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敗戦後論 の商品レビュー

4.6

10件のお客様レビュー

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2024/09/06

お堅い歴史の話がずっと続く感じかと思いきや、『トカトントン』や『ライ麦畑でつかまえて』やらアーレントの話やらで結構後半は楽しく読めた。244頁あたりから分かりだす感覚。敗戦によって生じたねじれというか人格分裂を、クリーンな感じで解決するというより、共同性というか私性をきわめるよう...

お堅い歴史の話がずっと続く感じかと思いきや、『トカトントン』や『ライ麦畑でつかまえて』やらアーレントの話やらで結構後半は楽しく読めた。244頁あたりから分かりだす感覚。敗戦によって生じたねじれというか人格分裂を、クリーンな感じで解決するというより、共同性というか私性をきわめるような形で公共性へと突き抜けて解決していくというのは実に曖昧と言われがちだが実は筋の通っている日本人的な思考を上手く言い表してると思う。こういう透かし見的発想が戦争を忘れるとラブ&ポップみたいな感じになるのかなと思った。 誤りうることの中で真を探すとか、奇跡に従属しない形の自由とか、あんまピンと来なかった椎名麟三の精神性と繋がってるのかな。まぁ無頼派と戦後文学はここではきっかり分けられているのですが…

Posted byブクログ

2024/08/11

 親本が刊行された頃(一九九七年)に手に取り、目を通したはずの本。大学生時代にレポートの参考文献としても使ったはず。約三十年も経っているので内容はほとんど忘れていたのだけれど、改めて、ちくま学芸文庫版で読み直してみると、いまの自分もかなり影響を受け続けているのだなあ、と気づくこと...

 親本が刊行された頃(一九九七年)に手に取り、目を通したはずの本。大学生時代にレポートの参考文献としても使ったはず。約三十年も経っているので内容はほとんど忘れていたのだけれど、改めて、ちくま学芸文庫版で読み直してみると、いまの自分もかなり影響を受け続けているのだなあ、と気づくことになった。自らを引き受けることでしか、他者とは出会えない。太宰治やサリンジャーにとっての文学は、マルクス主義のような他者の思想に抗い続けるための生きるすべであり、その語り口が批判されたアーレント『イェルサレムのアイヒマン』は、その硬質でおしゃれで皮肉をまじえた文体をアーレントが選び取ったからこそ、発表の場がニューヨーカーだった。戦後憲法は当時の連合軍総司令部によって作られ、占領下の日本に押しつけられた憲法である。そこに書かれている価値観をその後自ら良しとし続けている「ねじれ」を、わたし達はそのまま受け止めなければいけない。ちくま学芸文庫版が発売された当時(二〇一五年)に付された「ちくま学芸文庫版によせて」で、日本社会はいまや「ねじれ」と無縁な「一本気」な世界になってしまった、と著者は憂う。二〇二四年のいま、さらにその傾向は加速している気がする。わたし達は、自らを引き受けないまま、他者ばかりみているのではないか。

Posted byブクログ

2024/06/11

いまなお続くアシア諸国との軋轢、アメリカ依存の本質を問う良著だと感じた ねじれ・欺瞞、語り口の問題など、次の世代に先送りせずにかたをつけて、先に進みたい

Posted byブクログ

2022/09/04

靖国神社に初めて行ったとき、どのような感情を抱けばいいかわからず、混乱した。戦争で無意味に亡くなった日本人を無意味なままに悼むことは可能か。改憲論がちょくちょく出てくるようになったが、9条を含めた憲法を日本人が選び直すことができるか。

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2021/09/10

日本の保守と革新の対峙を、アメリカの共和党、民主党、イギリスの保守党、労働党の関係と同じと見ることは出来ない。後者は異なる人格間の対立なのに対し、前者は一つの人格の分裂だ52 日本の戦後政治は「現実にあわせて憲法9条を変えるか、憲法の条文に適合するように現実を変えるか」のジキル...

