日本語が亡びるとき 増補 の商品レビュー
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招かれて乗せてもらった飛行機がビジネスクラスじゃないから家畜輸送。日本家屋を、木と紙でできた小さな家と言う。国外講習で笑われる自虐と思えば、ギリ譲れる。 でも、三味線や舞踊ができる祖母を、オムレツを作らない、欧州小説を読まないなど、自分の思う分野に触れていない事で"学が無い"とするのは、僕には冗談にも聞こえない。 もしかしたら、なんたら賞とってるし450頁もあるから最後まで読めば…と100頁は耐えた。が、本題の兆ししか感じない。あ、このパターン、自伝に売れるタイトルが付いたヤツだ…。 ぜひ、本のタイトルは変えて頂いて、この人の自伝を読みたい方に届けばいいなと思います。
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文学を中心とした日本語教育に力を入れろという主張。 文学教育と言語教育は別次元で議論するべきだと思うので、わたしは反対。
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英語圏で長く暮らした筆者の、いまや「普遍語」となった英語にたいする強いフラストレーションと、危機感。 英語などヨーロッパ語とは全くことなる言語を母語とすることに対する悲しみは日々感じているところだが、日本語が滅びていくことに対する危機感は正直薄かった。 この本に感化されて三四...
英語圏で長く暮らした筆者の、いまや「普遍語」となった英語にたいする強いフラストレーションと、危機感。 英語などヨーロッパ語とは全くことなる言語を母語とすることに対する悲しみは日々感じているところだが、日本語が滅びていくことに対する危機感は正直薄かった。 この本に感化されて三四郎を読み始め、その危機感の端っこをつかめた気がしている。
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1章 アイオワの青い空の下で“自分たちの言葉”で書く人々 2章 パリでの話 3章 地球のあちこちで“外の言葉”で書いていた人々 4章 日本語という“国語”の誕生 5章 日本近代文学の奇跡 6章 インターネット時代の英語と“国語” 7章 英語教育と日本語教育
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言語、普遍語、現地語、国語の歴史・国ごとの違いそして日本が今後どうやって英語と日本語の共存を考えていくかまとめた一冊。 英語との併用は大いに考えるところ。 二か国語の取得は難しいと言われているけれども、それを再確認させてくれる。 その中での国語の重要性そして英語に関してはバイリ...
言語、普遍語、現地語、国語の歴史・国ごとの違いそして日本が今後どうやって英語と日本語の共存を考えていくかまとめた一冊。 英語との併用は大いに考えるところ。 二か国語の取得は難しいと言われているけれども、それを再確認させてくれる。 その中での国語の重要性そして英語に関してはバイリンガルは特定の人でいいという提案。 面白かったです
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3章まで。ものすごくしっくりと自分の中にあったものを言葉にして読んでいると感じる。自然科学の国語については、ちょっと難しいかなと感じるところはある。
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私は本書の著者に対して偏見がある。夏目漱石の未完の小説 『明暗』の「その後」となる『続明暗』を発表したことにより、 「余計なことをしてくれるな」と思ったから。 『明暗』は未完のままでいいのだと感じていたのだもの。だから、 『続明暗』も手に取る気はさらさらないし、著者の他...
私は本書の著者に対して偏見がある。夏目漱石の未完の小説 『明暗』の「その後」となる『続明暗』を発表したことにより、 「余計なことをしてくれるな」と思ったから。 『明暗』は未完のままでいいのだと感じていたのだもの。だから、 『続明暗』も手に取る気はさらさらないし、著者の他の小説も 読んでいない。 なので、私は本書をかなりの確率で誤読しているはずだ。でも、 読み手がどんな反応を示すかはそれこそ十人十色なのではないか と思う。 グローバル化が進む世界で英語は世界共通の普遍語になりつつある。 英語が世界を席巻したら、日本語は地域語に成り下がる。では、 日本語が国語として生き延びる為にはどうすればいいか。 学校教育で徹底的に近代文学を読ませることだ。「読まれるべき言葉」 は近代文学にこそあるのだ。 かなり乱暴にまとめてしまった・要は12歳で父の仕事でアメリカに 渡り、日本語に接する機会が極端に少なくなった著者の慰めが父の 蔵書にあった日本の近代文学の作品だったから…とのかなり個人的な 体験がベースになっている気がする。 「近代文学、最高っ!現代文学は糞」みたいな書き方になっているの が非常に気になっていたら、文庫化に際してのあとがきでこの部分を 相当に言い訳している。 「そんなつもりじゃなかったんです」と後から言われても、漱石ほどの 頭脳の持ち主が現代に生まれたら小説を書こうと思っただろうかなんて 書かれたら、「そんなつもりじゃん」と受け取ってしまうのよ。 「英語の世紀」との副題は分からないでもない。日本の企業でも社内 の公用語は英語にしている企業もあるくらいだからね。 ただ、グローバル化=英語のひとり勝ちではないと思う。漫画や アニメを媒介として日本語を学ぶ外国人も増えているのだから。 高いところから「このままでは日本語は亡びる」って言われても なぁ。だって、言葉って時代と共に変化すると思うのよ。 本書で何かと比較対象として名前が出て来る漱石だって当て字を 多用しているしね。 近代文学にしろ、現代文学にしろ、小説って結局は娯楽だと思って いるので、本書のような作品を読んでも「何もそんなに危機を煽ら なくてもいいのに」と感じてしまった。
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「読まれるべき言葉」(文学テキスト)が読み継がれなくなったら国語は亡びる。国語としての日本語を護るには、国語教育において日本近代文学(漱石や鴎外)を読ませなければならない。 そのためには国語の時間を増やす必要があり、英語の時間を減らす必要がある。「全員バイリンガル化」のごとき英...
