「聴く」ことの力 の商品レビュー
烏兎の庭 第一部 書評 11.19.03 http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto01/yoko/kikukotoy.html
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人が言葉を持ったことで考える生き物となった。言葉は、他者と話すことで成り立ったものだ。 言葉のやりとりも様々あると、気付かされた。言葉を相互に交わす会話でなく、声を合わせることで互いに思いを通わせ合うということもある。 自分とは何か。他者との関係から作られる。言葉は贈られ、受け止...
人が言葉を持ったことで考える生き物となった。言葉は、他者と話すことで成り立ったものだ。 言葉のやりとりも様々あると、気付かされた。言葉を相互に交わす会話でなく、声を合わせることで互いに思いを通わせ合うということもある。 自分とは何か。他者との関係から作られる。言葉は贈られ、受け止める。寄り添うことは、簡単にできることではないだろう。でも、寄り添いたい。自分もそうしてもらったことがある。そうありたい、行動していく。人としてあるために。
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使う言葉が難しいので私にはまだ理解できていないところがたたあったので、理解できてからレビュー書きます。 ただわざわざわかりにくいように書く必要あるの?言葉の言い回しをと考えてしまします。
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聴くことへの考察。 聴くことの力。 苦しみのなかにあるとき、ひとはことばを喪ってゆく。 不幸から脱したいという気持ちそのものも消えてゆく。 ことばをもつことそのことがすでにひとつの救いである。 それでは、ことばはどのようにしたらもてるのか。 そのとき、そのひとのそばにいる私たち...
聴くことへの考察。 聴くことの力。 苦しみのなかにあるとき、ひとはことばを喪ってゆく。 不幸から脱したいという気持ちそのものも消えてゆく。 ことばをもつことそのことがすでにひとつの救いである。 それでは、ことばはどのようにしたらもてるのか。 そのとき、そのひとのそばにいる私たちに何ができるのか。 少しだけ引用します。 「ことばは、聴くひとの「祈り」そのものであるような耳をしってはじめて、ぽろりとこぼれ落ちるように生まれるのである。苦しみがそれをとおして現れ出てくるような《聴くことの力》、それは、聴くもののことばそのものというより、ことばの身ぶりのなかに、声のなかに、祈るような沈黙のなかに、おそらくはあるのだろう。その意味で、苦しみの「語り」というのは語るひとの行為であるとともに聴くひとの行為でもあるのだ。」(引用ここまで。) ことばを聴くことは、祈ること。 こぼれ落ちたことばを大切に受けとめて、慈しむこと。 その「前提」があってはじめて語られること。 何となく手に取ったこの本、出会えてよかった、読めてよかった、と思える一冊でした。
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哲学書としてはとても平易な本だ。 レヴィナスなど、他者論は20世紀の哲学・思想において中心的なテーマであり、実に多くの本が、この主題で書かれてきた。私もそれらに大変共鳴し、触発されてきた。木村敏氏の本にも大いに感銘を受けた。 この本もそうした系列の一つだ。 「聴くこと」とはここで...
哲学書としてはとても平易な本だ。 レヴィナスなど、他者論は20世紀の哲学・思想において中心的なテーマであり、実に多くの本が、この主題で書かれてきた。私もそれらに大変共鳴し、触発されてきた。木村敏氏の本にも大いに感銘を受けた。 この本もそうした系列の一つだ。 「聴くこと」とはここでは他者の声に耳を澄ますことである。この、他者とのコネクトにおいて、いったん自我は捨象される。 そこまではいいのだが、最近の私が気になっている問題、つまり、集団的自我、しばしば狂気の行動へと陥る共同性については、これをいかに回避しうるか。 集団との対比ではむしろ自己の個人性の方が重要になるはずだ。個人性を失うことは、行為の責任を消滅させてしまう。しかし自我に固執しすぎると他者の声が聞こえなくなってくる。 この本はたぶんよい本なのだが、その先はどうなるのか? そろそろ他者論だけにとどまらない、次のステップが必要なのではないだろうか。
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