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ある夢想者の肖像 の商品レビュー

2.8

6件のお客様レビュー

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2020/07/30

エドウィン・マルハウスのほうが好きかなあ。敢えての冗長な文体の効果は分かるのだけど、じっさい読みづらい。 物語としては、ミルハウザーらしさが第二長編にしてすでに満開で、気持ち悪くて素晴らしい。今回は主人公が突き抜けきらないパターンで、凡庸な成人になってから書いた自伝の体裁をとって...

エドウィン・マルハウスのほうが好きかなあ。敢えての冗長な文体の効果は分かるのだけど、じっさい読みづらい。 物語としては、ミルハウザーらしさが第二長編にしてすでに満開で、気持ち悪くて素晴らしい。今回は主人公が突き抜けきらないパターンで、凡庸な成人になってから書いた自伝の体裁をとっている。それぞれ振り切ってる友達3人と次々に仲良くなるのだが、のめり込むわりにピッタリと嵌れない関係を繰り返す。世界に浸り切りたいのに自意識が邪魔をする感じは、よく書けている。

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2020/01/16

アメリカの郊外に住んでるだろう、男子の子供の頃から高校生までの話。よくあるテーマ。そしてごく普通に愛情溢れる両親と暮らす一人っ子。なんら難しくない読書である。しかしとてもしんどく感じる。敢えて作者は主人公に足あせをし、世界を拡げないようにさせているように感じる。壮大なサデズム。体...

アメリカの郊外に住んでるだろう、男子の子供の頃から高校生までの話。よくあるテーマ。そしてごく普通に愛情溢れる両親と暮らす一人っ子。なんら難しくない読書である。しかしとてもしんどく感じる。敢えて作者は主人公に足あせをし、世界を拡げないようにさせているように感じる。壮大なサデズム。体が大きくなるにつれ、避けて通れない性や、親戚や、ご近所の記述がゼロ。もうこれは現代を装った仮死世界であり、ただ主人公は瑞々しい感性を腐敗させ、それを悲観させ、暴力にも向かわせない。自分には極めて恐ろしい、ホラーの世界と感じた。

Posted byブクログ

2016/01/28

1/26 読了。 退屈を持て余したアーサー・グラムの青春時代には、三人の<分身>がいた。ゲームのルールに厳格なまでに忠実で、カメラを愛好し、夜中に街を徘徊するウィリアム。学校教育を見下し、ポーに耽溺していて、スティーヴンソンの『自殺クラブ』を二人で実行しようと持ちかけるフィリップ...

