怨霊とは何か の商品レビュー
再読、昔の感想を貼っとく 世の中は科学の力で上手に回っている、ならば科学の存在しなかった世界は上手く機能しなかったのかといえば、そうではなかった。 科学ではない「基準」をもって過ごしていたから。極端に言ってしまえば、世の中には正確に測ることが出来るものは存在せず、人間は数字や科...
再読、昔の感想を貼っとく 世の中は科学の力で上手に回っている、ならば科学の存在しなかった世界は上手く機能しなかったのかといえば、そうではなかった。 科学ではない「基準」をもって過ごしていたから。極端に言ってしまえば、世の中には正確に測ることが出来るものは存在せず、人間は数字や科学、そして霊的観念を自ら考えて作り出し型にはめて、いかにも正確であるかのように生活しているだけであって、それは今も昔も変わらない考え方。 現代であっても解らないものは解らないままであり、科学ですら不確かな存在である内は、霊魂文化と大差がないのではと感じた。 それでも霊魂が存在するのかしないのかという問いの答えを一応出しているのが宗教という存在。 宗教の数だけ考え方があるけど、昔の日本人にとっての「基準」とは何かと言われたら、それは神道もしくは仏教。目に見えるものを信じたい私たちとは異なり、霊魂文化の色濃かった時代の日本人は目に見えないものに重点を置いて生きていた。神の存在の背後に霊魂は存在するという本の言葉はとても印象的であり、やはり恐ろしいものの対象でありながら、時が流れるにつれ人々が自然に敬い崇める対象にもなった日本の霊魂文化は「畏怖」という言葉でしか表現できない特別な文化であると強く感じた。
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職場の上司が歴史好きで将門伝説のことなどをお話ししてくださる機会があり、三代怨霊に興味が湧いたところで本書を図書館で見つけました。。 本書は日本三大怨霊と呼ばれる道真、将門、崇徳院について、それぞれの生涯や死後怨霊として扱われるまでの経緯と鎮魂の経緯を解説したものです。 いろいろ興味深かったのですが近年における将門パワーがすごすぎるので詳細記載しておきます。。 将門首塚と呼ばれる大手町の一角に、大正12年の関東大震災のあと大蔵省の仮庁舎が建設されたのですが、その後官僚に病人が続出し、工事関係者にもけが人や死亡者が相次ぎ、2年間で14人の死亡が確認され、昭和3年に庁舎は取り壊され将門鎮魂祭が行われたという事実を知り驚きました。 しかも事はそれで収まらず、昭和15年には都内20か所余りで落雷があり、航空局をはじめ大手町付近一帯が延焼したそう。この年は将門没後1000年だったことから庁舎は直ちに移転され、一千年祭が挙行され、当時の大蔵大臣自ら筆をとって古跡保存碑が建立されたそうです。 その後も第二次世界大戦後の焼け跡の整地時に死亡も含むけが人が続出したことから、当時の町内会長がGHQに陳情し、GHQも了承したという経緯で現在まで将門塚は保存されているんだそう。 大正・昭和の時代に怨霊が原因で庁舎が移転とか、国やGHQが怨霊の存在を認めて実際の対策をしたとは・・・衝撃的でした。 崇徳院のことも、彼が保元の乱によって讃岐に流されて以降、世の中は武者の世に転換しました。それ以降政権が未だに天皇のもとに戻ってこないのは崇徳院の怨霊が原因であるという説が唱えられ、その結果明治改元に合わせて、京都に白峯家が建立されて神霊の還遷されたそうです。 日本の文化はつくづく霊魂の文化なんだなあと、とても興味深かったです。 怨霊に対しては、奈良時代の初めは密教の持つ呪術的力によって調伏するという在り方から、善珠、最澄、空海を経て三界をさまよい苦しんでいる怨霊に対して仏教から説いて聞かせ、成仏することを願う、という形式が確立されたようで、なので今でも祀る、という方法が採られているんですね。そこも日本らしいな。
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怨霊の扱いがその時の為政者の都合の良いようになされていたこと。戦国時代「神仏に祈願したとしてもその結果が変わるわけではなく…合理的な思考方法が優勢になるに従い神仏に対する絶対的信頼心は希薄になっていった…」なるほど。怨霊が政治に使われていたことがわかった。面白い。
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書いてある事柄自体には興味があるのだが、ひとつの事例に対して、参考文献、その中身の紹介、というパターン化された書き方が退屈で、読み物というよりかは資料のようだった。 その為、菅原道真の章と、近代史の章以外はサラッと読んで終わった。 日本中世史が専門の著者なので、かなりたくさん...
