日本原爆開発秘録 の商品レビュー
100殺!ビブリオバトル No.69 夜の部 第9ゲーム「三位一体ビブリオバトル」 [チャンプ本!]
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※このレビューにはネタバレを含みます
2015年(底本2012年)刊。 戦中での、日本の原爆開発に関する陸海軍の動きと、これに即した各研究者の足跡を叙述したのが本書である。 正直、日本の原爆開発に関しては、TVドキュメンタリーや他の書籍もあって、陸海の非協同性や東西の研究者の対抗意識、実際、原爆製造など実現不可能だった実情など、内容はさほど新奇ではない。 依拠するものが関係者のインタビューと私家版書籍の引用の多である点が、多少目に付くくらいである。 その上でいつも思うのが、科学者・研究者の救い難き業と、日本軍の科学技術に対する無理解である。 前者に関しては、研究が生み出す問題に、虚心坦懐に向き合う研究者が多くなく、製造が非現実的であったとはいえ、新兵器を後先考えずに矢鱈目鱈使いそうな日本軍に協力することの是非に悩んだ形跡が余り見受けられない。そればかりか、かえって、当時としては予算・資材の潤沢な供給が成されていた原爆研究を喜々として行っていた姿すら想起できそうな状況(勿論、これは米国人研究者にも妥当)。 後者は言わずもがなだが、研究者の総数の日米差だけを見ても容易に想起できそう。 そもそも日本は、その国力に比して長く戦い過ぎた。人的能力の開発も、科学技術・研究の進歩も、長期的視野に立って検討・実施すべきもので、短兵急に成果を挙げられない。 人的・技術的開発が国内で満遍なく進展し、また国民全体を底上げする事態を大いに阻害する要素が、戦さ馬鹿だけを生むしかない長期間あるいは大量動員の戦争なのだろう。 このことを先の「昭和の陸軍人事」と本書は教えてくれる。 なお本書のラスト。九州大学大学院の吉岡斉教授は、昨今の放射線研究につき、放射線医学の専攻者による、国際標準の知見乏しきままのずれた発言を「酷い」と非難する点に注意(名指しせず)。
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唯一の被爆国日本も行っていた原爆開発。理論、技術、資源、国力全ての点に於いてアメリカに及ばなかったため、ついに作ることは出来なかったが、それは加害者にならなかっただけであり、その可能性はあったということである。 筆者は原爆開発に携わった科学者たちに対して、そもそも原爆は作れないと...
唯一の被爆国日本も行っていた原爆開発。理論、技術、資源、国力全ての点に於いてアメリカに及ばなかったため、ついに作ることは出来なかったが、それは加害者にならなかっただけであり、その可能性はあったということである。 筆者は原爆開発に携わった科学者たちに対して、そもそも原爆は作れないとわかっていて研究していたと多少好意的に書いてはいるが、陸軍、海軍の要請で開発の研究をしていたことに変わりはなく道義的責任は免れないと思う。 被爆国日本で原爆開発があったことをどれだけの人が知っているだろうか。原爆の悲劇を伝えることと同じように、この事実も合わせて考えるようにしなければ、真の原水爆廃絶は実現しないだろう。
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『あの戦争は何だったのか』の保坂氏の本をもっと読みたくて買った。 まず、驚かされるのは、本書は膨大な資料と、取材に基づいている。その意味で、かなり説得力のある書になっている。 太平洋戦争当時、日本も原爆の開発が行われていた。東大の仁科教授を中心に行われていた「二号」研究がその一つ...