日本の保守と革新の対峙を、アメリカの共和党、民主党、イギリスの保守党、労働党の関係と同じと見ることは出来ない。後者は異なる人格間の対立なのに対し、前者は一つの人格の分裂だ52 日本の戦後政治は「現実にあわせて憲法9条を変えるか、憲法の条文に適合するように現実を変えるか」のジキルとハイドの一人の統合失調症55 改憲派は、自主憲法制定して「普通の国家」設立を主張するが、それならば在日米軍を撤退させるべきなのに、それにはダンマリ。 護憲派は、戦争放棄、平和主義を高らかに謳うのに、その原則を自分で勝ち取り、国に認めさせた訳ではない(敗戦でマッカーサーに従っただけ)ことを過小評価している56 「リベラルで新しい私たち」を作ろうとする場合、その対立する国家とか国民が無ければならない。だが、その相手のナショナルなわれわれ(国粋主義や国体など)が分裂症だから、そもそも対峙できない。 そのような別種の「われわれ」との対峙無しに、従来のナショナルな共同体が解体を経て、それよりも開かれたものになるということは、ありえない(まずその「相手を治癒して一人の人格」にしなければ、そんなもの実現できない)58 たとえ原爆で死んだ広島市民でも、「無辜(むこ)の死」ではない。身から出た錆だ63 「現代仮名づかい」は敗戦によって背負わされた十字架だ。日本はこれを未来永劫荷ってゆく74 「きみは悪から善を作るべきだ。それ以外に方法がないのだから」78 「清く潔白なもの」が何か物足りないと感じる。「清く潔白なもの」とは、戦争の前に戦争と関わりなくあったもの。←だけどそれは戦争を通過していない84 現代は「汚れた世界」。そこから「悪から善を」しなければならないが、それが世界に最初に現れたのは「正義」に打ち負かされた敗戦国、ドイツ、イタリア、日本だ85 復員船に取り付けられた海水でショボショボになった日の丸。私が愛するのはこの汚れた日の丸だ:大岡昇平87 戦後の日本人社会の原点にひそむ「汚れ」は、20世紀後半(この文章が書かれていたとき)の日本人を世界につなぐ、世界に開かれた一つの窓である。私達の可能性は、この「汚れ」「ねじれ」を生きぬいて、一つの世界性へと駆け抜けていくこと89 戦後の日本は「負けた、と声を発する」べきところを「喧嘩は良くない」と言って始めてしまった98 きっと、「ねじれ」からの回復とは、「ねじれ」を最後までもちこたえる、ということである103 「戦争に行った人間はみんな、地獄だった、と言う。だけどその語りはいつも自慢げだ」「戦死者は無駄死させなければならない」サリンジャー〈最後の休暇の最後の一日〉239  日本とドイツでは平和主義が戦争の罪悪感を和らげる「高潔かつ好都合な方法」イアン・ブルマ247 占領政策の余波で天皇が免責されて、日本は誰もが道義を問われにくい特異な国になった。これは日本への受難だ イアン・ブルマ247 この論は「正しさは正しいか?」だ370 内田樹 加藤典洋は著作後20年たって「錆びて」しまった。「文学」の直感や抵抗よりも、頭や理屈が勝ってしまっている。そういう意味でも1995年の「敗戦後論」は珠玉だ380 伊東祐吏

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2020/11/10

要約→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1325938893917544450?s=21

Posted byブクログ

2019/08/29

文芸評論家、加藤典洋さん逝去 多様なジャンルを、またにかけ活躍。 ご冥福をお祈りします。代表作の一つ、『敗戦後論』をご紹介。

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2017/01/29

「火事の中地面に倒れ、誰かに覆い被さり助けられる、火事が消えて気がついたらその人は灰になっていた。真っ先にしなければならないのはその人の否定である。」 GHQにより原爆の圧力で憲法を受け入れ、押し付けられた平和と民主主義に順応してきた敗戦後の日本。戦没者と戦地被害者への慰霊と謝罪...

