ホモ・サケル の商品レビュー
フランスのポスト構造主義の次は、イタリア現代思想ということで、現代思想業界ではこれを読んでなきゃ始まらない的な重要な本らしい。 フランス現代思想の訳のわからなさにだんだん慣れつつも、また新しい思想家の本を結構大変そうな気がして、これまで読んでなかったんだけど、アーレントの全体主...
フランスのポスト構造主義の次は、イタリア現代思想ということで、現代思想業界ではこれを読んでなきゃ始まらない的な重要な本らしい。 フランス現代思想の訳のわからなさにだんだん慣れつつも、また新しい思想家の本を結構大変そうな気がして、これまで読んでなかったんだけど、アーレントの全体主義論とか、フーコーの生政治とかに興味ある場合は、必読らしい。 というわけで読んでみたが、これはとても刺激的だった。 フランス現代思想にくらべると、論旨は明確で、説明は丁寧な感じがする。もちろん、細部の面倒臭い議論に入っていくと難しくなっていくところはあるのだが、全体の論旨は十分に理解できる気がする。 これは、まさにフーコーの生政治論を引き継ぎ、それを先に進めるとともに、アーレントの全体主義論を統合していく。そして、シュミットの政治哲学で全体の議論を構造化するみたいな話しだな。 具体的な事例、文書の読解にもとづくフーコーと比べると、ある意味、抽象的な概念性で切り込んでいく感じかな?そのあたりが、全体が見晴らしやすい理由の一つなのかもしれない。(もちろん、さまざまな事例は紹介されているので、単にロジックだけではないリアリティは伝わる) 原著は95年の出版ということで、まだ911とか、イラク戦争は起きていない。この時点で、そうしたことが理解するためのフレームを与えてくれているし、当然、ウクライナ戦争を考えるにあたっても、一つの視点を与えてくれる。 フーコーの生政治は基本「性の歴史」の「知への意志」をベースに議論されているようだが、95年時点では、まだコレージュドフランスの講義録は出ていなかったのかな? この辺りでは、生政治が死政治(全体主義)にひっくり返ることとか、新自由主義的な資本主義が、生政治とどう関連するか、みたいな議論をフーコーはしているので、そのあたりの議論がリンクされるとさらに面白くなるのに、と思ってしまった。 もちろん、アガンベンもその後の著作では、そのあたりも議論していると思われるので、もう少し読んでみることにしたい。
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ホモ・サケル。文字通りの意味は「聖なる人」だが、古代ローマ文献によれば、それは二重の意味で排除された人ということになる。まず、その者を殺しても罪に問われないという社会的法的な意味で排除されている。そして、その者を供犠によって殺してはならぬという宗教的意味でも排除されている。人間社...
ホモ・サケル。文字通りの意味は「聖なる人」だが、古代ローマ文献によれば、それは二重の意味で排除された人ということになる。まず、その者を殺しても罪に問われないという社会的法的な意味で排除されている。そして、その者を供犠によって殺してはならぬという宗教的意味でも排除されている。人間社会は法律および宗教によって規律が保たれたものであるから、そのいずれからも排除されるというのは、人として生きるな、と宣告されたも同然であり、端的に村八分、永久追放を突き付けられた状態といえる。人間として生きられない存在という意味で「聖なる」が冠せられるわけだ。 その起源は、古代ローマの父権の絶対性にある。父親は、自ら認知した息子をいかようにもでき、殺すことすら可能な絶対的権能がある。この折衝与奪権にこそホモ・サケルの元型がある。 この絶対的権利、折衝与奪権の前にむき出しにされた生が、近代において注目された。それが生権力である。 本書を読んでいるとき、入管で殺されたといっても過言ではない、ウィシュマさんの事件で世間は持ち切りだった。まさに、このウィシュマさんこそ、むき出しの生そのものであり、生身の人間をいかようにでも扱って構わない、という薄汚い意識丸出しの日本の旧内務省的権力層が抱える闇そのものである、と感じた次第だ。
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ギリシア人は、我々が生という語で了解しているものを表現するのに、単一の語をもっていたわけではない。彼らが用いていたのは二つの語で、その二つは共通の語源に帰することもできるが、意味の上からも形態の上からもはっきり区別されたものだった。ゾーエーとビオスである。ゾーエーは、生きているす...
ギリシア人は、我々が生という語で了解しているものを表現するのに、単一の語をもっていたわけではない。彼らが用いていたのは二つの語で、その二つは共通の語源に帰することもできるが、意味の上からも形態の上からもはっきり区別されたものだった。ゾーエーとビオスである。ゾーエーは、生きているすべての存在(動物であれ人間であれ神であれ)に共通の、生きている、という単なる事実を表現していた。それに対してビオスは、それぞれの個体や集団に特有の生きる形式、生き方を指していた。
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この本を買おうとしたとき、Amazon(jp)のユーザーレビューで「悪訳」との批判が多数寄せられていて、躊躇した。アガンベンの「主著」とのことで、重要そうな本なのだが、買った後も、何となく後回しにして読み始められなかった。 読み始めて確かに、翻訳は日本語として妙に意味のわかりにく...
