こころは体につられて(上) の商品レビュー
スーザン・ソンタグには近寄りがたい印象を抱いてきたので、遅まきながらこの「日記とノート」に手を伸ばした。彼女が実に個人的に/赤裸々に記した本音の数々からは、彼女の「ナマの思考」が見えてきて興味深い。もちろん彼女がきわめて聡明だったことは間違いないが、同時に彼女を突き動かしてきたの...
スーザン・ソンタグには近寄りがたい印象を抱いてきたので、遅まきながらこの「日記とノート」に手を伸ばした。彼女が実に個人的に/赤裸々に記した本音の数々からは、彼女の「ナマの思考」が見えてきて興味深い。もちろん彼女がきわめて聡明だったことは間違いないが、同時に彼女を突き動かしてきたのはまさにタイトルにもある「体」、もっと言えば女性であるというセクシャリティや身体に刻み込まれた数々の記憶、あるいは情動といったものだったのではないか。「こころ」と「体」の間で揺れ動くソンタグの脳のせっかちな動きがスリリングに思える
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今年で早くも没後10年となるスーザン・ソンタグが生前に残した日記は、編集者・作家である息子デイヴィッド・リーフによって刊行が進められている。第1巻の『私は生まれなおしている 日記とノート1947-1963』の続編として出されたのが、今回の『こころは体につられて 上 日記とノート...
今年で早くも没後10年となるスーザン・ソンタグが生前に残した日記は、編集者・作家である息子デイヴィッド・リーフによって刊行が進められている。第1巻の『私は生まれなおしている 日記とノート1947-1963』の続編として出されたのが、今回の『こころは体につられて 上 日記とノート1964-1980』(河出書房新社)。たぶんすぐに本書の下巻が出るだろう(原書は一冊として出版されている)。なお、表紙の図版はアンディ・ウォーホルによるものだ。 思春期の性欲の芽生えと、レズビアンとしての自覚、若すぎる結婚と出産がからくる苦悩が赤裸々に綴られた前作とは打って変わり、今回の続編では、一般の家庭人としては生きられぬと観念したひとりの女性が、三十路を迎え、いよいよ文芸とアート、映画、演劇の吸収へと埋没していく日々が綴られる。広がる好奇心はやがて、初期の代表的著作『反解釈』(1966)に結実していくだろう。文人としての自覚がかえってここでは、日記記述の断片化、断章化、自動筆記化を促しているようにも思える。 前作でソンタグは、レズビアンの恋人アイリーンの日記を盗み読みしてしまい、アイリーンが自分のことを蔑視していることを知り、苦悩していた。そして「日記というものは自分が今そうしているように、いずれ家族や恋人に盗み見される運命にあり、また潜在的には盗み見されることを前提としたテクストであるかもしれない」旨を綴っている。本書ではこれを進めて、この日記を将来誰かが読んで、私のことに親しみを感じてくれたらいいとまで書いている。絶望、離反は深まっている。「独りっきりだ──愛されていないし、愛する相手もいない。世界中で私がいちばん怖れてきたことだ。でも、まだ生きている。」 昨年3月、梅本洋一の葬儀会場の片隅に、梅本の書棚の一部が再現された。そのなかに「死の当日まで枕頭に置かれた数冊の読みかけの書」というコーナーもあって、私はこのなかに『私は生まれなおしている 日記とノート1947-1963』を発見した。つねづねアメリカの批評に対し疑念を隠さなかった彼が、最期の日々のなかでソンタグを再読していたことを、心ひそかにうれしく思った。私が彼にソンタグの面白さを語ったことに対して、彼も反応してくれていた証だと思ったのだ。
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ソンタグ31~35歳までの日記とノートで、この時期「反解釈」を上梓している。自分を隙間無い程満たす希求に駆られ、劣等感や飢餓感を抱きながら、膨大な書物、絵画、映画を吸収している。また母親や過去に恋愛した相手との関係を、幾度も思い返し、強靭な思考で分析し、トラウマを越えようとする姿...
ソンタグ31~35歳までの日記とノートで、この時期「反解釈」を上梓している。自分を隙間無い程満たす希求に駆られ、劣等感や飢餓感を抱きながら、膨大な書物、絵画、映画を吸収している。また母親や過去に恋愛した相手との関係を、幾度も思い返し、強靭な思考で分析し、トラウマを越えようとする姿が浮かぶ。“私は「何かを言っている」のではない。「何か」が声を上げることをよしとしている”が印象的。世界を旅し、自国を冷静に分析する様子が、後の著作で若い人に訴える言葉に重なる。
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日記は、酔っぱらった時に書いたほうがいいし、酔っぱらった時に読んだほうがいい。どうしようもないことでいちいち泣けてくるので。前作「私は生まれなおしている」に続く2巻目の日記で、31−35歳の記録。失恋と戦争。
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