廣松渉 近代の超克 の商品レビュー
序章の西田幾多郎や大江健三郎との出自と文体との共通点の指摘はちょっと興味深かった。確かに、そう括られる怨念のような強迫観念のような迫力がある、とも思える。 ”いまさらマルクス”ではなく、”いまだからマルクスくらい”は読んでおく必要はあるのかもしれない。廣松の著作群の持つ射程の深さ...
序章の西田幾多郎や大江健三郎との出自と文体との共通点の指摘はちょっと興味深かった。確かに、そう括られる怨念のような強迫観念のような迫力がある、とも思える。 ”いまさらマルクス”ではなく、”いまだからマルクスくらい”は読んでおく必要はあるのかもしれない。廣松の著作群の持つ射程の深さ・広さに改めて気づかされたように感じた。
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本書は2007年に公刊された単行本の文庫版、著者は廣松渉の直弟子にあたる小林敏明である。著者は序章において、廣松の漢語を多用した生硬な文体は、「都会」「世界」「近代」に対してアンビヴァレンツな感情を抱く「地方出身者」の文体に属するものと断ずる。そこには、「近代」へ脱出し更にそれを...
本書は2007年に公刊された単行本の文庫版、著者は廣松渉の直弟子にあたる小林敏明である。著者は序章において、廣松の漢語を多用した生硬な文体は、「都会」「世界」「近代」に対してアンビヴァレンツな感情を抱く「地方出身者」の文体に属するものと断ずる。そこには、「近代」へ脱出し更にそれを克服しようとする宿命的な「辺境」の残響が認められるという。 ここで克服の対象となる「近代」とは、端的には「産業資本主義」を指す。そこでは生産手段をもたない無産者が共同体を離れて都市に集まり、労働提供者として「資本―賃労働」という不均衡な関係に入らざるを得ない。更に「近代」のメルクマールとして、国民国家(ネーション・ステイト)の存在、機械的合理主義、そして哲学的にはアトミズムと主客二元論が挙げられている。 以上を前提に、著者は先ず「疎外論から物象化論へ」「世界の共同主観的存在構造」「役割行為から権力へ」の三節を配して廣松思想の主要テーゼを概観する。その上で漸く「廣松思想を日本近現代思想史の流れの中に位置づけ」るという本書の主題に到達し、廣松が日本思想について論じた唯一の文献というべき『<近代の超克>論 ―昭和思想史への一視角―』を読み解いていく。 廣松は、『文学界』座談会「文化総合会議―近代の超克」(1942年)を俎上に乗せ、特に出席者西谷啓治、鈴木成高を通じて京都学派全体をマルクス主義の立場から批判する。しかし、その一方で廣松は、「自らの頭で近代という巨大なパラダイムに立ち向かおうとした」京都学派に共感を抱いている。著者によれば、彼らは世界の辺境、都市の辺境に在って「近代化の遅れ」を自覚しつつ、更に近代を「突き抜けて」これを超克しようとしたパトスを共有していたのである。 惜しむらくは、本書において京都学派の田辺元と廣松思想との関係について言及がないことである。合田正人が言うように「廣松自身、相対性理論や量子力学の成果や函数概念をその哲学に適用する際、私たちが考えている以上に田辺のスタンスを暗に意識していた」はずだ(『田辺元とハイデガー』)。ネーション・ステイトについて考える上でも、田辺の「種の論理」は不可欠ではないか。
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