死刑のための殺人 の商品レビュー
すごく酷い事件です。動機がむちゃくちゃで許せませんが、加害者とのやりとりが詳細に書かれており、事件の全貌がよくわかります。
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秋葉原通り魔事件の犯人の手記を読んだ時に、この土浦事件を模倣したわけじゃ決してない。 と、書いてあったけど。触発されたのはかなりあるだろうなぁ。というのはあった。 また、金川被告が死刑になりたいので殺人した。あと一人殺してたら早く死刑になったのに。と。 健康な体はあるが、夢...
秋葉原通り魔事件の犯人の手記を読んだ時に、この土浦事件を模倣したわけじゃ決してない。 と、書いてあったけど。触発されたのはかなりあるだろうなぁ。というのはあった。 また、金川被告が死刑になりたいので殺人した。あと一人殺してたら早く死刑になったのに。と。 健康な体はあるが、夢がなく、自信も希望もない。家族もいて、お金もあるが、心がない。そんな家庭でそだった被告。 全てがうまくまとまり死刑になるために殺人、となった流れ。 誰にでも起こり得る。。 加害者の親としても。被害者としても。被害者の親としても。 まず先に生意気な妹を殺そうと思ってた。人殺してもなんとも思わなかった。と。 読み続ける中で、若者の自殺が急増。それに増して少子高齢化。この日本は、、、一体どうなっていくんだろう。。。と。思ってしまう内容でした。
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それこそ「死ぬなら勝手にひとりで死ね」案件。 犯人の考え方はさっぱりわからないけれど、一言が原因で仲がガタガタに壊れる兄弟関係っていうのはなんだかわかる気がする。地雷が多い者同士が兄弟だと、割とありがちでは。
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2008年3月に発生した土浦連続通り魔事件(2人が死亡、7人が負傷)は、その約三ヵ月後に起きた秋葉原無差別殺傷事件(7人が死亡、10人が負傷)の衝撃にかき消されてしまい、今ではあまり語られることもない。しかしこの2つの事件は、動機の面で著しいコントラストを見せている。後者が自暴...
2008年3月に発生した土浦連続通り魔事件(2人が死亡、7人が負傷)は、その約三ヵ月後に起きた秋葉原無差別殺傷事件(7人が死亡、10人が負傷)の衝撃にかき消されてしまい、今ではあまり語られることもない。しかしこの2つの事件は、動機の面で著しいコントラストを見せている。後者が自暴自棄の衝動殺人だったのに対し、前者は死刑になることを目的とした計画殺人であった。 犯人の金川真大(犯行当時24歳)は、社会的もしくは家庭的に不遇な環境にいたわけではなかった。外務省勤務の父親、パート勤務の母親、妹二人弟一人の六人家族の長男であり、高校時代は弓道部で全国大会にも出たことがあるという。しかし高校卒業後、大学進学はせず就職もせず、ときどきバイトをしてはゲームに明け暮れる毎日を送り、「つまらない」から「死にたい」と思うようになった。しかし自分で自分を傷つけたくはない。そこで国に殺してもらうことにした。確実に死刑になるには、二人以上殺さなければならない。だから事件を起こした。人を殺しても死刑にならないならば、そもそも事件を起こさなかった、とまで言っている。そのとき背中を押したのが、永井均の『子どものための哲学対話』だったという。 「世の中がきみに与えることができるいちばん重い罰は死刑だね? 死刑以上の重罰はないだろ? ということはつまり、世の中は、死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ」 『子どものための哲学対話』で展開されている永井の道徳論は、彼の他の著作に較べればはるかに控え目なものである。永井はいたるところで「なぜ人を殺していけないのか」と問い、挙句の果てには「人を殺してもいい」とまで言っている。独我論的見地に立てば、永井の道徳論を論破することは困難もしくは不可能だろう。 しかしその言葉とは裏腹に、永井は人を殺したことがないし、おそらく今後も殺すことはない。なぜか。彼は哲学者だからだ。そして哲学とは言葉であって行為ではないからだ。哲学は行為には関わろうとしない。思想を自由に飛翔させるためには、行為という足枷があってはならない。