『あの戦争は何だったのか』の保坂氏の本をもっと読みたくて買った。 まず、驚かされるのは、本書は膨大な資料と、取材に基づいている。その意味で、かなり説得力のある書になっている。 太平洋戦争当時、日本も原爆の開発が行われていた。東大の仁科教授を中心に行われていた「二号」研究がその一つだが、本当に原爆が開発できるとは思っていなかった。第二次大戦中に世界中のどこかの国で原爆が開発されるとも思っていなかった。 だから、アメリカが広島に原爆を落としたとき、仁科教授は「負けた」と言っている。アメリカに研究者として負けたという意味だ。 時流に乗り、国から研究費を取り、好奇心を満たすための研究を行うという科学者の姿勢は、その後も変わっていない。 例えば、国策として原発の研究に関わった科学者は、原発が良いものか悪いものかということは考えず、研究を行ったのではないか。その成果を見たいがために、原発の安全神話を作ったのではないか。 科学は絶対ではない。科学者も絶対ではない。 科学信仰はそろそろ捨てて、新たな時代性精神を構築するときだ。
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日本にも原爆開発計画があったことは有名なことだと思いますが,軍部と科学者の感覚の差はどのようなものであったのか,原料の調達はどうしたのか,広島・長崎投下により実戦に使われたことについて,科学者はどう感じたのか,興味深い. また,長崎原爆投下の際に,その後の観測用ゾンデに添付された...
日本にも原爆開発計画があったことは有名なことだと思いますが,軍部と科学者の感覚の差はどのようなものであったのか,原料の調達はどうしたのか,広島・長崎投下により実戦に使われたことについて,科学者はどう感じたのか,興味深い. また,長崎原爆投下の際に,その後の観測用ゾンデに添付された,日本人科学者へ宛てた米国人科学者の「私の友人へ」で締めくくられる手紙(http://www.lettersofnote.com/2009/12/this-rain-of-atomic-bombs-will-increase.html 訳文は本書内に.)についてもも技術者の葛藤などを考えさせられ,印象的であった.
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戦中の挿話に加えて、本書は原子力利用の推移や、近年の原発事故の問題にも筆者の筆は及んでいる。 共感を覚えたのは…「スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマ」は判るとして、「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」には大きな違和感を覚えるという、巻末近くに挙げられた話題だった…原子力の制御が...
戦中の挿話に加えて、本書は原子力利用の推移や、近年の原発事故の問題にも筆者の筆は及んでいる。 共感を覚えたのは…「スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマ」は判るとして、「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」には大きな違和感を覚えるという、巻末近くに挙げられた話題だった…原子力の制御が困難で「事故が起こってしまった」ということと、「破壊兵器の駆使」とは“並列”にはなり悪い筈だ… “原子力”に注目も集まっている状態が継続中であると思うのだが、その“原子力”との「最も不幸な邂逅」とでも言うべき原爆から丁度70年という今年である。“原子力”と人類が出くわしたような時代の物語を読むには好い時期なのかもしれない。“科学界”というような位置からの原爆を巡る歴史は興味深いもので、色々考えさせられた。
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『原爆を盗め!』とあわせて読むと面白い。 日本での原爆開発についてのノンフィクションだが、仕事のやり方が変わっていないことに驚いた。 分断された部署(陸軍、海軍、さらにはその中でも情報が共有されていない部署がある)の張り合いによるリソースの無駄遣い。 簡単にできると思う上層部とど...
『原爆を盗め!』とあわせて読むと面白い。 日本での原爆開発についてのノンフィクションだが、仕事のやり方が変わっていないことに驚いた。 分断された部署(陸軍、海軍、さらにはその中でも情報が共有されていない部署がある)の張り合いによるリソースの無駄遣い。 簡単にできると思う上層部とどうせできないので自分たちに都合にあわせてノラリクラリとする実行部。 そもそも物理的にできない(材料がない、施設がない、どちらも入手の見込みがほとんどない)ことを正面から受け止めない(られない)。 結果、ちゃんとした(実現可能性のある)計画がなく、当然実効性のあるトラッキングができない。 とにかく一発逆転・万馬券を狙うメンタリティ。
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マンハッタン計画の元となったウラニウムに関する諮問委員会がアインシュタインの申し出を受けたルーズベルト大統領により作られたのが1939年10月、ドイツがポーランドに侵攻したのが9月1日で第二次大戦は既に始まっていたことになる。ウランに中性子をぶつけると核分裂が起こることが実験的に...
