1★9★3★7 の商品レビュー
著者の言いたいことは,日本は敗戦したが,戦争責任は曖昧のままで南京大虐殺で犯した軍国主義的な体質は今も根底に脈々と流れている.その矛先は戦後70年を経た安倍政権にも向けられる.勢いはあるが文章はくだくだとしていて読みにくいところが多い.酒を飲みながら書いてる感じ.
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南京での虐殺の詳細も分からないままにしている日本のあり方,あるいは開戦責任を全く鑑みない,敗戦責任のみ思い天皇に詫びる国民性,辺見庸は過去に学ばない今を生きる人々に,血を流しながら叫んでいるようだ.10万人あるいは30万人という数字の問題ではない,一人一人と殺したことが問題なのだ...
南京での虐殺の詳細も分からないままにしている日本のあり方,あるいは開戦責任を全く鑑みない,敗戦責任のみ思い天皇に詫びる国民性,辺見庸は過去に学ばない今を生きる人々に,血を流しながら叫んでいるようだ.10万人あるいは30万人という数字の問題ではない,一人一人と殺したことが問題なのだ.ということがとても深く心に刺さった.
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所謂、南京大虐殺といわれる、日中戦争中に起きたこと。 それは、おそらく中国のいう何十万人もの人が殺害されたということではないだろうが、少なくとも多くの人が殺戮されたという事は事実であろう。 しかし、その場に居合わせた多くの普通の日本兵は、その事実を話すことはほとんどなかった。...
所謂、南京大虐殺といわれる、日中戦争中に起きたこと。 それは、おそらく中国のいう何十万人もの人が殺害されたということではないだろうが、少なくとも多くの人が殺戮されたという事は事実であろう。 しかし、その場に居合わせた多くの普通の日本兵は、その事実を話すことはほとんどなかった。 中国大陸で、日本軍が為してきた行為について、語ることはほとんどなかった。 1937年 南京大虐殺があったとされる年。 作者は、その時、自身がその場所にいたわけではない。作者の父親の記憶、そして、その場の記憶を持つ堀田善衛の「時間」を通して、その場の歴史を掘り起こす作業を行った。
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日本人が話題にしたくない、無関心を装い、記憶にないことにしているタブーに正面切って挑戦した作品という印象を持ちました。俎上に載せたのは昭和天皇、石川達三、小津安二郎、阿川弘之、小林秀雄、丸山眞雄、埴谷雄高たち。実父がまず間違いなく南京大虐殺に関わったことを問い続けるなかで、先の彼らの行ってきたことや言説や作品は徹底的に非難されています。だが、それだけではなく、作者自身へもその批判の眼は向けられています。そして我々日本人へも。同じ実父を問うのでも、小熊英二著『生きて帰ってきた男』とは、まるっきり違います。
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初読。図書館。久しぶりに辺見庸を読んだ。(10数年ぶりか?)図書館にリクエストして借りたが、これは買って手元に置いておかねば。病気になって死期を意識したのだろうか、こんな時代になってしまったからこそ、今これだけは言っておかねば、という辺見さんの静かな叫びが行間からあふれでている。誰かを断罪するだけでなく、同時に自分を断罪する作業は痛みを伴って迫ってくる。帯の「戦後思想史上、最大の問題作!」の言葉は単なる煽りの宣伝文句ではない。やはり辺見庸を読み続けなければと、本棚を掘り返した。
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辺見庸さんの書物は詩と幾つかの小説以外は全て読んでいるが、もの食う人々を超える代表作がようやく産まれたと、長年のファンとしては凄く嬉しいし、感慨深いし、しかも下手したら今後仕事が出来なくなるかもしれない危険なテーマでそれを成し遂げられたことに、同時代者として畏敬の念を抱いた。 だ...
