ウイスキーと私 の商品レビュー
竹鶴政孝の自伝のようなもの。彼がいなければ日本でウイスキーが作られることもなかったのかも。ウイスキーは作ってすぐ売ることのできず原酒の熟成を待つ必要があるがそれ故に流行りと合わせるのは難しく、商売としても根気がいるものでそれをはじめからやるっていうのはすごい。
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1188 ウイスキーと私 by 竹鶴政孝 学校でも理科は得意だった ウイスキーのつくり方をごく簡単にいうと、まず大麦に水分を与える。大麦は水を吸うと、まるまると太り、芽と根を出してみずみずしい精気をあたりいっぱいに発散させる。 約一週間で発芽をとめ、乾燥塔内でピート(Pea...
1188 ウイスキーと私 by 竹鶴政孝 学校でも理科は得意だった ウイスキーのつくり方をごく簡単にいうと、まず大麦に水分を与える。大麦は水を吸うと、まるまると太り、芽と根を出してみずみずしい精気をあたりいっぱいに発散させる。 約一週間で発芽をとめ、乾燥塔内でピート(Peat・草炭)の煙にいぶされる。ピートの煙は床に刻まれた細いすきまを通り、麦の一粒一粒のシンのそこにまで移り香をしみこませる。 麦はピートの移り香を吸い、ウイスキー独特の香りを早くもここで身につける。 ピートで十分に乾燥した麦を粉にし、湯水を加えて 攪拌 すると、ジアスターゼ(Diastase)の作用によって、でん粉が麦芽糖という糖分に変身する。 これを 濾過 し、冷やして酵母を入れると、醱酵によって甘い麦芽糖が辛いアルコールになる。 これを先の昔ながらの素朴で、しかし、優雅な形をした単式蒸留機で繰り返し蒸留すると無色で透明な原酒になる。 これを樽につめて貯蔵すると、その間にコクと色を増し、ウイスキーの原酒に 同じ時、同じ方法でつくったものでも、樽によって熟成の度合いは違うし、上段に積んだ樽と下段に置いたものでは、でき方に大きな違いが出る。それほどデリケートに自然の影響を受ける生きものであっ 父親の隣のいすに、大きな、きれいな目で私を見つめていた女性がいた。それがリタだっ オラガということばは、その当時の流行語の一つであった。総理大臣をやり、政友会の総裁であった田中義一大将が、自分のことを「オラガ、オラガ」といっていたが、このことばは当時の庶民感情とマッチして流行していたのでビールの名前に採用したので
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スコットランドでウィスキー作りを学び、日本でウィスキーの製造を軌道に乗せるまでを書いた竹鶴政孝氏の自伝です。淡々と書かれていますがウィスキー作りについてだけでなく、第一次対戦から戦後までの時代感も伝わって来るのが面白いです。ウィスキーの好きな方はぜひ。
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マッサン放映後に読了。艱難辛苦なことが前面でなく、あっさりとしたエッセイ。スコットランドに単身で行き、日本を五大産地の一つにした偉業はすばらしい。研究者であり、経営者であり、職人であった。 何でウィスキーづくりを学びに行ったのだろう?
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文章から滲み出る、幸運への感謝と自身の努力、成果への自負。 驚くほど淡々とした筆致だが、それでもなおダイナミックだった氏の人生がありありと伝わってきた。
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仕事してる時は、夏はビール、冬は日本酒、春・秋はウィスキーやブランディをよく飲んでた気がしますw。ワインは身体にいいと聞いてますが、滅多に飲まないです。今はホッピーと焼酎甲類キンミヤ、日本酒が多く、時々ビールです。この本は、ニッカウィスキー創業者、竹鶴政孝氏(1894~1979)...
仕事してる時は、夏はビール、冬は日本酒、春・秋はウィスキーやブランディをよく飲んでた気がしますw。ワインは身体にいいと聞いてますが、滅多に飲まないです。今はホッピーと焼酎甲類キンミヤ、日本酒が多く、時々ビールです。この本は、ニッカウィスキー創業者、竹鶴政孝氏(1894~1979)の自伝です。広島県、尾道と呉の中間、安芸の京都、頼山陽の生まれた地、竹原に生まれ、ただ一筋にウィスキーづくりに生きた男の物語です。真綿色したシクラメン、琥珀色したウィスキー、絵になりますね(^-^)
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マッサン関係の特設コーナーに平積みされていた。 本人が書いた本。内容はどうにも薄い感じ。 ”ウイスキー・バカ”だったのだろうから、しかたないか(´・ω・`)
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NHK朝の連ドラのモデル、まっさんこと竹鶴政孝氏の自伝である。日経新聞の私の履歴書を本にまとめ直したものの要で、語り口は淡々としているものの日本のウイスキー黎明期を描き興味深く読める本である。 非常に努力をしその功績大ではあるにもかかわらず傲ることもなく全ては周りの人のおかげとす...
