公共性 の商品レビュー
今年1番の読書体験。刊行当時(2000年)の日本の現況に触れながらアーレントの思想を語っていくのでどんどん頭に入ってきた。さらに、社会から疎外されている人々の存在と自分の関わり方とあるべき姿について考える言葉が沢山で何度も読み返したい。人と人の間に世界があるのであって、誰かがいな...
今年1番の読書体験。刊行当時(2000年)の日本の現況に触れながらアーレントの思想を語っていくのでどんどん頭に入ってきた。さらに、社会から疎外されている人々の存在と自分の関わり方とあるべき姿について考える言葉が沢山で何度も読み返したい。人と人の間に世界があるのであって、誰かがいなくなると世界が一つなくなってしまうということ。そして誰とも世界を共有できない人がいること。もう一度原典に当たってみる。何を言ってるのか考える。一つのテーマになる。
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「誰」と「何」の話はとても面白かった。 公共性を出発点に個人が持つ姿勢の話まで書かれていて、割と作品鑑賞にも通ずる話(特に現れの空間)もあり、楽しく読めた。
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公共性とは何なのか、逆に、公共性とは何でないのか。著者はアーレント、ハーバーマスらの記述を用いて、国家と市場の双方から区別される市民社会の領域を描き出す。人々が互いの生と彼らの間に生起する出来事への関心をメディアに結びつく領域としての公共性。しかし、それはユートピア的空間ではない...
公共性とは何なのか、逆に、公共性とは何でないのか。著者はアーレント、ハーバーマスらの記述を用いて、国家と市場の双方から区別される市民社会の領域を描き出す。人々が互いの生と彼らの間に生起する出来事への関心をメディアに結びつく領域としての公共性。しかし、それはユートピア的空間ではない。著者は、その内部に存在する権力的非対称や周辺化の圧力に触れつつ、ハーバーマスやアーレントの「公と私の境」に関わる主張を批判的に汲んで公共性の概念に新たな解釈を付け加えている。
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ハーバーマスやアレントによって論じられた「公共性」の概念のもつ現代的な意義についてわかりやすく紹介するとともに、著者自身の立場から批判的に検討をくわえ、公共性のもつあらたな可能性を切り開こうと試みている本です。 著者は、ハーバーマスの公共性が言説の政治的なレヴェルに限定されてい...
ハーバーマスやアレントによって論じられた「公共性」の概念のもつ現代的な意義についてわかりやすく紹介するとともに、著者自身の立場から批判的に検討をくわえ、公共性のもつあらたな可能性を切り開こうと試みている本です。 著者は、ハーバーマスの公共性が言説の政治的なレヴェルに限定されていることを批判し、アレントの公共性の議論により高い評価を与えています。しかしアレントに対しても、フーコーが生権力の問題としてあつかった広大な領域を公共性の空間から切り離し、もっぱら行政権力に預けてしまったことは大きな問題をのこしていると指摘します。そのうえで、公共圏と親密圏がどのようにかさなりあっているのかという問題を提起し、その具体的な絡みあいのなかから公共性をよりダイナミックな機能をもつものとして把握するような思索の道筋を示そうとしています。 「思考のフロンティア」シリーズは、比較的執筆者の問題関心に引き付けたかたちでそれぞれのテーマがあつかわれており、本書も著者自身の考えがある程度明確に打ち出されています。その一方で、主にアレントの公共性の概念が現代の政治哲学・政治思想に与えたインパクトについてわかりやすく解説がなされており、このテーマについてこれから学ぼうとする読者にとっても有益な手引きとなっているように思います。
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公共性の概念がこれほど重要なものであるとは全く知らなかった。人間という存在を理解するためのキーポイントであり、石工が石目を発見したような感じである。再読、再再読が必要だ。
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齋藤純一の著作。 公共という言葉の持つ多義性が詳しく述べられている。主にアーレントとロールズの政治観を中心にして、現代における政治の欺瞞と在り方を追求していく。
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公共性について述べているんだけど、積極的な定義というよりは消極的な説明という感じで、かつ非常にわかりにく文章だった。そのため、理解できていない。 他の人の言葉を引用していること、普段使わない言葉を多用していることなどが原因だと思う。
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Who と What の区別と前者の重視。 What=共同体の名ではなく、Who =共訳不可能な個人との付き合い。 Whoを前提とする公共性。 (一神教の一神教性を去勢し、一神教を多神教の一部として受容してきた日本において、つまり、ずぶずぶの共同体思考を引きずった日本において「共...
Who と What の区別と前者の重視。 What=共同体の名ではなく、Who =共訳不可能な個人との付き合い。 Whoを前提とする公共性。 (一神教の一神教性を去勢し、一神教を多神教の一部として受容してきた日本において、つまり、ずぶずぶの共同体思考を引きずった日本において「共訳不可能な個人」を掲げることに「可能性」があるのか?)
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「公共性」ついて、とても深く新鮮な考察がなされている良書であることは間違いない・・・ただ難解すぎる。 個人のアイデンティティが複数性(家族、会社、民族的共同体、国民国家etc)を帯びていること、そして、それぞれのアイデンティティの「間」が重要で、そこに「精神の生」が宿っていると...
「公共性」ついて、とても深く新鮮な考察がなされている良書であることは間違いない・・・ただ難解すぎる。 個人のアイデンティティが複数性(家族、会社、民族的共同体、国民国家etc)を帯びていること、そして、それぞれのアイデンティティの「間」が重要で、そこに「精神の生」が宿っているということ。ムムム。 もうちょっと噛み砕くと、家族の一員である自分、会社の社員である自分、日本人である自分、などなど「自分」を形作っているアイデンティティは複数の面を持っていて、例えば、どれかが重要になることはあっても、他が消滅することはない。 この複数のアイデンティティの「間」を移り動くことが、自分の生の真髄ということではないだろうか? 更に、公共的なものに置き換えれば、様々な人々がいて、それが複数のアイデンティティをもたらし、そのアイデンティティの間(=人々の間)に「公共の生」があると読み取りました。 つまり、人々の間(=人と人の関係性)が重要であって、「公共的空間」を形成しているということだと・・・ こもまで一生懸命にレビューを書いてきましたが、ここまで書いてやっぱり分からなくなってしまいました。トホホ この本に引用されている、ハンナ・アーレントとユルゲン・ハーバーマスについてもう少し勉強してから再読しようと思います。 きっと良書。
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コンパクトにまとめられた本だが内容は濃い。 アーレントやハーバーマスの重要さを踏まえ、公共性と共同体を区別する新しい視点でその可能性を論じている。未来につながる本だと思う。
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