書いてある事柄自体には興味があるのだが、ひとつの事例に対して、参考文献、その中身の紹介、というパターン化された書き方が退屈で、読み物というよりかは資料のようだった。 その為、菅原道真の章と、近代史の章以外はサラッと読んで終わった。 日本中世史が専門の著者なので、かなりたくさんの裏付け資料が出てくるのだけど、著者自身の声が見えてこない感じでした。 元々は、文藝2022夏号で、「闇堕ちの哲学 怒りのダークサイド試論」(飯盛元章)という寄稿のなかで紹介されていて、その寄稿が非常に良かったので購入したもの。
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日本三大怨霊は菅原道真、平将門、崇徳院である。このうちの道真と崇徳院の二人が讃岐国の林田と縁がある。道真は讃岐守になり、林田湊で庶民の生活を見て漢詩を作った。崇徳院は保元の乱後に讃岐国に流されて林田郷で生活した。平将門は林田と無縁であるが、将門と同時期に反乱を起こした藤原純友が讃...
日本三大怨霊は菅原道真、平将門、崇徳院である。このうちの道真と崇徳院の二人が讃岐国の林田と縁がある。道真は讃岐守になり、林田湊で庶民の生活を見て漢詩を作った。崇徳院は保元の乱後に讃岐国に流されて林田郷で生活した。平将門は林田と無縁であるが、将門と同時期に反乱を起こした藤原純友が讃岐国府を攻撃した。讃岐国府の海の入口が林田湊であり、林田湊が先ず攻撃された。 道真や将門と比べると崇徳院の怨霊は皇国史観に利用された要素が強い。保元の乱から武士の世になり、天皇の政治的実権が失われた理由を崇徳院の怨霊とする説が明治時代に出た。 むしろ同時代人には承久の乱に敗北して隠岐島に流された後鳥羽院の怨霊の方が印象深い。三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊の祟りとする説が出た。逆に言えば後鳥羽院の怨霊イメージが崇徳院の怨霊イメージに転化した面がある。 それならば皇国史観の立場ならば鎌倉幕府と戦って敗れた後鳥羽院の無念こそ怨霊として重視しそうなものである。しかし、北畠親房『神皇正統記』など朝廷側の歴史観でも承久の乱を後鳥羽院の挙兵自体が失敗と見ており、評価が低い。 後鳥羽院は自身への権力集中を目指しており、公家の多くも後鳥羽院に冷ややかであった。逆に言えば鎌倉幕府が承久の乱に完全勝利したのに朝廷解体とならなかった理由は朝廷側が一丸となって幕府追討を目指した訳ではなかったためである。平家滅亡時は寺社勢力も平家に反発していた。これに対して後鳥羽上皇は寺社の権益も抑制しており、承久の乱の寺社勢力は後鳥羽院と距離を置いていた。 日本の怨霊信仰は虐めた側が自分達の保身のために虐めた相手を怨霊として勝手に祀るものである。鎌倉武士達が後鳥羽院の怨霊の祟りを恐れることは正しい。しかし、公家達にとっては自分達も後鳥羽院の専制の被害者意識を持っており、怨霊として恐れる理由はない。この点は崇徳院とは異なる。 また、後鳥羽院は敗北時の振る舞いが無責任であった。上皇方の武士の山田重忠らが最後の一戦をしようと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて「武士達が勝手に挙兵し、自分の責任ではない」と言い放った。保身第一の無能公務員体質丸出しである。山田重忠は「大臆病の君に騙られた」と激怒した。 この無責任さは後白河法皇と重なる。後白河法皇は源義経に源頼朝追討の院宣を出しながら、義経が敗北すると取り消した。頼朝は後白河法皇の無責任さに対して日本一の大天狗とは誰のことかと憤慨した。後白河法皇の場合は腹黒さ、老獪さを評価することもできるが、後鳥羽院の場合はただただ無責任である。 後白河法皇は、まだ頼朝と政治的駆け引きが成立していた。頼朝は「日本一の大天狗」と激怒したが、逆に言えば後白河法皇を実力で排除できず、罵ることしかできなかった。義経は頼朝への謀反に失敗し、そのまま奥州平泉に落ち延びたと描かれることが多いが、すぐに平泉に行った訳ではなく、しばらく畿内に潜伏していた。 義経の謀反は文治元年(一一八五年)であり、平泉に身を寄せたことが確認できるのは文治三年(一一八七年)である。その間、義経が畿内に潜伏できた背景には反頼朝の公家や寺社勢力の援助があった。その背後に後白河法皇がいたことは容易に想像できることであり、頼朝も強く疑っていた。この後白河法皇に比べると後鳥羽院は自分の権力基盤になる武士達を切り捨てており、保身第一の無能公務員体質が濃厚である。 