1,800円以上の注文で送料無料

夜の鼓動にふれる の商品レビュー

4

5件のお客様レビュー

  1. 5つ

    0

  2. 4つ

    1

  3. 3つ

    0

  4. 2つ

    0

  5. 1つ

    0

レビューを投稿

2021/11/12

戦争を、さまざまな哲学者の言葉や考え方に依拠しながら哲学的に論じた本。(講義の内容をまとめたもの) 戦争の持つ無秩序性という現実に目を背けず語ろうとする一冊。 戦争はすべきことではない。平和が第一だ。などという単純な帰結で済ますことはできない、すべきではないという筆者の想いが伝...

戦争を、さまざまな哲学者の言葉や考え方に依拠しながら哲学的に論じた本。(講義の内容をまとめたもの) 戦争の持つ無秩序性という現実に目を背けず語ろうとする一冊。 戦争はすべきことではない。平和が第一だ。などという単純な帰結で済ますことはできない、すべきではないという筆者の想いが伝わってくるように感じた。 「戦争を避けようとしているニモカカワラズ戦争は起こる」 「戦争を考察するということは、合理的な分別が崩れるところから、この〈崩壊〉として現出する世界や人間の有様に目を見開くこと、つまりこのニモカカワラズに踏み込むことである。」

Posted byブクログ

2019/01/16

世界戦争の時代 戦争の全体性 “夜”に目覚める “光”の文明の成就 戦争の近代 世界戦争 ヘーゲルと西洋 露呈する“無” “世界”の崩壊 “未知”との遭遇 アポカリプス以後 おわりに 二〇年目の補講―テロとの戦争について

Posted byブクログ

2016/03/09

個別的な戦争を論じるのではなく、我々人類の経験した戦争=世界とは、何であったのかを論じた作品。 自分の中で、戦争を表層的にこねくり回す議論、陰謀説や単純な因果論にしっくりきていなかったので、この本を読んで頭がすっきりした。 ここまで、全体を引いてみせる、論の力強さに感動。

Posted byブクログ

2015/10/18
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

 ふだん、人は生活するとき国家をそれほど意識する必要はないでしょうが、「非常時」には日常のなかにうずくまっていた<国家>がムックと立ち上がり、自分が<主体>であることを顕示します。そしてそのとき、人びとは自分が<国家>の身体の一部なのだと気づかされるのです。(p.54)  要するに「否定する」というのは、相手の存在を抹殺することではなく、相手が相手として自立して存在すること、つまりは相手の自立性を抹消して、自己の支配のもとにくみこむことであり、そのように相手を自分のために「活用する(活かして使う)」ことを言うのです。これは<森>の場合とまったく同じで、<否定>によって森は森としては「死ぬ」けれども、森を構成していた土地や樹木は、「人間にとってのもの」として、居住地や木材となって人間のために「活かされる」わけです。だから<否定>とは<征服><同化>そして<統合>のプロセスに貫かれる作用だと言うことができます。(p.185)  <アウシュヴィッツ>を、単なる「狂人」や「集団的凶器」の生み出した「例外的悲劇」として切り捨てるのではなく、<人間>はこういう「非人間」的なこともなしうるのだし、収容所でもはや誰でもない<非―人間>として「死」に包まれて蠢いていた無名の生存さえ、<人間>の生存の可能性(ありうる様態)なのだとして考慮に入れないかぎり、あらゆる<人間>についての思想は虚構だということになるでしょう。それに、そうしないかぎり、この<非―世界>を生き死にした人びとの経験は救われないのです。「これが人間か」という問いに対して、「いや、これでも人間だ!」ということです。(p.251)  「テロとの戦争」は、いっさいの人権保護の埒外に置かれる人間、そして「罰されずに殺すことのできる人間」というカテゴリーを新たに実践的に作り出したのです。「テロリスト」と呼ぶことはすでに断罪であり、それに対する戦争行動は「刑の執行」の意味をもちます。それは世界の秩序、「人権」の保障される世界を守るために排除し抹消しなければならない「敵」と位置付けられ、「人類の敵」とさえみなされます。そのように、「敵」を「人類」のカテゴリーから排除して、その国家的あるいは超国家的殲滅を「戦争」として遂行する、それが「テロとの戦争」の最大の問題だと言ってもよいでしょう。(p.333)

Posted byブクログ

2015/08/22

現代思想の文脈から「戦争」を論じるというテーマで行われた講義。平易なので、哲学入門の一変種として読むことができるだろう。 平和=昼、戦争=夜とし、夜は昼に見えていたものが消失してしまい云々というくだりは、ちょっとバタイユ寄りというか、ポエムっぽすぎる気がした。 しかし戦時体制下の...

現代思想の文脈から「戦争」を論じるというテーマで行われた講義。平易なので、哲学入門の一変種として読むことができるだろう。 平和=昼、戦争=夜とし、夜は昼に見えていたものが消失してしまい云々というくだりは、ちょっとバタイユ寄りというか、ポエムっぽすぎる気がした。 しかし戦時体制下の差し迫った「実存的」状況の分析にはなるほどと思う。 第2次大戦後、局所的な「紛争」を除けば、大国同士の「戦争」はなく一応の「平和」な状況が見られた。というのが通念だが、しかし米ソの冷戦というものは、核兵器の相互使用が人類史的な破滅をもたらすがためにボタンが押せなかったにすぎず、それは「不可能性」という形態をまとった世界大戦に他ならなかった、と著者は指摘している。 実際の戦火は上がらない分、戦争は「経済」において展開されてきた。なるほど、これはなかなかに当たっているかもしれない。ただし、思うに、経済戦争の当事者は国家を乗り越えた「グローバル企業」になってきており、国家と資本との微妙な分裂(そして陰での癒着)ということが問題化してきているのではないか。 この講義に著者自身が書き加えた文章は、戦争を放棄したからこそ、経済戦争での成功者となった日本が、今さらのこのこと「戦争が出来る国」になろうとしているという最近の状況を笑っている箇所があり、同感だった。 安倍政権、自民党、日本会議、ネトウヨの目指していることはまさに「時代遅れ」すぎてちゃんちゃらおかしいのである。 さらに著者は「テロとの戦争」という奇妙なスローガンを批判している。国家同士のたたかいでなければそれは戦争とは呼び得ない。国家の軍が、限界のさだかならぬ対象=テロリストを対象に「戦争」を始めても、それは絶対に終わることはなく、テロリストでない無数の民をも犠牲にし続けるだろう。これは戦争ではない。国家による、他国領土での「殺人」に他ならないのだ。 戦争の経済化と、戦争という語の意味の拡大化(単なる「殺人」へ)。この方向で少なくとも合衆国は突き進んでおり、現状で明るい未来のかけらすらない。 最後は暗澹とした気分で読み終えた。

Posted byブクログ