大人にはわからない日本文学史 の商品レビュー
「日本文学史」とタイトルにありますが、あつかわれているのは近代以降であり、また文学史のおおまかな流れをたどるものではなく、過去の作品と現代の作品が著者自身の関心のもとへと集められ、それらが共振する読み方を示す試みといえるのではないかと思います。 「「歴史」というものは、鑑賞する...
「日本文学史」とタイトルにありますが、あつかわれているのは近代以降であり、また文学史のおおまかな流れをたどるものではなく、過去の作品と現代の作品が著者自身の関心のもとへと集められ、それらが共振する読み方を示す試みといえるのではないかと思います。 「「歴史」というものは、鑑賞するために壁にかけられた絵ではありません。なんというか、それを使って、誰も考えたことのないヘンテコなものを作りだせるオモチャみたいなものではないでしょうか。いや、そうであるべきなのです」。このように著者は本書の「はじめに」で述べています。 著者は、樋口一葉の『にごりえ』の文章に、現代に通用するリアリズムを見いだし、綿矢りさの『インストール』や『蹴りたい背中』などの文章にそれが継承されていると論じています。また、石川啄木の文章と、ロスジェネ論の代表である赤木智弘のことばをならべることで、「批評」の根拠を問おうとします。さらに著者は、1990年のなかば以降に登場した、阿部和重や中原昌也の小説に、近代文学的な「私」がいないと指摘し、現代文学がたどり着いた場所がいったいどこなのかということを明らかにしようとしています。 論者の読みかたの鋭さを示す評論は多くありますが、本書はむしろ著者自身の読みかたに読者を引き込み、読者がともにたのしむことができるようなことばで書かれています。
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書名は文学史だが中身は明治の近代文学から現在にかけての文学評論 今まで読んだことある文学に対する評価の論として もっともわかったような気がする気にさせてくれる気のする一冊 何しろ読んだ前後でたぶん殆ど明確には良し悪し見分けがわからないので これは良いと例を挙げて評価するのに対し ...
書名は文学史だが中身は明治の近代文学から現在にかけての文学評論 今まで読んだことある文学に対する評価の論として もっともわかったような気がする気にさせてくれる気のする一冊 何しろ読んだ前後でたぶん殆ど明確には良し悪し見分けがわからないので これは良いと例を挙げて評価するのに対し その褒めている理由はわかる気がするが 他と比べてその程度がどうかはよくわからない 面白かったのは文学評論と社会評論の結びつき 文章が時代において違うのは口語の影響でありつまりは時代の下でもある 近代文学に対して現在の文学を比較して その文体と社会のありようを論ずるのは 正しいか正しくないかとかが通用するのかも判らないが面白かった
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いろいろと面白かった。結果として吹っ切れるというか頭のなかがまとまってきそうな感じもするし。高橋源一郎のような感覚の人がいて持つべき疑問をしっかり持っているというあたりが整理されていて良い感じ。読むことを純粋に楽しむ人には用のない本かもしれないけれどかといって読んでおいて損にはな...
いろいろと面白かった。結果として吹っ切れるというか頭のなかがまとまってきそうな感じもするし。高橋源一郎のような感覚の人がいて持つべき疑問をしっかり持っているというあたりが整理されていて良い感じ。読むことを純粋に楽しむ人には用のない本かもしれないけれどかといって読んでおいて損にはならない本。
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村上春樹の読者相談サイトと一緒に読んでるんだけど、これがシンクロニシティな感じなんだよな。村上春樹の小説は音楽的で、音楽的というのが何を意味しているか?というと、根拠が前に鳴っていた音だけであるということ。小説として記されている文字の羅列が小説の構成要素で、それは、始まりをきちんと深く深く考えていけば自然と流れ出るもので、必要とされる技術は観察であるということ。これらは、集団的な無意識につながるようなことであるということ。みたいなことを村上さんが言ってるんだけど、その話と綿矢りさ、樋口一葉の比較をしてOSが違うって論評するあたりがとても近く感じまました。ブーバキキみたいな話だったり、濁音製品名みたいな話だったりもつながるんだけど。
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樋口一葉と綿矢りさの100年を隔てた若い女性の文章の比較から、2人の共通点を語る。「インストール」の人間の五感をフル活用し世界の広がりを感じさせるという表現から惹きこまれた。そして綿矢と国木田独歩もまた。著者が啄木をエロ人間として描いている作品が多いことも、この文脈の中で納得。「ROMAZI NIKKI」の引用は驚き!川上未映子の口語文の不思議な魅力も教えられた。耕治人の痴呆になった妻を特別養護老人ホームに入所させる「そうかもしれない!」を絶筆として紹介しているが、妻の言葉に対して「考えてみると、何一つ亭主らしいことはしていなかった」との言葉は、重く印象に残る。
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はぁ、なんてセクシーな文学史。読みながら何度もため息をつく。感動でうっとりして。 2010年代の今、百年以上も前の1895年(明治28年)に書かれた文学を読み直す意味を、百年前と現在の文学の何が同じで何が違うのかを、例えば、樋口一葉と綿矢りさで読み解く。例えば、石川啄木と赤木智...