「火事の中地面に倒れ、誰かに覆い被さり助けられる、火事が消えて気がついたらその人は灰になっていた。真っ先にしなければならないのはその人の否定である。」 GHQにより原爆の圧力で憲法を受け入れ、押し付けられた平和と民主主義に順応してきた敗戦後の日本。戦没者と戦地被害者への慰霊と謝罪、平和憲法の扱い、それぞれ原初から捻れと汚が内在する。 美濃部達吉・津田左右吉・中野重治・太宰治・大岡昇平等その問題に各々の領域で矜持を持って処した事実。特に美濃部の憲法学者としての意力ある対応や大岡の作品とその生き様には凄まじい迫力を感じる。それに比して、大衆は戦前同様易き風潮に流され過ぎた。 結論は、先ず決然と敗者として負けを認識し護持・継承をすること。そして強制された平和憲法を今一度、国民的投票手段で選び直す。日米関係の矛盾と欺瞞も自覚し、原爆使用を糾弾し、日本の300万戦死者への哀悼とアジア2000万犠牲者への謝罪を尽くすこと。

Posted byブクログ

2017/06/17

出版された80年代より、今現在のほうが本書の主張を冷静に受け止められる時代になっているのではないでしょうか。 昭和天皇の戦争責任追及、武力で押し付けられた憲法の選び直しなど、戦後に筋を通してこなかったことを挙げるなかで、自国の死者追悼の必要性に大分のページがさかれています。 戦後...

出版された80年代より、今現在のほうが本書の主張を冷静に受け止められる時代になっているのではないでしょうか。 昭和天皇の戦争責任追及、武力で押し付けられた憲法の選び直しなど、戦後に筋を通してこなかったことを挙げるなかで、自国の死者追悼の必要性に大分のページがさかれています。 戦後の日本はジキルとハイドのように、対外的に謝罪とその否定を繰り返しました。鏡合わせのイデオロギーがそうさせてきたのです。 本書はトップダウン的なイデオロギー論争に終止符を打つべく、ボトムアップ的な手法を提案します。それが、戦後社会にうまく位置づけられなかった自国の死者の正しい追悼です。無意味に亡くなったことを直視しながら。 イデオロギー的な意見に比べて地に足のついた意見ですし、今の時代に合った論理的な意見ですが、冷静に考えれば実践するには難しいことです。 例えるならこのようなことでしょうか。 自分中心で視野が狭かった若い女性が、立派なフィアンセがいるにも関わらず、親の反対を押し切って恋に落ちた男性と駆け落ちしました。その男性は追っ手から女性を守り戦うも、ついに力尽きて捕まり処刑されました。そして男性は死の間際まで女性の幸せを願っていました。 時はたち、後ろ指をさされるこもありますが、その後の女性は全てを許し愛してくれたフィアンセと結婚し、何不自由のない心から幸せな日々を送ることができました。過去を思えば今の自分の身分が夢のようです。 トルストイの「戦争と平和」ではありませんが、そのようなとき、女性はどのように亡くなった男性を追悼すればいいのでしょうか。仮に無意味なままに追悼できたとしても、その無意味さをも意味を持ってしまうのではないでしょうか。 戦後70年を生きる我々は、もはや亡くなった男性の身内や協力者ではありません。守られた女性側に位置しているという確信を持っています。 安直なことは言えません。不道徳の誹りを免れませんが、追悼の仕方に統一的な答えを出すことを急かしたり、執着することにどれだけ意味があるのでしょうか。もしかしたら個人個人が答えを探す時代なのかもしれません。

Posted byブクログ

2015/08/01
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

難解でした。特に『語り口の問題』でのハンナ・アーレントの公共性と共同性の概念を援用しての「なぜ人は、たとえば南京大虐殺、朝鮮人元慰安婦、七三一部隊といったようなことがらに関し、「無限に恥じ入り、責任を忘れない」というような語り口に接すると、そこに「鳥肌が立つ」ような違和感を生じるのか。」といった疑問。『敗戦後論』での「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か」という問いかけ。私は許してもらうまで謝罪を続けたら良いと思っていた。

Posted byブクログ