そのため哲学者は往々にして、言行不一致というジレンマに陥る。 しかし金川は哲学の世界には足を踏み入れず、殺人を実行した。言葉ではなく行為を選んだ。永井均がこの事件後、道徳論に関してほとんど口をつぐんでしまったのは、責任を感じたからではなく、行為を棚上げにして言葉を弄んでいる自分の姿を、金川によって逆照射されたからではなかったか。 死刑制度は死への恐怖という大前提に基づいて成立している。その大前提が崩れたとき、死刑制度は無効とならざるをえない。しかし金川は本当に、その大前提に当てはまらない例外だったのだろうか。 本書を読む限り、そのような印象は持てなかった。彼は永井がしばしば思考実験に登場させる道徳的異邦人ではなく、道徳的異邦人を演じていただけだったと思う。せめて死刑執行を遅らせて、彼の本音が聞けるまで待つべきだったと思うのだが、まるで挑発に乗ってしまったかのように、あまりにもあっさりと死刑が執行されてしまったのが残念でならない(2010年死刑確定、2013年死刑執行)。 興味深かったのは、金川家における砂漠のような人間関係であった。上の妹と母親は口を利かず、筆談によってコミュニケーションしていたという。長男の事件についても家族は「死刑でいい」と言うだけで、だれも兄をかばおうとはしない。附属池田小事件の犯人である宅間守の父親も、自分の息子に死刑を望むような発言をしていたことを思い出す。 感傷的な憶測は避けたいが、二人称的他者の欠落が同情の育成を妨げるように思われてならない。金川がゲームという二人称なき世界に入り浸っていたという事実も象徴的である。IT化が進み二人称が排除される現代社会において、このような事件は今後も増えるのかも知れない。
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2008年3月に茨城県土浦市で起きた、凄惨な連続通り魔事件を覚えている人も多いだろう。 本書は、9人もの無関係な人を殺傷し、その目的が自分が死刑になるためだったという前代未聞の事件の犯人、金川真大死刑囚(2013年執行)に面会を繰り返し、取材した記者によるものである。 事件につ...
2008年3月に茨城県土浦市で起きた、凄惨な連続通り魔事件を覚えている人も多いだろう。 本書は、9人もの無関係な人を殺傷し、その目的が自分が死刑になるためだったという前代未聞の事件の犯人、金川真大死刑囚(2013年執行)に面会を繰り返し、取材した記者によるものである。 事件については、もう何も言うまい。 金川に何があろうと、取り返しのつかない重大な事件を起こしてしまった責任を取るのは当然で、罪を償う義務がある。やったことの重大さ、身勝手さを考えれば、現行の司法制度では死刑が相当というのは疑う余地がない。 だがしかし、死刑になることが望みだった場合、果たしてそれは刑罰になり得るのだろうか。死にたくない、生きたいという思いがあるからこそ死刑という極刑が意味を持つのであって、死刑を切望する人間に下す判決としてはむしろ、報酬ともなり得るのではないのか。 死刑になりたかった金川にとっては、生きる「苦しみ」を与えることこそが罰としてふさわしかったのではないか。 やはり行きつくところは、「罪を償うとはどういうことなのか」という答えの見えない問いなのだ。 「生きてこそ、罪は償うことができる。死でしか償えないほど大きな罪もある。でも、死ねば償えた、と言えるんだろうか。罪を償うとは、どういうことなのか。どうすれば償えた、と言えるんだろう━。」 金川の心を知ろうと面会を繰り返し、糸口を探した記者の言葉はそのまま、司法が抱える永遠の問いとも言える。 亡くなられたお二人のご冥福を心よりお祈りいたします。
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「死刑になりたい」だけが動機の連続通り魔殺人事件の犯人に40回近く面会した新聞記者による本 事件の真相に迫ろうと面会を重ねた姿勢は立派だと思うし,このような犯罪者が現れた背景には現代の日本社会を覆う閉塞感があるという見解には説得力があったが,次のような,本の主題とは離れた部分が気になってしまって,イマイチ評価する気になれない。 著者によると,犯罪直後に被害者に取材して心境を質問するのは,(報道により)被害者の気持ちを多くの人に理解してもらうことにより新たな犯罪の防止につなげることが目的であるとのこと。 