はぁ、なんてセクシーな文学史。読みながら何度もため息をつく。感動でうっとりして。 2010年代の今、百年以上も前の1895年(明治28年)に書かれた文学を読み直す意味を、百年前と現在の文学の何が同じで何が違うのかを、例えば、樋口一葉と綿矢りさで読み解く。例えば、石川啄木と赤木智弘で読み直す。例えば「自然」「写生」主義が覆い隠していた「ありのままを見たとおりに書く」政治性を抉る。どこかで借りてきたようなポストモダンの言説ではなく、(1)文学者作家として紡いだ内側の視点と(2)文芸評論家として編んだ外側の視点と(3)先生として学生と一緒に考える捉われない視点とで描く。例えば、「語るべき私」の誕生と消失を見つめて「リアル」の二つの意味、「現実」と「本当」が重ならなくなってしまう地点を発見してしまう。 贅沢で豊かな読書体験をありがとうございました。
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パラダイムを知っているから、OS理論もなんとなく理解できる。 近代と現代の比較文学史のような態をなしているかもしれない。 わかりやすく、なじみやすいし、著者のやさしい性格が伝わってくる。 一緒になって、考えてみようよ・・・っていう感じかな。
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[関連リンク] Twitter / tinouye: 高橋源一郎「大人にはわからない日本文学史」が文庫に。http ...: https://twitter.com/tinouye/status/351003112179380225
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何も考えずにのほほんと学生時代を過ごした僕は、文学や小説を必要としなかった。働き始めてから、世の中の不条理に日々直面するようになって、ようやく同世代・同年代を生きる文学者の声に耳を傾けるようになった。 高橋源一郎の文章には、勢いがある。スピードがある。本書も近代文学史150年を、線で見るのではなく円で見ながら、時にためらいの言葉を発しながらも、時代を経ても変わらない動機や感情、時代とともに変わるもの(OS)、ことばについてグイグイと考察を進めていく。 とりわけ、五日目~六日目の、短歌における時代とともに変遷することば(私の獲得→言葉のモノ化→玩具としての言葉→口語化)を考察することにより、同様のOSの変更のモデルを小説にも導入し、石川啄木と前田司郎を比較するところはとても面白い。綿谷りさと樋口一葉の比較も、同時代の作家を近代文学の黎明期の担い手と対比させることにより、私のような一読者にも、100年前の文学を身近に感じさせてくれるのに加え、前田司郎の「グレート生活アドベンチャー」には、ことばのない世界に身を置く「僕」が「見てはいけないもの」を見るために必要なことばがあり、それが未来の新しい文学的価値である可能性を示すのである。 最終章の「晩年のスタイル」をひいて示した、人間の営みを「自然の領域」と「歴史」に峻別して考えるということの意味は、科学の意味を考える上でとても重要な考え方だと思う。この章についての考察は、まだ十分消化しきれていないので、後日加筆したいと思っているが、とにかく、今の科学が部分的に、「現在」しかない「歴史」の介在しない共同体の上で、モノを扱っていやしないか、という問いを立てる必要があるのではないか?と思った。科学と文学は水と油のようなものではない。どちらが上か、というものではない。手を取り合うべきなのだ。。
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