「学ぶ」ということの意味 の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
「学ぶということは、予想の次元ではなく、むしろ希望の次元に生きることではないだろうか」とあった。希望の次元がなければ、よく学ぶことはできない。人口減少社会という地域での「予想」(絶望)や、死という個人での「予想」(絶望)をいかに展望として変えていけるのだろうか。生徒自身を見る前に、周りの関係や次元から見ていきたい。 また、they的世界をともに見つめるという関係で、初めてyou的世界が作り出される。互いに向き合うから、立場や権力が顕在化する。課題解決や価値創出の過程を、「これから担う」ではなく「一緒に」に組み替えることで、関係を編み直すことができそう。
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授業には「身近」と「未知」の両方あることが大事。 子どもの全てを「まるごと」見るということ。 「認知」と「情動」は切り離せない。 関係論的視点から英語教育におけるコミュニケーション能力観を問い直す。
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「学ぶ」とは何か、筆者独自の理論が展開されているが、堅苦しくなくて読みやすい。 その主張は20年経った今でも全然古めかしいとは思えず、ますます危機感さえおぼえてしまうほど。 新書にして教育と関係ない一般の方にも広く読んでもらいたい。
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p.66 学びのドーナッツ論というが面白い。 自我=Iが、第二の自我を育てる二人称的他者と交流する世界がYOU世界である。THEY世界というのは、匿名性をもつ三人称的他者の世界であり、現実の社会・文化的実践の場である。 以前、私の友人「くらしも」が考えていた、「内と...
p.66 学びのドーナッツ論というが面白い。 自我=Iが、第二の自我を育てる二人称的他者と交流する世界がYOU世界である。THEY世界というのは、匿名性をもつ三人称的他者の世界であり、現実の社会・文化的実践の場である。 以前、私の友人「くらしも」が考えていた、「内と外」の考え方に似ているかも。 p.75では、この学びのドーナッツ論が、さらに「学校での学びを育てる接面構造」という話になる。ここでは、教師、子ども、教材の関係が話題となる。教師が、子どもにとってどのような存在であればいいのか、分かりやすい主張が展開されている。 p.140では、 したがって、ドーナッツ論から言えば、先の集団主義と個人主義というのは、同じコインの表と裏のような関係にあり、同じ「YOU的世界の欠落状況」の異なる側面だといってよいだろう。 という主張になり、集団主義と個人主義が表裏一体であることが主張されていく。これだけの引用では分かりにくいと思うが、私としては目から鱗の話であった。 最後に、ぜひ一読をお薦めしたいのが、p.200「問題解決学習と系統学習」の話。 全体として、大学の先生が展開する難しい話かと思って読み始めましたが、教師とは何か、授業とはどうあるべきか、いろいろ考えさせられるよい本に出会うことができました。
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「人はつねに、他者とともに学ぶ存在である」。うーんそうだろうか。。 認知心理学者の視点で教育を語る本。 学び手の周囲をYOU世界とTHEY世界が囲むとする「学びのドーナッツ理論」。 秘密を打ち明けられる、「なってみる」ことのできるYOU的存在を通して、自分が「なってみたい、もう...
「人はつねに、他者とともに学ぶ存在である」。うーんそうだろうか。。 認知心理学者の視点で教育を語る本。 学び手の周囲をYOU世界とTHEY世界が囲むとする「学びのドーナッツ理論」。 秘密を打ち明けられる、「なってみる」ことのできるYOU的存在を通して、自分が「なってみたい、もう一人の自分」に変わるような学びができる。そうした学びと変化を通して、見知らぬ他者であったTHEY的存在とのつながりができる。 そうして自分を広げ、文化に参加していくことが学びなのだと。
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平易なのだが、提示される概念は新規で応用可能性が高い。どうしたらこのような論が書けるのだろうか。問題意識にこだわることの重要さをかいま見る。 ・「動機付け」「やる気」「学ぶ意欲」などをどうやって起こさせるかという話はぜんぶまとめてウソ。どういうことに意欲を持つかは本来、学び手側...