1/26 読了。 退屈を持て余したアーサー・グラムの青春時代には、三人の<分身>がいた。ゲームのルールに厳格なまでに忠実で、カメラを愛好し、夜中に街を徘徊するウィリアム。学校教育を見下し、ポーに耽溺していて、スティーヴンソンの『自殺クラブ』を二人で実行しようと持ちかけるフィリップ。病弱なため長期で学校を休み、人形だらけの部屋に体を横たえて、ロミオとジュリエットのように毒を飲んで一緒に死のうと誘うエリナー。退屈の延長上にある死に幾度と接近しながら、時間を浪費していたアーサーの微睡みの日々。 ミルハウザーの第二作目にあたる長編で、完全に処女作『エドウィン・マルハウス』と対になる物語。ジェフリーがエドウィンを自分の作品と見なして伝記のためにエドウィンを殺したのに対して、アーサーはウィリアム、フィリップ、エリナーと対存在を乗り換えるにつれ、「完璧な自分の分身(半身)なんていない」ということに気づく。しかし、気づくと同時にウィリアム(ポー信者のフィリップによって「ウィリアム・ウィルソン」と揶揄された)が、恐らく自分が何度も死から逃げたアーサーとは違う人間なんだと証明したいと願って、アーサーの目の前で銃口をこめかみにあてる。あるいは、ウィリアムこそ本当にアーサーと自殺クラブをやりきるつもりだったのか? ともかくアーサーは二九まで生き延びてこの自伝を書いている。『エドウィン〜』は元々二五歳くらいの男の人生を書くつもりだったのを、書いているうち幼少期の話に絞ることになったのだというから、ここからもこの二作が二つで一つの関係であるのがわかるだろう(とはいえ、今作もミドルスクールからハイスクールまでのエピソードしか書かれていない)。銃を所持するアウトローとしてのフィリップとアーノルド、クラスから弾き出された女の子としてのエリナーとローズがそれぞれ対応しているとすれば、カメラが趣味のウィリアムはジェフリーだろう(コントロールフリークの気があるのも似ている)。とすれば、本書は"ただの人"となったエドウィン=アーサーの<自伝>なのかもしれない。 アーサーの文体は他のミルハウザー作品から見ても独特で、とにかく繰り返しが多い。センテンスどころかパラグラフ丸ごと繰り返される箇所もちょいちょい。リフレインの多用によって退屈は増幅し、循環する。退屈しながら何もできない、どこにも行けない、という怠惰で重苦しい感覚を醸し出すのに効果を上げている。フィリップとエリナーのベッタベタに"中二病"な設定を、皮肉にならずに静かなトーンで描写するのもミルハウザーの妙技であろう。 フィリップとウィリアムとアーサーの微妙な三角関係の緊張感がとても好き。ウィリアムと一緒に「トムとハック」になり切ったと思ったら、フィリップの血が混ざったワインを飲んで義兄弟の誓いを交わしちゃうアーサー…。特に死んだフィリップを夢で見るシーンがえろい。「そこに、高い雑草に埋もれるようにして、ぐっすり眠った、ひどく青白い、こめかみに小さな赤い穴が開いたフィリップ・スクールクラフトが横たわっていた。白い小球がいくつも浮かんでいるように見えるその湿った赤い穴を吟味しようと僕はかがみ込んだが、穴に指を差し入れたとたん、ずきずき脈打つ頭痛とともに目が覚めた」アーサーのテンションはぐんぐん上がり、それは遂に薄暗い部屋でフィリップが本をくり抜いた箱の中に隠した銃を取り出した瞬間に頂点に達し、フィリップの死がすぐそこに迫ったことを思って深い愛情が迸るんだけど、その銃を渡されて「君が先」と言われた途端、急速にしぼんでいく。フィリップとアーサーは基本的な信頼関係を築けていないので、互いに相手が先に引き金を引くべきだと思っているし、アーサーを裏切り者呼ばわりしたウィリアムは、アーサーを信じていないからこそ自分でさっさと終わらせたのだろう。可哀想なアーサー。わざわざ冒頭に思わせぶりな二九なんて歳を書いたということは、もしかしてアーサーは三十で死ぬのかなぁ。っていうか二九までどんなふうに生きてきたのかなぁ。 エリナーがポーの代わりに薦める「エドワード・オーウェン・ホワイトロー」はググっても出てこないけど、余程マニアックな作家かそれそも創作か。ここだけ詳細なあらすじ説明があるのできっと創作の架空作家なのだろうけど、だとすればエリナーにポーに憧れていた時期があって、その頃偽名で書いた小説だとかいう仮説が成り立つかもしれず、ちょっと面白い。

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2015/12/23

新刊といっても、1977年の作品であった。 疲れるほど退屈な思春期を過ごす少年少女たち。 多少の刺激的な出来事も起こるが、日々は淡々と流れ、季節は移り変わる。彼らの憤怒、絶望、焦り、気まぐれ、妄想、死への憧れ、嫉妬などがダークに描かれ、鬱屈した思春期をあぶり出す。 繰り返しの文...

新刊といっても、1977年の作品であった。 疲れるほど退屈な思春期を過ごす少年少女たち。 多少の刺激的な出来事も起こるが、日々は淡々と流れ、季節は移り変わる。彼らの憤怒、絶望、焦り、気まぐれ、妄想、死への憧れ、嫉妬などがダークに描かれ、鬱屈した思春期をあぶり出す。 繰り返しの文書が多用され、それらが少しずつ狂気をはらみ、落ち着かない気分にさせられる。 のちの作品のモチーフもところどころに描かれていて、興味深い。夜の徘徊が幻想的で好きなテーマ。 洗練度はのちの作品の方が上だが、この作品も悪くない。てゆうか、やっぱりミルハウザー好きだと思った。

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2015/11/26

ひとりの夢想者(つまりボンクラ)の不毛なる思春期を、不毛の極致ともいえる精緻な文体で描いた小説。思春期とはいえ、セックスもねえ、オナニーもねえ。吉幾三のごとき小説である。コネチカットあたりの糞田舎で退屈しているからそうなる。おまえはニューヨークに行け。そして牛を飼え。ほんとうに、...