怨霊として祀る目的は最終的には神として味方にするという現世の人に都合の良い考えがある。とはいえ後鳥羽院は神としてあがめたいとも思わない。このような事情から皇国史観では後鳥羽院よりも崇徳院が怨霊として利用された。 承久の乱では後鳥羽院ら三人の上皇が流罪になった。厳密には土御門上皇は自主的な配流である。これは前代未聞のことである。そもそも天皇の地位にあった人物を流罪にすることがタブーである。保元の乱では、そのタブーを破って四百年ぶりに崇徳院を讃岐国に流罪にした。崇徳院の先例があるから、承久の乱も上皇の流罪になった。崇徳院の祟りを想起したくなり、この点でも崇徳院が怨霊として重視される。
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確かに怨霊ネタって、学校では習わないなあ…。しかし、将門首塚跡地って、逓信省やら大蔵省やらが事故死だ落雷だにビビって逃げ出したの、江戸や明治時代の話じゃないのね。昭和年間になってからなんだってよ。でもって、神田明神の氏子の皆さん、今でも将門調伏を担った成田山新勝寺には参拝してはい...
確かに怨霊ネタって、学校では習わないなあ…。しかし、将門首塚跡地って、逓信省やら大蔵省やらが事故死だ落雷だにビビって逃げ出したの、江戸や明治時代の話じゃないのね。昭和年間になってからなんだってよ。でもって、神田明神の氏子の皆さん、今でも将門調伏を担った成田山新勝寺には参拝してはいけないとされてるとか。ちょっとビックリよ。
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三大怨霊の菅原道真、平将門、崇徳院の話題を期待して読み始めたが、なんとなくぼんやりとした印象しか残らなかった。 第一章の霊魂とは何か、第二章の怨霊の誕生の部分が面白かった。
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歴史学者 山田雄司氏による日本三大怨霊として有名な菅原道真、平将門、崇徳院を通して「怨霊」として恐れられ、「鎮魂」され、神となるまでの過程を通して日本人の霊魂に対する考え方を概観した新書。「戦闘でなくなった後には敵も味方もなく成仏するよう祈願する」、日本独自の「怨親平等」という考...
歴史学者 山田雄司氏による日本三大怨霊として有名な菅原道真、平将門、崇徳院を通して「怨霊」として恐れられ、「鎮魂」され、神となるまでの過程を通して日本人の霊魂に対する考え方を概観した新書。「戦闘でなくなった後には敵も味方もなく成仏するよう祈願する」、日本独自の「怨親平等」という考え方は、これからの時代を生きていく上で重要かもしれないと感じました。「怨霊システム」の形成により、一方の考え方へ傾かないように注意をするためのバランサーとしての役目も担っていたというのは面白い。
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菅原道真・平将門・崇徳院のそれぞれがいかに怨霊と人々に認識されるようになったか、怨霊としての在り方の変化がわかる。そして時代が下るにつれて人を神として奉る方式が変化し、怨霊から一般への幽霊へ、怨親平等という概念が出来るに至る。
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副題のうちの前二者は怨霊の認識があったが、崇徳院を怨霊というイメージは無かった。『「超常現象」を本気で科学する』読了後に本書を手にとったのは、その所見を基に本書を読んだら面白かろうという意図による。道真と将門は生年が重なる部分があり、道真の怨霊による災異を知っていたのではないかと...
副題のうちの前二者は怨霊の認識があったが、崇徳院を怨霊というイメージは無かった。『「超常現象」を本気で科学する』読了後に本書を手にとったのは、その所見を基に本書を読んだら面白かろうという意図による。道真と将門は生年が重なる部分があり、道真の怨霊による災異を知っていたのではないかと思うと興味深い。古代皇族の権力争いから悲運の天皇となった崇徳院は、祟り神にさせられた感がある。『本気で科学する』に書かれたユング提唱のシンクロニシティ=意味ある偶然の一致が、怨霊による怪異を理解するうえで参考になるのではないか。
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