平易なのだが、提示される概念は新規で応用可能性が高い。どうしたらこのような論が書けるのだろうか。問題意識にこだわることの重要さをかいま見る。 ・「動機付け」「やる気」「学ぶ意欲」などをどうやって起こさせるかという話はぜんぶまとめてウソ。どういうことに意欲を持つかは本来、学び手側にあることだから。 ・ワロンの言う第二の自我は、現実世界の一般的な他者に対して通訳の役割を果たす。 ・YOU的他者の二つの側面(親密さと社会性、文化性か) ・善元教諭の残留孤児の子どもたちとの教育活動。擬人化(相手のみになってみる) ・文化の継承とは知識の受け渡しではなく、生活することにある。 ・「モノになってみる」ことによる理解は、「知識」が得られるというよりも、結局は「自分が変わる」ということである。新しい自分として、世界を新しく、今までと違う別の(より本当の)自分との関わりで見直し、また、新しく関わり合う、ということなのだ。 ・「ことば」というのは、道具の一種に過ぎない。ドーナッツ論に拡張すると、「身体化した道具」が他者との接面形成に重要な役割をもつと同時に、道具の身体化に、他者なる存在が重要な役割を持つ。道具と他者の相互浸透性こそが学びを形作っている。 ・文化というのは、「つくる人」だけで構成されているのではなく、「つくる人」と「使う人」、そして「わかる人」との協同で営まれている。「わかる」がなければ、文化ではない、食うか食われるかの関係。 ・ドーナッツ論から言えば、集団主義と個人主義というのは、同じコインの表と裏のような関係にあり、同じ「YOU的世界の欠落状況」の異なる側面である。 ・成長、変化し、個人差が現れるのは、参加の仕方の違いであって、参加しているか否かの違いではない。 ・関係づくりが集団の外側に向かうとき、集団の構成員間は、先輩・後輩の違いはあっても、基本的には「ともに学ぶ者」同士となる。 ・教科が不得意になる原因として、その教科の教師が嫌いだというケースが多いにもかかわらず、情動と認知を別々のものとして扱う理論では説明がつかない。 ・教師は第二接面である「真正の文化へのアクセス」を媒介することに本来の役割がある。 ・底辺校での実践。成功だけなく、非成功もとりあげた。 ・個人の「力」ではなく、関係に着目する。保育園でのケイの事例。 ・フレネ教育の目指すものは、学びの原点を自分探しとし、さらにそれを共同体の相互理解とコミュニケーションの活動に高めていくことにある。 ・勉強は氾濫するが、学びが失われ、希望が失われる。
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ここにあるのは 「自分探しの旅」・・・ ●自分にとって本当に学びがいのあることを探す、ということは、 言い換えると、 本当の自分とは何か?を捜し求める「自分探しの旅」だと言い換えてもいいだろう・・・・・ とある。 学びとは勉強じゃなく、 生きること。。。 それも、 自分...
ここにあるのは 「自分探しの旅」・・・ ●自分にとって本当に学びがいのあることを探す、ということは、 言い換えると、 本当の自分とは何か?を捜し求める「自分探しの旅」だと言い換えてもいいだろう・・・・・ とある。 学びとは勉強じゃなく、 生きること。。。 それも、 自分らしくなるために生きがいのある生き方のこと・・・ そうなんですね。 自分らしく、今日よりも明日よりよくなること。 そして、 ●「なってよかった、本当の私」を探すこと自体に、はじめから絶望感を持っているとき、つまり希望というものをすべて失っているとき「やる気」はまったくおきない。 という。 ですね、まったくそのとおり。 やる気は生きがいとともにそこにあるものなのですね。 そして、 おわりに・・・では、 なりたい自分になりたいけれど・・・失敗するかもと よりよさを求めることへの恐怖を感じることに対して、 こんな風に教えてくれている。 ●・・・・「よくなる」とする実践、そしてその結果が「よりよい」(元へ戻らない)状態の実現だという場合、その「よさ」が、何か絶対的な基準に照らしての「よさ」とは限らない、ということである。 ・・・・ 「新たな問題」を発生させているかも知れず、それは以前よりもっと深刻な問題かもしれない。・・・・そういう「問題」を発生させたから当初の変容は「よくなかった」としたり、それへ向けての実践は「文化的ではなかった」というわけではない。 とある。 つまり、よくなろうと実践することそのものが「いきがい」であり、それは以前より「よい」ということをより理解し、感謝し、味わうことが出来ているということ。 そうなんだ・・・とわかる実践とともに、「学ぶ」=【生きる】をわかりやすく伝えてくれる一冊。
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