“辞書屋"列伝 の商品レビュー
辞書にとりつかれた不思議なひとたちの評伝。中公新書なのに、くすくす笑って読めます。(2014年4月1日読了)
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映画化もされた小説『舟を編む』(未読)で辞書編纂という仕事が 注目された。世に数多ある辞典・辞書。その裏には「言葉」と いう魔物と格闘した多くの人がいた。 自らも『カタルーニャ語辞典』を編纂した著者が、辞書編纂者たち を「辞書屋」と呼び、その人物像と仕事を追ったのが本書...
映画化もされた小説『舟を編む』(未読)で辞書編纂という仕事が 注目された。世に数多ある辞典・辞書。その裏には「言葉」と いう魔物と格闘した多くの人がいた。 自らも『カタルーニャ語辞典』を編纂した著者が、辞書編纂者たち を「辞書屋」と呼び、その人物像と仕事を追ったのが本書である。 オックスフォード英語辞典のボランティアのひとりに犯罪者であり 精神に異常を来していた人物がいたのは結構有名な話。これだけ で『博士と狂人』なる作品が出ているものね。 神の言葉であったヘブライ語を庶民の言葉にしようする為に奮闘 したベン・イェフダー。『アメリカ英語辞典』のノア・ウェブスターや 『言海』の大槻文彦などもそれぞれに評伝がある。 本書の中で最も興味を惹かれたのは『西日辞典』の照井亮次郎 と村井二郎だ。移民としてメキシコへ渡り、調査団の報告とは まったく違う悪条件の土地で言葉も分からず辛酸を舐めた人々 の経験から生まれた辞書なんだね。 そして、話し言葉はあったが書き言葉がなかったカタルーニャ語の 辞典編纂の話。カタルーニャ語のように書き言葉がない言葉って 世界にはまだあるんだろうね。書き言葉を一から構築するって 大変な作業だろうな。 以前、辞書編纂者の方と話す機会があった。多くの時間をかけた 辞書もいざ出来上がってみると、早速直したい箇所が出て来る とか。 言葉は時代と共に変化する。辞書編纂の仕事には本当の終わり というものはないのかもしれない。 著者がカタルーニャ語の辞書編纂者だから仕方ないのかもしれない が、少々スペイン関連に偏り過ぎかな。最終章で自身の編纂経験を 記すのなら、少し系列違いの言語の辞書編纂者を取り上げて欲し かったな。その点が少々残念だ。
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カタイ本かと思いきや、語り口は読みやすく内容もおもしろかった。 世に数多ある辞書、その中からオックスフォード辞典やヘブライ語、カタルーニャ語などを選んで、それを作った人を紹介している。どれもとにかく時間がかかっているところにまず驚く。何十年と・・・完成を見ずに亡くなった人もいると...
カタイ本かと思いきや、語り口は読みやすく内容もおもしろかった。 世に数多ある辞書、その中からオックスフォード辞典やヘブライ語、カタルーニャ語などを選んで、それを作った人を紹介している。どれもとにかく時間がかかっているところにまず驚く。何十年と・・・完成を見ずに亡くなった人もいるというから、まさに人生をかけての大事業だ。 辞書がなければそのまま消えていたかもしれないヘブライ語などを、なんとか残そう、復活させようと尽力した人々の様子はドラマティック。同胞からの批判や無理解、資金繰りなどに苦しみながら・・・本当に、じんとくるものがある。 辞書という存在が、言語の存続にまず必要だというのが、なんというか目からウロコだった。
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自分の中で“辞書本”不動の第1位は高田宏『言葉の海へ』、第2位は『舟を編む』なんだけど、第3位に急浮上してきたのが本書。 ちょっと時系列がわかりにくい文章もありますが、一人ひとりの“辞書屋”のエピソードが面白くて、あっという間に読んでしまいました。 ただの字引としての辞書ではなく...
自分の中で“辞書本”不動の第1位は高田宏『言葉の海へ』、第2位は『舟を編む』なんだけど、第3位に急浮上してきたのが本書。 ちょっと時系列がわかりにくい文章もありますが、一人ひとりの“辞書屋”のエピソードが面白くて、あっという間に読んでしまいました。 ただの字引としての辞書ではなく、国家や民族の証としての辞書を、使命感をもって作り上げていく“辞書屋”たちがなんと魅力的なことか。 『ヘブライ語大辞典』と『スペイン語用法辞典』の話が特にお気に入り。これ、誰かがもっと長い小説に仕立て上げてくれたら面白いと思うんだけどなぁ。
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新幹線の中で一気読み。三浦しをん「舟を編む」で興味を持った辞書編纂の世界を事実に基づいて紹介。文章が流麗で読みやすく、小説を読んでいるように次々に逸話が紹介される。辞書は文化だと感じ入る。面白い。星6つ!
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田澤さんは大学を出た後、東京銀行に入り、そこからバルセロナに留学させてもらう。しかし、そこでの言語はスペイン語ではなくカタルーニャ語で、この言語体験によって田澤さんは言語に対する興味を覚える。バルセロナで研修、仕事を含め3年過ごしたあと、勉学の夢さめやらず大阪外大に進み、カタルー...
田澤さんは大学を出た後、東京銀行に入り、そこからバルセロナに留学させてもらう。しかし、そこでの言語はスペイン語ではなくカタルーニャ語で、この言語体験によって田澤さんは言語に対する興味を覚える。バルセロナで研修、仕事を含め3年過ごしたあと、勉学の夢さめやらず大阪外大に進み、カタルーニャ語についての修士論文を書き上げた。卒業後、長崎の短大、関西の外大に就職した。だが、その二つの大学では留学ができないと悟ると、奥さんの後押しもあってバルセロナ大学へ学位をとるために留学するのである。このときもスペイン政府の留学給付試験に通り、さらに、バルセロナ大学日本語講座の初代講師をいう職まで得るのである。どこまでも運の強い人である。そこでかれは辞書学というものを知り、カタルーニャ語と日本語の二言語辞書について博論を書きあげる。そんな田澤さんだから、本書もスペイン語、カタルーニャ語の辞書を編んだ人の伝記が中心となるのだが、OED、ウエブスター、『言海』、『英和対訳袖珍辞書』などは特に新しいものを感じられない。とりわけ、『袖珍』の編者堀達之助の記述は吉村昭の『黒船』をそのままもってきたかのような書きぶりである。しかも、この辞書の編纂過程の研究は吉村昭が『黒船』(1991)を書いたときから随分進歩しているのに、吉村段階で終わっている。日本語学の櫻井豪人の論考、少なくとも堀孝彦『開国と英和辞書 -評伝・堀達之助』(港の人)には目を通していないといけない。どこかの新聞の書評でも述べていたが、そもそも、ぼくはこのタイトルの<辞書屋>という呼び方にひっかかる。実は、一年ほど前、ぼくは『字幕屋のニホンゴ渡世奮闘記』という本の書評もこの欄で書いていて、そのときはほとんど抵抗を感じなかったのだが、この本にはひっかかる。田澤さん自身が、「辞書というものは理論だけではできない。極論すれば辞書に大した理論などいらない」というのは辞書編纂者に対する冒涜、侮蔑ではないか。田澤さんからすれば、辞書屋は職人芸であるといいたいのだろう。しかし、辞書についてはそれを使うのはふさわしくない。ここで列伝を立てられている人たちも辞書屋と呼ばれてあの世でよろこんでいるだろうか。
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どんなものにも歴史という物語があって、それを知ることはとても楽しい。久しく辞書を読むということをしていなかったけれど、頁をめくってみようかと思わせられた。
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