。実は政治的には西軍が降参することで終わった。しかし、山名氏や大内氏らの西軍諸将の講和後も義就は独自に戦い続けた。このために応仁の乱の勝敗が不明確になった。 応仁の乱は足軽が乱暴狼藉を繰り返して焼け野原になったというイメージがある。 「汝(なれ)や知る都は野辺の夕雲雀(ひばり)上がるを見ても落つる涙は」 飯尾彦六左衛門尉が応仁の乱で荒れ果てた都を嘆いて詠んだ歌である。 一方で応仁の乱が長期化した要因に防御技術の発達がある。東西両軍共に屋敷に堀や櫓を作り、要塞化した。これは構(かまえ)と呼ばれた。両軍共に容易に攻め落とすことができなくなり、戦乱が長期化した(呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』中公新書、2016年、109頁)。
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※このレビューにはネタバレを含みます
応仁の乱の直接的な引き金は、畠山氏の家督争いにある。畠山氏の弱体を図って当初は連携していた細川勝元と山名宗全だったが、細川方による山名方の弱体化を図るような動きに、様々な大名の利害関係が絡み、東軍と西軍が形成されていく。8代将軍の義政は、片方が優位にならないような策をとっていくが、両軍は互角で戦線は膠着していた。したがって西軍の朝倉氏を東軍に寝返らせ、最終的に東軍の勝利で乱は終わりを迎える。応仁の乱が残した大きなものとして、守護領国制の崩壊を筆者は挙げている。大名は次々と自国へ帰り、分国支配を保証するものはもはや幕府の権威ではなくなった。大名自身の実力がものを言う時代、つまり戦国時代へとつながっていくのである。
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