この本を買おうとしたとき、Amazon(jp)のユーザーレビューで「悪訳」との批判が多数寄せられていて、躊躇した。アガンベンの「主著」とのことで、重要そうな本なのだが、買った後も、何となく後回しにして読み始められなかった。 読み始めて確かに、翻訳は日本語として妙に意味のわかりにくいところが多く、とりわけ第1部は、まるで厳格なドイツ語による厳格なドイツ哲学の訳書であるかのようにさえ感じられた。 ジョルジョ・アガンベンは数冊読んできたが、いつもその文章は明快で、エレガントでさえあり、美術評論家として出発したアガンベンはロラン・バルトふうの「美」をまとった文体を有する著作家だと思ってきたから、この翻訳はやはり、あまり良くないのかもしれない。 しかし、読み進めてゆくと、内容の面白さにどんどん引き込まれていった。 晩年のフーコーが突き進んだ「生政治」の主題を、アガンベンは引き継いだらしい。 「主権者は法的秩序の外にありながら、法的秩序に所属している」というカール・シュミットの逆説からアガンベンは思考を開始し、法秩序に組み込めない「例外」こそが、「主権」の構造を示していると指摘する。 このへんはにわかには了解できないパラドックスである。 さらに、人類学的で面白い第2部では、古代ローマ初期の法とおもわれる文献に、「聖なる人間(=ホモ・サケル)」という奇妙な語が記されており、これは聖なる存在であるとともによこしまであり、<この者を生け贄にすることは合法ではないが、この者を殺害することは殺人罪に問われない>という、不思議な位置づけがなされているのだ。 再び奇妙で、にわかには納得しかねるパラドックスである。 アガンベンはこのような「例外」を結局「両義性」としてくくり、主権秩序の「限界」を示しつつ、ホモ・サケルの「聖なる生=剥き出しの生」を、逆説的に主権秩序そのものと表裏をなす、と説明する。 そして、「剥き出しの生」を法秩序の限界の領域で処理した典型が、ナチス・ドイツの強制収容所だということになる。 制度の内部ではその生も死も活用しかねるが、いつでも法の管轄を超えて、その生を抹消しうる「人間」。それはたぶん、「市民」以前の「人間」なのだろう。 パラドックスを主題とした本書の主張は、そう簡単には了解できないが、生政治という視野によって政治をときほどくというこの思考は極めてスリリングで、面白い。 最も印象に残った一節には、こう書かれている。 「生そのものが先例のない暴力へと露出されている」こんにち(ヨーロッパの一度の週末に高速道路で生み出される犠牲者数は、一回の戦役で生み出される犠牲者数よりも多い)、 「ホモ・サケルという形であらかじめ規定することのできる形象が今日もはや存在しないのは、我々が皆、潜在的にはホモ・サケルであるからかもしれない。」(P161)
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※このレビューにはネタバレを含みます
フーコーの生政治、アーレントの全体主義の交差を系譜学的に理解する試み。古代ローマの特殊な囚人「ホモ・サケル」に注目する。一切が奪われた彼らを殺しても罪にならない。ただ生きているだけである(「剥き出し」状態)。 「剥き出しの生」とは「主権権力の外に位置する者」のこと。こうした生は現代に至るまで存在してきたとアガンベンは指摘。生政治とは、ギリシアでは人間の生存に配慮する政治のことであるが、ローマでは、ホモ・サケルを設定することで、政治空間を形成した。 「剥き出しの生」は強制収容所のユダヤ人や安楽死を想起すると分かりやすい。社会には法の領域の外にある人間が必ず存在し、その線引きは権力により行われる。人類は形をかえながらも「例外状態」(シュミット)を再生産し続けている。 やや難解な一冊ながら、最前線の「生政治」を考察する上では必読か。幸いに著作の邦訳は多いし、エファ・ゴイレン『アガンベン入門』(岩波書店)と併せて読むと良いかも知れない。久しぶりに「脳」が刺激を受けた一冊です。 クローチェ、グラシムから、エーコ、ネグリ、ペルニオーラ、そしてアガンベン。半島からの刺激が思索を新しく“撃つ”とでも言いますか。毎日新聞にアガンベンのインタビューがありますので、紹介しておきます、 http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20120325/p2
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現代思想はネットの時代にもう終わったと思っていた。デリダもフーコーもドゥルーズもサイードも死んだ今、何ができるだろう。けれど終わっていなかった。イタリアに残っていた。 ネグリの言葉は楽観的すぎて嫌いだった。単純というか未来に希望持ちすぎというか直情的というか、好みではなかった。...
