完本 ベストセラーの戦後史 の商品レビュー
▼どうやら平成初期?に文芸春秋に連載されたもののようです。戦後、1年ごとにその年のベストセラーを取り合げて、世相や自分史含めて考察・随談を行う趣向です。井上ひさしさんは1934年生まれ、つまり1945年の終戦時11歳前後。なので戦後史は<自分史>になるわけです。 ▼大変にオモシ...
▼どうやら平成初期?に文芸春秋に連載されたもののようです。戦後、1年ごとにその年のベストセラーを取り合げて、世相や自分史含めて考察・随談を行う趣向です。井上ひさしさんは1934年生まれ、つまり1945年の終戦時11歳前後。なので戦後史は<自分史>になるわけです。 ▼大変にオモシロかった。戦後直後の英会話本から始まって、「太陽の季節」や「人間革命」など、その時々の気分や生活感覚が肌理細かく伝わると言いますか。無論、ある程度本好きで、かつ昭和に関心や知識がある…という前提が読む側に無いと楽しめないかも知れませんが。 ▼「論文の書き方」なぞは、「へえ、読んでみようかな」と思いました。また、渋い文学者だったはずの伊藤整さんが突如売れたくだりも興味深く読みました。 ▼井上ひさしさんは、十代の頃からよく読んだんですが、どうも長年読んできた結果として個人的には ・小説よりも戯曲の方が好き。 ・小説よりもエッセイの方が好き。 ・エッセイの中でも、本書のような「コンセプト外枠が決まっている文章が好き」 ということが分かってきました。……とは言いながら、井上ひさしさんの小説もケッコウな数を読んでるんですけれど(読んでいるから上記の感想になるのですが)。
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年々の売れ本を回想分析しつつ、孤児院で善意の神父たちに育てられた昶少年が「コメディアン立身出世の東大」浅草フランス座・演出を経て「井上ひさし」となるまでの個人史でもある 後半’57原田康子『挽歌』ストリップ劇場は、インテリも楽しむ知的娯楽であった。挽歌の広告写真の雪景色情景を演出して好評、夏場までロングラン 66年、巨大組織が購買力となった池田『人間革命』からは「売れる本」の質が違うように感じる/’69羽仁五郎は「笑いが止まらない」と言った版元勁草書房に「値段を半分にしなさい」と廉価版の発売が決まった/同年、知的生産の技術
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思わず読みたくなる本の紹介文っていいですね。これもそうした一冊かなと。『日本沈没』『日本以外全部沈没』をオンライン書店に発注しちゃいました。
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【あなたは何冊読みましたか?】『日米會話手帳』『太陽の季節』『性生活の知恵』『日本列島改造論』等、話題書35冊。稀代の読書家による「体験的出版史」の傑作!
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・井上ひさし「完本 ベストセラーの戦後史」(文春学藝ライブラリー)を読んで、私は何とベストセラーと縁遠い読書生活を送つてきたかと改めて思ふ。本書は終戦直後の昭和20年から高度成長を終へた昭和52年までのベストセラーを対象とする。私はそれらを1冊も読んでゐない。まともに読書するやう...
・井上ひさし「完本 ベストセラーの戦後史」(文春学藝ライブラリー)を読んで、私は何とベストセラーと縁遠い読書生活を送つてきたかと改めて思ふ。本書は終戦直後の昭和20年から高度成長を終へた昭和52年までのベストセラーを対象とする。私はそれらを1冊も読んでゐない。まともに読書するやうになる以前も以後も、とにかくここで採り上げられてゐる書は1冊も読んでゐな い。今も昔も、私は売れる本に背を向け続けてきたものだと思ふばかりである。それに対して井上ひさし、本書の記述から、この中のかなりをその時点で読んだと思はれる。帯に「稀代の読書家が遺した体験的読書論の傑作」とある、この体験的とは、正にベストセラーを同時代人として読んだといふことであらう。 ・例へば昭和31年、石原慎太郎「太陽の季節」と書いてふと思ふ、これは読んだ、単行本としてではなく作品としてこれだけは読んだと。さうすると、1冊は、いや一編は読んでゐたことになる。文学史に出てくるし、例の場面が気になつたからといふ、ただそれだけの理由で読んだのであつた。これでも一種の体験的読書論になるのであらうが、井上のはこんなものではない。正に同時代人として「太陽の季節」を読んだ、感じたのであつた。「当時の大人たちはこの作品の持つ『反倫理性』に驚愕したようだが、筆者たちはもっと単純に小説の登場人物たちの『豊かで優雅な暮らしぶり』に仰天したのである。」(135 頁)この頃、井上は「大学に復学して仏語科の一年生、生活費を稼ぐために浅草フランス座の文芸部で働いていた。」(134頁)月給は5,000円前後であつたといふ。それなのに「太陽の季節」の登場人物は「金の苦労をしている形跡がない。多少、苦労するとしてもそれは遊ぶ金の工面で云々」(135頁)だか ら自分とは大違ひだといふのである。その一方で世間は慎太郎ブーム、文壇は「太陽の季節」論争、ベストセラーになる所以である。それを井上はどう評価する か。「人々にとって師表となるべきものが何ひとつないという新しい次元に時代はすべり込んでいた。」(141頁)から慎太郎の新しい処世訓「自分が一番し たいことを、したいように行ったか」(同前)が必要だつたとするのである。さうして「筆者などもそのころ髪型を慎太郎刈りに変えていた。」(142頁)といふのだから、単純に体験といふだけの話ではない。本書は、この年あたりから井上の仕事に関する記述が増えていく。最初は浅草中心だが、後にはNHKが出てきたりする。つまり放送作家として食つていけるやうになつていく。そんな井上の身辺とベストセラーが微妙にシンクロする。時には「太陽の季節」のやうに見事にシンクロしたりもする。本書は単なる読書論、作品論である以上に、井上の生きた時代と言はば成長過程を知ることのできる書である。放送作家駆け出しの頃、北杜夫の番組を作つた。「番組は大変な評判を呼んだ。もっとも筆者の方は、出演者と一緒に浮かれたのはフマジメだというので番組を下ろされ」 (282頁)たのだつた。どくとるマンボウ氏であればそれでかまはないと思ふのだが、スポンサーありではさうもいかなかつたらしい。そして劇作家として大成した後、有吉佐和子に「華岡青洲の妻」を戯曲化したいといひ、その題名は「華岡青洲の妾」だと言つたところ、有吉は「それから以後、亡くなられるまで、 二度と口をきいてくださらなかった。」(341頁)といふ。固有名詞つきの一連の戯曲に近い作品を考へてゐたのかと想像すると、有吉との資質の違ひがよく分かつておもしろい。事ほど左様、本書の体験=事実は小説より奇なりであつた。
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一つ一つは、井上独特の軽妙な筆で自らの思い出話をまぜてその当時の世相を描写しているのだが、全部通して読むと、戦後がどう変わっていったのかが、すっと沁み込むような気がして、震える。
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