ひとりの夢想者(つまりボンクラ)の不毛なる思春期を、不毛の極致ともいえる精緻な文体で描いた小説。思春期とはいえ、セックスもねえ、オナニーもねえ。吉幾三のごとき小説である。コネチカットあたりの糞田舎で退屈しているからそうなる。おまえはニューヨークに行け。そして牛を飼え。ほんとうに、斯様なお節介をわたしに言わせないでほしい。 大槻ケンヂあたりが読んだら、「こんな思春期があるか!」と激怒しそうだが、半端なサブカル気取りが「夢想者の君、そしてわたし、うふふ……」とか言いながら読んだところで、投げ出すのに三頁とかかるまい。 ちなみにわたしは七頁ほど読んで投げ出したくなった。レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』は、黒人がテントのようなものをつくっているあたりで投げ出したので、まあ同じくらいかったるいといえる。 そこまでしなくてもいいのにというほど緻密に描きこまれた細部に、わたしはなにもあなたの通っている高校の靴箱の様子まで知りたくないんだが……とならないあなたは、もう立派なハウザー教信者、よだれを垂らして読めばいい、というのは言い過ぎにしても、とにかくおそろしく人を選ぶ小説である。 物語には、主人公兼語り手のアーサー・グラム(29歳たぶん無職)が、自身の幼少期から思春期までを回顧する、という一応の枠のようなものがあり、厳密に制約するなら、そこにはアーサーの目に映じた世界以外のものは描かれていないはずなのだが、とはいえ夢想者たるアーサーは夢想する。 それはたとえば、夜中に家を抜け出して友だちの家にこっそり忍びこんでいる僕アーサーはいまもなお家の寝床で横になっているところの僕アーサーを夢想する、といった感じ。それをどうでもいいような細部を執拗に拡大した文体でちまちまと描写されるので、現実と夢想の境目が次第に曖昧になっていく。 要するにミルハウザーは、「どこまでが夢でどこまでが現実かわからなーい」という感覚を読者に味わってほしいわけだ。わたしはまじめな読者なので、「そうですか、じゃあ味わいますよ」という思いで最後まで読んだのだけれど、それで得た感想が、「どこまでが夢でどこまでが現実かわからなーい、だから考えるのやめちゃお」だった。 先述した物語の枠がうまく機能しているようには思えない。翻訳者の柴田元幸は、ミルハウザーを指して<語りの魔術師>などと言っているが、あえて言えば<文体の魔術師>ではあっても、<語り>としてはたいしたものではない。これはミルハウザーの真価が最も発露される短篇においても同様であるとわたしは思う。 計算された不協和音もまた欠くべからざるひとつの和音であり、その意味で本書の文体はまさしく芸術の域に達している。文体にみるべきものはある。それはまちがいないが、決しておもしろい小説ではなかった。

Posted byブクログ

2015/09/27

短編作家として有名なスティーヴン・ミルハウザーの初期長編。 ミルハウザーは本質的に短編作家だと思っているが、長編も緻密に形作られていて、こういうタイプの作家は珍しいのではないか。 本作では後に諸短編でも扱われた様々なモチーフが登場する。特に『夏の夜の徘徊』は作中でも印象的に用いら...

短編作家として有名なスティーヴン・ミルハウザーの初期長編。 ミルハウザーは本質的に短編作家だと思っているが、長編も緻密に形作られていて、こういうタイプの作家は珍しいのではないか。 本作では後に諸短編でも扱われた様々なモチーフが登場する。特に『夏の夜の徘徊』は作中でも印象的に用いられていて、夜の散歩が持つ不思議な魅力がこなれていない分、よりダイレクトに伝わってくる。また、濃厚で緻密な描写も魅力的で、些かくどいように感じられるほど繰り返される。 『訳者あとがき』を見ると、未邦訳のものがけっこう残っているので、また近いうちに刊行されて欲しい。

Posted byブクログ