「読まれるべき言葉」(文学テキスト)が読み継がれなくなったら国語は亡びる。国語としての日本語を護るには、国語教育において日本近代文学(漱石や鴎外)を読ませなければならない。 そのためには国語の時間を増やす必要があり、英語の時間を減らす必要がある。「全員バイリンガル化」のごとき英語教育の「充実」をやめる。英語教育は限られたエリートに与えればよく、ただし本物の英語力を育てなければならない。学校は英語を読むことへの入り口を提供すればよい。充実すべきは国語教育であり、日本近代文学を読む時間である、という主張だった。 それには納得した。ただ、ぼく自身は、国語教育の本来的な使命として、「論理的に考え、伝える技術」の訓練も重視している。いまの文学偏重の国語教育は、それが扱う作品が現代であれ近代であれ、生産的ではないと考えている。
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英語は普遍語だと言うことに、異を唱える人はいないだろう。 日本である一定以上の知識を得ようとしたら、必ず、英語に関わることとなる。(日本固有の事柄なら異なるのかもしれないが、古いものになると中国語が出てくる気がする) 例えば、理系などでは最先端の論文を英語を読み、おのれの研...
英語は普遍語だと言うことに、異を唱える人はいないだろう。 日本である一定以上の知識を得ようとしたら、必ず、英語に関わることとなる。(日本固有の事柄なら異なるのかもしれないが、古いものになると中国語が出てくる気がする) 例えば、理系などでは最先端の論文を英語を読み、おのれの研究成果を英語で書く。 英語で書かれた小説は日本語で翻訳されるが、同じ数だけ日本語で書かれた小説が英語に翻訳されることはない。 日本語は亡びるだろう。 私は、近代文学もラノベも実用書も読むし、もちろん翻訳小説も読む。 けれども、国語教育のおかげではなく、国語の教科書に載る作品は初めの頃に読み終え、物足りないと辞書を片手に他の本へ手を伸ばした野生の活字中毒だ。 私のように好きに学ばせるのではなく、国策にて、教養としての日本語の読解能力を高めない限り、日本語で書かれた本を読むという行為のハードルが下がらない。そして、読み手が縮小すれば書き手も縮小してゆく。 うすらぼんやりと「そうだろうなぁ」と思っていた事柄が、これでもか!と熱を持った論調で展開される。 普遍語である英語を学ぶにも、基礎となる日本語の読解能力が無ければ、なかなかに厳しいのではなかろうかとは思う。 日本語で考え、あらわす力というのは果てのない道のりで、活字中毒の私ですら、仕事の書類やメール等の錬られていない10行以上の日本語を読む前にはためらいを覚える位だ。 なんというか、私はそれらに対し、対処療法的な文章構造を考えるように伝えてきたけれど、それは、間違っていたのかもしれない。 さて、私は亡びゆく日本語に対して、どのようにしたら良いのだろうか。 近代文学も面白いよと薦めてみる? 私が当たり前のように思っている読書の楽しみを伝える? パブリックコメントを求めている時にだす? 何かしたい、という気持ちになる。 簡単で誰でも読みやすい本が優れているのではなく、意味が分からずともついつい読めてしまう、美しい文章に触れる機会を増やしたい。 青空文庫から、美文のスクリーンセイバーやスマホの待ち受け画面など作ったら楽しそうだなぁ。
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この本を読んで「『三四郎』読みなおそう」と思った読者なので、たいへん興味深く、かつ共感しながら読んだ。 実際のところ、私自身が「自分よりも下の世代に近代文学を読んでもらいたい」と思っているタイプの人間なのだ。だからこそ、日本語にこだわるし、その存在にありがたみも感じている。 好き...
この本を読んで「『三四郎』読みなおそう」と思った読者なので、たいへん興味深く、かつ共感しながら読んだ。 実際のところ、私自身が「自分よりも下の世代に近代文学を読んでもらいたい」と思っているタイプの人間なのだ。だからこそ、日本語にこだわるし、その存在にありがたみも感じている。 好きだから、その価値をわかってほしいという気持ちがある。 <普遍語>としての英語の時代は、すでにもう来ているし、それは他人事ではないのだなぁ、と自覚しなければならない。しかし、実感が湧かないというのが正直なところで、それは現代においてもどれだけ日本人が英語を話せないかを見ても一目瞭然なのではないだろうか。 つまり、「英語を話せなくても生きていける」というのが現状で、その現状維持だけでやってきた私たちにとって、それはリアリティがないのだ。 だからこそ、「日本語の危機」にも実感がない。なんだかんだ言って、漱石も鴎外も芥川もまだまだ本屋に「ある」ものだから、それがなくなることを想像したことがない。 私自身、ま、それで充分だよねとどこかで思っていた。いや、そのことについて、どこかで諦めていた……「漱石がどれだけすばらしく、どれだけ面白いか」について語るのは、昨日見たアニメについて語ることよりも恥ずかしい、というおかしな負い目があった。 しかしこれこそ、英語が<普遍語>であるという理由だけで<普遍語>たりえるのと同じではないか? そうい気持ちこそが、著者の言う「日本語」を<亡ぼして>しまう原因なのではないだろうか? 大多数と共有し得るという理由で、英語という言語を選択する、というのはまっとうなことだ。英語を選ぶ意味は、これからますます増えていくことだろうと、私も思う。 しかし、その選択を取ることで<私たち>はどうなるのか、ということに、この本で初めて気づかされたように思う。<英語を選ぶ>のでもなく、<日本語を選ぶ>のでもない。<英語を選ぶなら日本語はどうなるのか>ということ。 もし「日本語」が亡びるのなら、それはそういう意識の欠如なのではないか、と私は本書を読んでそう思った。
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