現代思想はネットの時代にもう終わったと思っていた。デリダもフーコーもドゥルーズもサイードも死んだ今、何ができるだろう。けれど終わっていなかった。イタリアに残っていた。 ネグリの言葉は楽観的すぎて嫌いだった。単純というか未来に希望持ちすぎというか直情的というか、好みではなかった。ネグリと同じイタリアの現代思想家ジョルジュ・アガンベン。名前だけは知っていたけれど、いざ読んだら自分の趣向にぴったりとはまった。 アガンベンは、フーコー、ハイデガー、ベンヤミン、アーレント、デリダなどの思考の遺産をばらばらなままに放置するのを嫌い、先人の遺産をつなごうとしている。 例えば、生政治の問題について。フーコーは生政治、構成的権力の問題を論じたけれど、生政治のテーマを全体主義、アウシュヴィッツの強制収容所に適用しようとしなかった。アーレントは、全体主義を論じたけれど、フーコーの生政治の思想とアーレントの全体主義論はリンクしていない。また、アーレント自身でも、全体主義の批判的思考と、『人間の条件』や『革命について』で論じられた政治論は、結合していない。アガンベンは、これらばらばらのまま放置された先人の成果をつないで、新しい思考を紡ごうとする。結節点となるのは、アウシュヴィッツの強制収容所などで見られた<例外状態>の経験である。 フーコーは、近代になってから、政治権力が人間の身体、生を支配するようになったと考えているが、アガンベンは、フーコーやアーレントが理想化する古代ギリシア、ローマの時代から、政治は人間の身体を支配し続けていたとする。現代は、政治による生(バイオ)の支配が強くなったに過ぎないのだ。 古代ローマでホモ・サケルと呼ばれる存在がいた。ホモ・サケルとは、政治共同体の外部に存在する他者であり、聖なる存在でもあった。ホモ・サケルは、人間の法の外にあり、動物と変わらない。ホモ・サケルの生は、剥き出しの生身の体の生でしかなく、政治的に統治された生ではない。人間が、ホモ・サケルを殺害しても、罪を問われることはなかったという。政治権力は、法の外にある例外状態、ホモ・サケルを指定することで、逆に法の内にある政治共同体の結束を構築したと、アガンベンは分析する。 前近代において、政治の主権者は王だった。王は、自分自身聖なる存在として例外状態になりつつ、自分と同じく例外状態であるホモ・サケルを共同体の外部に作り出していれば、政治的に統御された生、臣民を統治できた。革命によって王が打倒された近代では、共同体の成員、国民全員が主権者となる。もう王も、ホモ・サケルもいない。すると、外部にあった剥き出しの生が、共同体の内部に入ってくる。法の外にあった動物的生と、法の内にあった政治的生が、近代では近接する。政治権力は、国民の体、国民の生を管理するようになる。 近代的国家の極限形態が、全体主義国家である。全体主義の政治では、生が政治となり、政治が生となる。総統の発言が、国民の総意になる。さらに全体主義国家は、自国民の外部に、剥き出しの生の管理場所を作ろうとする。それが強制収容所である。強制収容所では、法を度外視して、殺戮が行われる。強制収容所は例外状態なのだから、どんな殺人も肯定される。近代民主主義国家に暮らす人は、強制収容所で行われた生の扱いを見て、何故あんなひどいことが起きたのかと嘆くが、アガンベンは、近代民主主義に内在する原理に、強制収容所、例外状態が含まれていることを指摘する。 例えばアメリカでは、死刑囚に対して生命の危険がともなう新薬実験が行われる。実験は、死刑囚同意のもとに行われているというが、何故命の危険を伴う新薬実験の参加が、死刑囚に提案されるのだろう。死刑囚は、生の例外状態にあるから、死ぬ可能性のある新薬実験参加も妥当と判断されるのだ。民主主義の象徴のような国、アメリカが運営するグアンタナモ強制収容所でも、例外状態は見られた。 アガンベンは、「何故これほど残虐なことが行われたのか」と問うことに価値を見出さない。「何をされようと犯罪と扱われないほど、極端なまでに権利を奪われる状態は、どのような法的手続きによって可能になったのか」これこそ現代的な問いであるという。現代哲学必読書の1つ。
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近代民主主義に至るまでの流れや矛盾点を子細に深くある程度のわかりやすさを持って書かれている。 ノートに書き写しすぎて手が痛くなった。 ちょっと本筋からずれるけど自分的に大きかった収穫は、お気に入りの作家の短編の母型となったであろう部分を発見したこと。 エミール・デュルケーム...
近代民主主義に至るまでの流れや矛盾点を子細に深くある程度のわかりやすさを持って書かれている。 ノートに書き写しすぎて手が痛くなった。 ちょっと本筋からずれるけど自分的に大きかった収穫は、お気に入りの作家の短編の母型となったであろう部分を発見したこと。 エミール・デュルケームの「宗教生活の原初形態」からの抜粋がそれ。 締め出し(例外化)と主権権力の関係(包含)によって様々な問題や歴史や主義を解き明かしている良書。
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難しいが、示唆的である。が、やっぱり難しい。 「主権」っていったい何なのか。主権在民というと、なんだか無前提にいいもののように考えるけれど、、、 なんてことを、いろいろと考えさせられた。
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