それは「報道側の論理」であると認識し,被害者に過大な負担を負わせることになることを心苦しく感じてはいるようだが・・・それ以前に,この論理自体が幼稚というかこじつけというか・・・に思われる。(極論すると,読者を,被害者の気持ちを想像することさえできない犯罪予備軍扱いしていることになるではないか。) 本当に,著者は(そして,多くの新聞記者は)このような論理を信じて,被害者を取材しているのだろうか? 【メモ】 死刑になることが目的の犯罪者にとって,当然ながら,死刑は犯罪抑止力にはならない。 死刑確定後の独房での生活は,犯行前の引きこもり生活と大差はなく,拘禁生活の苦しみがあったか疑問,というのが著者の意見 現行法では,ドナー登録していても,死刑執行後の臓器移植はできないらしい。(福島瑞穂氏が行っている死刑囚アンケートへの,他の死刑囚の回答から)
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図書館で借りた本。 2008年3月、一人の男が死刑になることを目的として、連続通り魔事件を起こした。 そこだけ聞くと、死にたかったら自殺すればいいのに。誰にも迷惑をかけない方法はあっただろうに・・・。と思う。 しかし、この男は人を殺すことと蚊を殺すことは同じだと言い放った。 そして、自らを「ライオンやクマと同じ」である。ライオンは、シマウマを殺すときに罪悪感も善悪も考えないからだと。 ライオンは生きるためにシマウマを殺して食べているのであって、この男は死ぬために同族を殺しているのだから、まったく次元の違う話なのに。 ライオンは、殺される動物に対して敬意を払って、殺した動物は責任を持ってちゃんと食べるという事を自分に課している。こいつ、まずいな。やっぱりあっちのやつがおいしそうだ。と言って、最初に殺した動物を残して別の獲物を追いかけるなんて、聞いたことない。 表面だけ見て、かっこいい部分だけ自分と重ねるなんて、浅はかで幼稚だと、怒りを感じた。 そして、死刑を望むものに、簡単に死刑という判決・執行を与えても良いのだろうか。 行き地獄の中で、自分のしたことの罪の重さに苦しむ時間を与えてほしかった。
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犯人、金川の両親は家庭に問題が発生しても何か言い訳をつけて、問題と直接対峙せず後回しにし続けている印象。 金川真大もそんな両親の姿を見て、家族や友達に相談してもしょうがない、という想いを持ったのかも知れない。 そして、彼自身も就職や進学という問題に対して、それを乗り越えるだけの力を身に付けることなく「人を殺せば死刑になる」という安直な方法しか思いつくことが出来なかったのだろう。 ずっと反省の言葉がなかったという金川だが、絞首刑になる本当に最期の瞬間、何と言葉を残したのか、または何も言わないまま刑に服したのかが気になった。
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二〇〇八年に起きた、土浦の連続通り魔、金川真大の生涯を追った本。 究極の状況に置かれた人間たちの、こんなぶつかり合いがあるものか。もはやドラマ。 「死刑になるために殺人を犯した」、この一点張りをする金川に対して、なんとかひととしての感情を持ってほしい、と働きかけ続ける記者たち。 ...
二〇〇八年に起きた、土浦の連続通り魔、金川真大の生涯を追った本。 究極の状況に置かれた人間たちの、こんなぶつかり合いがあるものか。もはやドラマ。 「死刑になるために殺人を犯した」、この一点張りをする金川に対して、なんとかひととしての感情を持ってほしい、と働きかけ続ける記者たち。 「砂漠のような」と形容されるその家族。父親が尋問されるシーンには、ことばを失った。 人間が人間に対してできること、の限界を感じる。ほんとうに、あっさりと死刑にしてしまってよかったのかと、考え続けたい。
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死刑になりたいと言って 無差別殺人をおこなった犯罪者。 新聞社の記者として とてもていねいに報告しています。
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