skmt 坂本龍一とは誰か の商品レビュー
坂本龍一の言葉は高尚過ぎて、理解できないことが多かった、会話する事があるならば、交わることはないんだろう、次元が違う別の階層にいる人 この本で良かったのは、フランク•ザッパを知った事、ドビュッシーを聴こうと思った事、自然の1番の敵は人間だという事 坂本龍一の音楽は哲学でできている...
坂本龍一の言葉は高尚過ぎて、理解できないことが多かった、会話する事があるならば、交わることはないんだろう、次元が違う別の階層にいる人 この本で良かったのは、フランク•ザッパを知った事、ドビュッシーを聴こうと思った事、自然の1番の敵は人間だという事 坂本龍一の音楽は哲学でできている 坂本龍一はいつも憂いている 彼の透明感のある音は素敵だという事
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「どんな音楽をやっていきたいのか。そういうのはない。誰かのためにという目的を持った音楽はわりと簡単で、僕にとって面白くない。だから、何のためにという目的なんかどこを探してもないような、僕という人間がそれをつくりたいから、という原因しか生まれてこないような音楽をやることを考えていま...
「どんな音楽をやっていきたいのか。そういうのはない。誰かのためにという目的を持った音楽はわりと簡単で、僕にとって面白くない。だから、何のためにという目的なんかどこを探してもないような、僕という人間がそれをつくりたいから、という原因しか生まれてこないような音楽をやることを考えています」(p.73、「どんな音楽を?」より引用) あまりに遠い。遠いがゆえに、心惹かれ、そちらへと足が向いてしまう。 坂本龍一、遠いのはなにもあなたが鬼籍に入ったからではない。 むろん、ぼくが今後いかなる活動を為そうとも、あなたと協同することはおろか、目に触れることさえ叶わない、此岸と彼岸のはるかな距離に隔てられたことは悲しい。 だがそういう遠さは、差し当たって、そこまでの重大事ではない。 本書『skmt』を読んで真っ先に連想するのは、トルストイの『イワンのばか』だ。 坂本とイワン、両者に共通するものをあえて一言で述べようとするなら、誠実さか。他ならない、じぶんの格率にたいする誠実。結果としてみずからの存立が危ぶまれたり、あとで顧みて行動の軌跡が一定に定まっていなかったりすることを彼らはちっとも恐れない。過激だ。その生き様を「ばか」と一笑に付すか、あるいは、既存の枠組みに安住することを潔しとせず、痛みや不可解を恐れずに突き破っていこうとする、森岡正博のいう「生命の欲望」に真摯な者と見做し、その背を追うのか。背——理念はあまりに遠い。 「うん、僕、ニーチェとかよく知らないけど、近いのかなあ、問題としては。人類に救いはないけれど、理念は指し示さなきゃならないっていうような元気さがあるでしょ。非常に深く絶望してるんだけど、それだけじゃどうしようもないっていうか。なんか別の元気さがあるような気がするんだけどね」(pp.179-180、「未来/希望」より引用) あなたが生き切って示した理念のほうへ、たとえそれが不在と知りつつも。 岩波少年文庫についての愛着を語った『本へのとびら』で、『イワンのばか』を、50冊の推薦図書のひとつとして挙げた宮崎駿は、こう語っている。 「人はどのように生きるべきなのでしょう。子供のころ、この本を読んでぼくはとても心をうたれました。ばかのイワンのように生きられたらどんなにいいか。でも、それはとてもむずかしい。自分にはできそうにありません。そう思うのに、ぼくは今でもばかのイワンのように生きられたらと、時々思います」(宮崎駿『本へのとびら』、2011、p.18) あえて口にするのも阿呆らしく烏滸がましいことだが、ぼくは坂本龍一になれない。 そう思うのに、きょうも鏡に向かって神妙に髪をセンターパートに分け(長さがまったく足りず現状はニコラ・テスラである)、彼に関する本を紐解き、キーボードやストリートピアノで「aqua」演奏に取り組みつづけながら、思慕することをやめられないでいる。
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「坂本龍一というものは、坂本龍一自身も所有していない、分裂し、矛盾に満ちながら運動し続ける総体である。だからこそ、ばらばらに断片化し、それぞれが次の『種』となるように、つまり散種として記述するスタイルをとった」 聞き手を務めた編集者の後藤繁雄がこう書いているように、本書は199...