辺見庸さんの書物は詩と幾つかの小説以外は全て読んでいるが、もの食う人々を超える代表作がようやく産まれたと、長年のファンとしては凄く嬉しいし、感慨深いし、しかも下手したら今後仕事が出来なくなるかもしれない危険なテーマでそれを成し遂げられたことに、同時代者として畏敬の念を抱いた。 だからこそ、今回は単なるレビューではなく、さらなる代表作を祈願し、次回作についての期待を述べたい。 私は辺見庸さんが学生運動をされていた頃の個人史をー学生運動史ではなく、辺見庸さん固有の、ただ一人の個人運動史ー是非次の作品として読みたい。 なぜ読みたいか? それは辺見庸さんが、現在の自分を含めた若い人たちの反安保法案の戦いをぶった切る言葉の数々を、かなり力を入れて放たれている現状への同時代者としての違和感と、その違和感をなんとか埋めたいという思いがあるからである。 違和感の理由は、自分の側にも責任はあるのだろうが、それらの批判の言葉を裏付けるべき、辺見庸さん自身が過去の体験から学ばれた記憶や記憶に基づく言葉が、辺見庸さん自身の口からいっかな漏れ伝わってこないことに第一にある。少なくも私にとってはそれが故に彼が差し向けてくる批判の言葉が、どうにも突き刺さって来ないのだから。 せっかくなのでぶちまける。 同時代者なのに、お前は誰の立場で批判してんねん。お前はお前じゃないのか。お前の批判は高みから過ぎるわ、ボケ!! と胸ぐらを掴みたくなることしばし。(福祉の仕事についてる私としては老人に優しくせざるを得ないが、辞めたら殴り飛ばすかもしれません) いや、徴しはあったのだ。実際読んだし。哀しいかな。書物ではなくネットで。 今更言うまでもなく現代という時代は薄ら寒いほどなんでもググれば外形だけは分かってしまうのだが、彼が書いてはいつの間にか消してしまうブログの身辺録の中にそれらを示す痕跡のような物をググった事が幾度か、私にはある。 その中のある個人名をググった時に辺見庸さんが学生運動をされていた頃の友人が内ゲバなのか権力に殺されたのか、とにもかくにも酷い死に方をされた事実を知った。 辛かった。何が辛いって、そんな事実をググるなどという非人間的な営みを通じて知った事が苦しかった。自分の軽さと現在の軽さにいたたまれなくなった。 それから幾日も経ずして実父を喪ったのだが、 今回この書物を読んで、全共闘世代であった父に、恐らくは学生運動などしなかったはずの父に、なぜ自分は、多くの同世代の人間が殺したり殺されたりする中、あなたは生き延びたのか、 死んでいった者たちをどう眺めていたのか、 傷みを覚えることはあったのか、あったとして、その傷みはどうやったら治癒するのか、そこに自分がかかわるよすがはあるのか。 聞きたかった。聞くべきだった。 そして聞いてほしかった。 お前は、反安保法案の戦いの中でもしも仲間が殺されたり、殺したり、自身がそうなるような状況に陥った時、どうするのか? そしてこう答えたかった。 そのような問いをするのもされるのも、これを最後にするために、一緒に考えたいのです、と。 幸いにまだ辺見庸さんは生きている。 辺見庸さん、生き延びる術をください。 僕は僕自身の手でそれを獲得出来んのです。 甘えかもしれんが、どうかお願いします。 例えネットであろうとも消さんでください。 服部多々夫とは誰なのか? なぜ、若くして死なねばならなかったのか? その方が亡くなられた時、あなたは何処で何をされていたのか? その死を私は傷み、悼むことは出来るのか? その死を無駄にせず、共に生きる道を、共に生きる資格が私にはあるのか?
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もう長いこと辺見庸さんを愛読しています。 理由は、突き詰めていえば、「単独者」だから。 情勢がどう変わろうと自分を曲げない、転向などもってのほかです。 3つの例を挙げます。 辺見さんはこれまで日中戦争における日本軍の戦争犯罪を繰り返し繰り返し厳しく告発してきました。 こう書くと頑...
もう長いこと辺見庸さんを愛読しています。 理由は、突き詰めていえば、「単独者」だから。 情勢がどう変わろうと自分を曲げない、転向などもってのほかです。 3つの例を挙げます。 辺見さんはこれまで日中戦争における日本軍の戦争犯罪を繰り返し繰り返し厳しく告発してきました。 こう書くと頑迷なイデオロギー主義者は「左翼」ないしは「サヨク」のレッテルを張るのではないでしょうか。 しかし、辺見さんは共同通信の北京特派員時代、もし、仮に辺見さんが「左翼」ないしは「サヨク」なら、是が非でも擁護したい中国共産党に不利な報道をして国外退去処分となった過去があります。 さらに、最近では、安保反対運動で注目を集めた学生団体「SEALDs」に対しても激烈な批判を展開しました。 「やるべきときには何もせずに、今ごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせて担いではしゃぎまくるジジババども、この期におよんで『勝った』だと!?」 「国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもとてもよろこんでおられるぞ」 ―などと、まったく容赦ありません。 決してなびかない、ですから私は辺見さんにほとんど全幅の信頼を寄せているのです。 頑なということではありません。 むしろ、いつも揺れているという印象が辺見さんにはあります。 ただ、常に眼差しが全体よりは個に向いています。 そういう意味では頑なといえるのかもしれません。 というわけで前置きが長くなりました。 本書は「南京大虐殺」について、堀田善衛の小説「時間」、さらには南京で従軍の経験がある父の記憶を足掛かりに日本の悪逆非道ぶりを暴きます。 「南京大虐殺」についてはご存じの通り、その存否自体が論争となっており、私自身はさまざまな資料から中国共産党が主張する「犠牲者30万人説」は言うに及ばず、日本軍による組織的な虐殺はなかったと推察していますが、それでも「民間人の殺害は全くなかった」という主張には無理があるという立場です。 掠奪や強姦もあったでしょう。 それを「戦争なんだから仕方ない」とするか、「戦争であっても看過できない」とするかで、本書の読み方は全く異なるものになってきます。 私は後者です。 日本の戦争犯罪を告発する類書はそれこそゴマンとありますが、本書が特異なのは、辺見さん自身が「南京大虐殺」のあった1937年(本書のタイトルもここから取られています)に立ち、「おまえならどのように振る舞ったのか」と執拗に問うている点です。 著者として客観的に「南京大虐殺」を眺めるのではなく、皇軍の一人として「南京大虐殺」に関与するのです。 これは想像するだに痛苦を伴う作業になるはずで、その痛みは読者である私にも伝わってきます。 戦後70年にふさわしい、唯一無二の作品と云えると思います。
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