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コーランには本当は何が書かれていたか? の商品レビュー

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23件のお客様レビュー

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2015/11/23

日本経済新聞社 小サイズに変更 中サイズに変更 大サイズに変更 印刷 コーランには本当は何が書かれていたか? カーラ・パワー著 専門家に学ぶイスラムの奥深さ 2015/11/22付日本経済新聞 朝刊  本書はアメリカ人ジャーナリストとインド人ウラマー(イス...

日本経済新聞社 小サイズに変更 中サイズに変更 大サイズに変更 印刷 コーランには本当は何が書かれていたか? カーラ・パワー著 専門家に学ぶイスラムの奥深さ 2015/11/22付日本経済新聞 朝刊  本書はアメリカ人ジャーナリストとインド人ウラマー(イスラム諸学の専門家)が、イギリスのオックスフォードで交わした友情の賜物(たまもの)である。著者のカーラは子供時代に中東や南アジアの各地に滞在し、イスラムの世界に触れた経験を持つ。ただ大学教授である両親は、それぞれに名ばかりのクエーカーとユダヤ教徒であり、彼女自身の家庭環境はどう見ても宗教的とは言えない。  対話の相手であるモハンマド・アクラム・ナドウィーは著名なウラマーで、その最大の業績は初期イスラムの9千人にのぼる女性学者の活動を掘り起こし、それまで男性が支配するものと思われてきたイスラムについて見直しを迫ったことである。彼は女性の差別を否定するが、「リベラル」な立場からではなく、コーランを読み込むことによってそうする。フェミニズムに傾倒するカーラが、イスラムの指南役にアクラムを選んだことには相当の理由がある。  アクラムにとって、イスラムの神髄は何よりもタクワー(神への畏怖)であり、それは党派性と読みかえられるようなアイデンティティに関わるものではない。イスラムの規範と思われがちなベールの着用も利子の忌避も、彼にとって本質的な問題ではないのである。自らの党派的な主張に合うよう、コーランの一部を都合よく抜き出すのは彼がもっとも強く糾弾する真似(まね)だ。  アクラムが望むのは、カーラがイスラムについて先入見にとらわれず自分で考えられるようになることであり、結論を与えることではない。そのため自分の見解にカーラが納得できない場合は、ほかの学者の見解にもあたるよう勧めている。彼自身、高い評価を受けたウラマーでありながら、他人の意見に耳を傾けることを忘れない。大学での講義のなかで女子学生から指摘を受けた際、熟考を重ねたうえで、自身の見解を撤回、修正することさえ躊躇(ちゅうちょ)しないのだ。イスラムは多様な姿を見せるが、カーラがアクラムを通して見たイスラムは、そのもっとも魅力的な姿と言えるかもしれない。  『たとえ海がインクであっても』という原題は、「たとえ海がわが主の御言葉のためのインクであるとしても、わが主の御言葉が尽きる前に海は尽きたであろう」というコーランの一節による。「黒か白か」といった単純な立場は撥(は)ね除(の)けられ、汲(く)めども尽きないコーランの奥深さが二人の対話のなかで明かされるのである。邦題が生む甘い期待は、いい意味で裏切られる。 原題=IF THE OCEANS WERE INK (秋山淑子訳、文芸春秋・1900円) ▼著者は66年生まれの米国人ジャーナリスト。現在はロンドン在住。 《評》東京外国語大学教授 八木 久美子 このページを閉じる NIKKEI Copyright © 2015 Nikkei Inc. All rights reserved. 本サービスに関する知的財産権その他一切の権利は、日本経済新聞社またはその情報提供者に帰属します。また、本サービスに掲載の記事・写真等の無断複製・転載を禁じます。

Posted byブクログ

2015/11/23

イスラム教をひいき目に記載しているが、あまりにも実態が知られていないので知識として得ておくために良い内容。

Posted byブクログ

2015/12/01

ムスリムの思考とその根源であろうコーランの内容を知りたいと思い、購入。 米国人でジャーナリストでフェミニストで多元主義者である女性(著者)と、保守的でコーラン原理主義的なイスラム教の学者であるアクラム師との対話(ソクラテス・メソッド的なコーランの講読)の記録。 巻末に簡単な用語...