「坂本龍一というものは、坂本龍一自身も所有していない、分裂し、矛盾に満ちながら運動し続ける総体である。だからこそ、ばらばらに断片化し、それぞれが次の『種』となるように、つまり散種として記述するスタイルをとった」 聞き手を務めた編集者の後藤繁雄がこう書いているように、本書は1996年から2006年を生きた坂本龍一の「アモルファス」な状態の思考の断片を蒐集し、流動するままに本という物体に仕立て上げたような不思議な質感の書籍であり、読書体験だった。 無数の断片的な思考は固着されていないがゆえに、アメーバのように時間と空間を超えてつながりあい、なんらかの新しい意味を形成している。それを予見と呼ぶこともできるし、真理とも呼ぶこともできるだろうが、宙ぶらりんで掴みどころのない本でもあるなと思う。そこに生の坂本龍一を感じられたような気もしておもしろかった。
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1999年と2006年に出版された「skmt」「skmt2」の合本文庫版で初版は2015年。 編集者がひたすら観察し考察した坂本龍一像を、教授との会話や日記引用で記録のように綴られる。 ヒストリーやインタビューを単純に綴ったものとは異なり、2人の思考のやり取り、教授の脳内回路、...
1999年と2006年に出版された「skmt」「skmt2」の合本文庫版で初版は2015年。 編集者がひたすら観察し考察した坂本龍一像を、教授との会話や日記引用で記録のように綴られる。 ヒストリーやインタビューを単純に綴ったものとは異なり、2人の思考のやり取り、教授の脳内回路、ルーツ、発想の生まれる瞬間が、垣間見ることが出来る。 非常にシンプルながらクリエイティヴィティに富んでいて、個人的には教授の関連著書の中でも「音楽を自由にする」(坂本龍一/新潮社/2009)年)の次に並ぶくらいに好きな本となった。
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坂本龍一は常に動き続ける。物理的に様々な土地を旅するミュージシャンでもあるし、彼の中で多彩なアイデアが湧き出るままに一貫性を守ることを犠牲にしてでも自分を変え続ける。自分自身に忠実に、自分の一貫性を守ろうとする姿勢とそうしたコロコロとアイデンティティを変えて冒険し続ける姿勢が堂々...
坂本龍一は常に動き続ける。物理的に様々な土地を旅するミュージシャンでもあるし、彼の中で多彩なアイデアが湧き出るままに一貫性を守ることを犠牲にしてでも自分を変え続ける。自分自身に忠実に、自分の一貫性を守ろうとする姿勢とそうしたコロコロとアイデンティティを変えて冒険し続ける姿勢が堂々と共存しているところが彼のパーソナリティの面白さであるだろう。あるいは、彼は(古臭い言葉ではあるが)未だに「スキゾ・キッド」なのかもしれない。私自身、自分の鈍重さに悩んでいた時に読んだからか、彼の自分に正直過ぎる姿勢を眩しく思った
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1996年から2006年の間、編集者の後藤繁雄が行った坂本龍一へのインタビューをまとめた一冊。インタビューの後半は今はなきNTT出版の思想誌「Intercommunication」で連載されており、学生時代に定期的に購読していた自身として、懐かしさを感じる部分も多々あった。 雑...
1996年から2006年の間、編集者の後藤繁雄が行った坂本龍一へのインタビューをまとめた一冊。インタビューの後半は今はなきNTT出版の思想誌「Intercommunication」で連載されており、学生時代に定期的に購読していた自身として、懐かしさを感じる部分も多々あった。 雑誌購読のときから印象に残っており、改めて再読しても同じ感覚を持ったのが、坂本龍一の提唱する「エコ&エロ」である。環境問題を考えようとしても、サヨク的なつまらないアプローチでは社会は動かない。特に自民党のエロ爺どもは。つまり、エコで社会を動かそうと思ったらエロが必要、という指摘は、15年経った今でも通用するのではないか。もちろんそれは「環境問題をセクシー」に、という小泉某のアプローチとは別である(彼は恐らくAVを見たことがないピュアピュアボーイなのだと思う、早いうちにAVを視聴されることを祈る)。
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