マンハッタン計画の元となったウラニウムに関する諮問委員会がアインシュタインの申し出を受けたルーズベルト大統領により作られたのが1939年10月、ドイツがポーランドに侵攻したのが9月1日で第二次大戦は既に始まっていたことになる。ウランに中性子をぶつけると核分裂が起こることが実験的に確認されたのが1938年12月であり、まだ1年も経っておらずルーズベルトがつけた予算はわずか6千ドルだった。 原爆を開発しているドイツに対抗してマンハッタン計画がスタートしたのが1941年12月6日、真珠湾攻撃の前日であった。それから最初の原爆実験が行われた1945年7月16日まではわずか3年半。そして1941年の開戦前の日本には原子物理学の新しいニュースは入ってきており開戦半年後の1942年7月には日本でもウラン爆弾=原爆開発が可能かという検討が始まった。しかしこの時の結論は日本だけでなくアメリカも無理だろうということだった。 軍部が「マッチ箱ひとつで大都市や航空母艦が吹き飛ぶ」新型爆弾に望みを託し始めるのがサイパン陥落後の1944年7月以降でこれは国民の中でも噂として流布したらしい。「神風」は吹かないのだが。ディテールは違うが宇宙戦艦ヤマトの世界だねこれは。 日本の原爆開発計画は先の検討とは矛盾するが1941年4月に陸軍が理研に依頼し「ニ号研究」の仁科芳雄が原理的には可能と言う意味の回答をしたことがきっかけでプロジェクトが発足している。理研の仁科研究室と言えば湯川秀樹、朝永振一郎を始めとする錚々たる研究員を擁する研究者の楽園だった。しかし理論物理学者中心で工学よりでは無い理研に対し原爆製造に最大12万5千人の労働力を突っ込んだアメリカと比べるとその差は余りにも大きく、アメリカにも出来ないと日本の研究者が見誤っていたことになる。 なかなかわかりにくいのだが出来ないと思いつつ研究者としてはアメリカに負けたくないと言う想い、研究者として戦争に勝つためにどう協力するのかと言う想い、また表立っては軍事に協力しながら実際には潤沢な研究費を捻出し理論研究に勤しむなどいくつもの立場が入れ替わりでてきている。ある大学教授は計画に関わり身分が保障された折には「科学で国に奉公できるようになったうれしいことです」と言い、戦後は「科学は平和を愛する人のために有るのです」と立場を変えている。戦後の「原子力でアジアの平和に貢献する」と言う言い分は大東亜共栄圏のレトリックと同じだというのが著者の指摘である。 原爆の悲惨さを眼にした物理学者達が反原爆に傾いたのは当然理解できるが、日本の物理学者達は原爆開発が出来なかったことにより救われたところもあるのだろう。実態としては実験材料のウランもまともな実験装置も用意できずアメリカとの差はどうあがいても埋まらなかったのだが。そして原子力の平和利用を謳いながらもより簡単に原爆の原料となるプルトニウムを原発の稼働で蓄積できると考えた人がいたのもおそらく間違いない。 戦後の原子力利用は科学者ではなく政治家が前面に出て来た。初代科学技術庁長官の正力松太郎は原子力の平和利用によるアジアの繁栄を前面に押しながら初代原子力委員会の湯川秀樹が基礎研究からゆっくりと時間をかけるべきと主張したのに対し、「そんな時間はない、原子炉なんかアメリカから買えばいい、平和利用の技術を日本が独自に研究することなど必要ない」と対立し湯川は委員を辞任した。正力の跡を継いだのが中曽根康弘だ。 戦時下でニ号研究や海軍が京大に委託したF号研究に深く関わった研究者は辞任した湯川など当初を除くと原子力委員会にはほとんどかかわっていない。そして平和利用を推進したはずの原子力村が止めることができなかったのが福島第一事故と言える。 ポツダム宣言を読んだ科学者の中には原爆の完成という明確なメッセージを受け取ったものもいたが軍や政治に対して働きかける力は持たず、予算は確保しても基礎研究から離れず実用化には力を入れなかった。かと言って彼らが戦時中に平和主義者だったとも言えない。消極的な協力姿勢が生んだのが原爆完成による一発逆転への期待でしかなかったとしたら報われない話だ。
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