ムスリムの思考とその根源であろうコーランの内容を知りたいと思い、購入。 米国人でジャーナリストでフェミニストで多元主義者である女性(著者)と、保守的でコーラン原理主義的なイスラム教の学者であるアクラム師との対話(ソクラテス・メソッド的なコーランの講読)の記録。 巻末に簡単な用語集があり,役に立つ。 アクラム師は,コーランと預言者ムハンマドの言行(ハディース)に忠実であるという意味で,極めて保守的で原理主義的。 しかし,その原理主義の内容は,コーランやハディースの解釈に際しては,常に,前後の文脈,イスラム教の歴史(とイスラムの教えと単なる地域的な慣習との峻別)を十分に考慮するというもの。 よって,いわゆる「原理主義者」とは全く異なる結論を採ることがほとんど。 著者は、フェミニズムとコスモポリタニズムの立場からイスラム教を捉えようと努力し、その多くは成功して、その一部は恣意的な美化であったと自覚して失敗する。 成功の例は、現代のムスリム(の男性)が主張し実践する女性の自由の抑圧は、実はイスラム教の教義が根拠ではなく、各地の文化・慣習が根拠であるに過ぎないことの多くを確認したこと。 ニカーブの着用義務(強制)や、女性の礼拝を拒絶するモスクの態度がその一例。 失敗の例は、当初、少女との婚姻を認める文化を根本的かつ全面的に否定することができなかったこと(しかし、その後、アクラム師が見解を改めるに至る。)や、同性愛を全面的に否定されたこと,そして,イスラム教徒でなければ救われないと言明されたこと。 アクラム師の態度・教説,神に対して「のみ」服従するというムスリムの基本に基づいている。 それ故,アクラム師は,旧約聖書に(そしてコーランにも)登場するイブラーヒーム(アブラハム)の神に対する真摯な態度を賞賛する。 また,アクラム師は,イスラムの教えが悪なのではなく,それを悪用する人間が悪なのだと繰り返し説く。 ムスリムは神を畏れ,他人への思いやりと正義を重んじなければならない。 そうした態度が保たれていれば,女性を保護するイスラムのシステムが,女性の自由を剥奪することはないと考える。 例えば,家庭における財産管理者を男性に限定するイスラムの考えは,それ自体が問題なのではなく,その男性が権限を濫用することが問題なのだ,女性ではなく男性を管理者に指定したことは神の深慮であって理由は不明である,と説明する。 上述した二カーブ(すなわち,女性)やアブラハムに関する(すなわち,ユダヤ教及びキリスト教に関する)イスラム教的な見方のほか,コーランの立場から見たナザレのイエス(イエス・キリスト),ジハードとそれを行うための条件,多様性に対する考え方など,現在,イスラム教に関して問題とされている事柄を網羅した内容になっている。 著者は、アクラム師との対話によって自身の思想の多様性・多元性が拡充されたことを喜び、また、イスラム教(ことにコーラン)には多様性を許容する包容力があることを確認できたことを喜ぶ。 「人々よ、われらはおまえたちを男性と女性から創り、おまえたちを種族や部族となした。おまえたちが互いに知り合うためである。」(コーラン第49章13節) 最後に、宗教と哲学について。 アクラム師は,西洋化・近代化の名の下に宗教から宗教的な部分を抜き去って思想・哲学にしてしまう傾向にたいして強い拒絶を示す。 同様に,宗教が慣習に堕し,精神性を欠く至ったことも強く批判している。 このことは、「仏教哲学」という言葉が氾濫している仏教において,より大きな問題とされるべきだと思う。

Posted byブクログ