NHK朝の連ドラのモデル、まっさんこと竹鶴政孝氏の自伝である。日経新聞の私の履歴書を本にまとめ直したものの要で、語り口は淡々としているものの日本のウイスキー黎明期を描き興味深く読める本である。 非常に努力をしその功績大ではあるにもかかわらず傲ることもなく全ては周りの人のおかげとするところは、この時代の人ならではでしょうか。 連ドラではあくまでもモデルと言うことで事実とは違うことはたくさんあるのでしょうが、やはり、あれドラマとはちょっと違うねえというところは随所にある。巻末寄稿文のお孫さんの話ではこの本の内容自体が事実と違うとことがいくつかあるようで、あえて慮るところがあり脚色している部分もあるようだ(記憶違いもある様子) ウイスキーの知識もつくので、Bottleの裏ラベルをみて、この記載はそういう意味かと改めて知ることもできるのである。 読んでみて損はない本ですよ。
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森瑶子の望郷を先に読んだ。写真を見て、改めて興味が深まった。密造酒が、ウイスキーの発展に貢献したとは。大日本果汁から、ニッカとつけたとか、戦後の混乱期にアメリカ人と、英語でやりあったとか、妻リタが昭和36年に急亡したとか。
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10月からの朝ドラがおもしろく購入。テレビは最初回想シーンが交互に入り少しみずらかったが、やはり泉ピン子の木魚ぽくぽく場面でこりゃおもしろいとなった。大阪の酒店の娘の意地悪場面も定番? なにか内助の功的描き方が強調されすぎてる気もするが、そこはテレビ、この竹鶴氏の自伝はテレビ以上...
10月からの朝ドラがおもしろく購入。テレビは最初回想シーンが交互に入り少しみずらかったが、やはり泉ピン子の木魚ぽくぽく場面でこりゃおもしろいとなった。大阪の酒店の娘の意地悪場面も定番? なにか内助の功的描き方が強調されすぎてる気もするが、そこはテレビ、この竹鶴氏の自伝はテレビ以上におもしろい。いろいろ関連本が出てるがこれは昭和47年2月にニッカウヰスキーが発行した私家版の改定復刻版。日本経済新聞の「私の履歴書」を私家版として出したものなので、きっちり31回分、各回小見出し付き。実際の連載日は47年2月より少し前のことだろう。連載月日は記載が無いのでこの本ではよくわからない。 この本で竹鶴氏は自分は幸運に恵まれていた、と言っているが確かにイギリスへの渡航中、並走して航海していた船が沈没して1名を除き全員が死亡してしまったり、またイギリスでの留学中とか、日本に戻ってのウイスキー作りにかかわってからとか、いろいろ困難はあるがいい方に舵が向いて行くようである。しかし自伝をよむとそれはやはり努力の賜物あってのことだというのが分かる。 今の大阪大学の醸造科を出ているのだが、アメリカ経由で、サンフランシスコからニューヨークまで横断して、アメリカではアメリカ訛りの英語に悩まされたが、イギリスへ行っては「私の英語はよく通じ、相手の言葉のわかるのがなによりうれしかった」とある。アメリカで昼間ワイン工場を見学し夜は英会話を習ったとあるが、当時の大学出はやはり違うのか、と感心する。おまけにリタを伴って日本に来る際もアメリカ経由なのだが、リタのイギリス英語がアメリカで通じず、竹鶴氏が通訳した、などという話も載っている。 作り酒屋なのに洋酒を学びにイギリスへ、はたまたイギリス人の妻を伴って帰国、とそのたびに最初反対されるが最後には後押ししてくれたのは「母」だったとある。そこらへんドラマとは反対なのだが、履歴書では「顧みると、ウイスキーで苦しみ、ウイスキーで喜んだ人生であった」と締めくくられている。 思えば、自分の大学時代、昭和50年代前半、飲み会といえばビールか水割りだった。コーク杯なんかもあった。しかしサントリーのダルマの方が飲まれてたかなあ。しかしヒゲの顔は確かに記憶にある。
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