日本美を哲学する の商品レビュー
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大西克礼をはじめ、近代以降の日本の美学者や思想家の説を参照しながら、日本の美意識と芸術についての考察をおこなっている本です。 本書は二部構成となっており、第一部では「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」という四つの美的価値観を表わすことばをめぐる議論が展開されています。著者が直接依...
大西克礼をはじめ、近代以降の日本の美学者や思想家の説を参照しながら、日本の美意識と芸術についての考察をおこなっている本です。 本書は二部構成となっており、第一部では「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」という四つの美的価値観を表わすことばをめぐる議論が展開されています。著者が直接依拠しているのは、近代日本の美学者である大西克礼ですが、唐木順三、大森荘蔵、井筒俊彦、九鬼周蔵といった思想家たちの議論も随時参照しながら、それぞれのことばに込められた意味について論じています。著者は、「あはれ」論は世界の本質をどのように認識するかという問題であり、「幽玄」論は世界をどのように超越するかという問題であり、そして「さび」論はいったん離脱した世界をどのように回復するかという問題であるといいます。また「いき」論は、自己のうちに「無」を抱えた存在であるわれわれが、それにもかかわらずどのようにして他者との開かれた関係をもつことができるのかという問題だと論じられています。 第二部では、茶の湯、建築と庭園、演劇、仏像といった芸術の諸ジャンルについての議論がなされています。もっとも、それぞれのジャンルについて概論的な説明がなされているのではなく、建築論では和辻哲郎の『桂離宮』がとりあげられ、演劇論では近松門左衛門の『曾根崎心中』があつかわれており、芸術をテーマとする著者の独立した論考として読むことができる内容になっています。
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2017.7.24 思った以上の面白かった。もののあはれ、幽玄、さび、いき。共通して言えるのは、そこには一つの形があるのではなく、無を介入することによる曖昧さがあるということ、そして日本人は、マイナスの価値から反転させてプラスの価値を見出してきた、ということである。 もののあはれ...
2017.7.24 思った以上の面白かった。もののあはれ、幽玄、さび、いき。共通して言えるのは、そこには一つの形があるのではなく、無を介入することによる曖昧さがあるということ、そして日本人は、マイナスの価値から反転させてプラスの価値を見出してきた、ということである。 もののあはれは、苦しみを契機として世界の形而上学的な本質に到達することである。それはフッサールのいうような間主観性による本質ではなく、個体的本質への希求である。 幽玄は、すでに形あるものを曖昧にすることで、つまり無を介入させることによる美の追求であり、異化作用の一つのようにも思える。ここ最近、言葉にすることそのものによって失われる何かがあることを考えているが、人間の心はどうやらそういうものらしい。 さびもまた、退廃、侘しさの中に、時間的なマイナス化に対してプラスの価値を見いだすことである。それは老朽化した建物や、老人に感じる、シワと傷の美しさということもできる。 いきはこれらとは違い人間関係の美学である。そこには、求めながら決して合一することのない、可能性の中にとどまり続ける心性がある。無の介入とはつまり、この可能性の中にとどまり続けることを意味するのかも知れない。 個体的本質、可能性の中にとどまり続ける、価値の反転、これらの思考法は私にとって新鮮であり、西洋的理性主義に対する一つのアンチテーゼのようにも思える。頭の論理ではなく心の論理。
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